夢見が悪いのはいつものことだった。
はっと目を覚まして、それが夢であることに安堵しながら、タクミは誰に向けるでもなく小さく悪態をついて身を起こす。
脈打つ心臓を押さえる手が、じっとりと汗ばんでいる。タクミはうなだれて、大きくため息を吐いた。ただの夢だ、と何度も自分に言い聞かせる。
上下する肩がようやく落ち着いてきた頃に、顔にかかる髪をそっと払い除ける手があった。タクミは、おもむろに顔を上げる。心配そうに眉毛を下げたが、瞳で大丈夫かと問いかけている。
「……何でもない」
答える声が掠れていた。
がますます顔を曇らせ、タクミの手に水を握らせる。礼も言わずに喉を潤したその水は、冷たかった。
いつの間に水を汲んできたのだろう。起こしてしまったことにすら気づかなかったタクミが、それに気づくわけがなかった。
の手が、そっとタクミの背を撫でる。
幼子を慰めるようなその仕草が癇に触ったが、それ以上に安堵したし、ありがたく思えた。口を開くのも億劫だったこともあり、タクミは黙ってその手を受け入れる。に当たり散らしたとて、何もならないことはわかっていた。
伏せた瞳をあげれば、相変わらず心配そうなの顔がそこにあった。視線が合うと、が目尻を細めて微笑んだ。タクミを安心させようとしているのだ。
タクミは唇を結んだまま、を抱きしめた。やわらかくて、あたたかくて、ふわりと鼻先を掠める石鹸のにおい。
この身体が血を流して冷たくなっていったのは、そうただの悪夢だ。
がぎゅっとタクミを抱きしめ返す。
まさかを手にかけたのが自分だなんて、夢でさえも許しがたかった。この手は、を守るためにあるのだ。
はあ、とタクミはため息を吐く。
イズモ公国を訪れるのは、これで何度目になるだろう。あのイザナ公王は、頻繁にタクミら王族を晩餐に招く。頻度はもう少し控えて欲しいが、それ自体は問題ではない。
来賓は白夜のみならず、暗夜国のレオンやカミラが同席することがままあるのだ。
白夜と暗夜の諍いは終わった。けれど、互いに傷つけあった過去が消えるわけもなく、まだ自国に残る傷跡も癒えたとは言えない。もちろん、それは暗夜王国にだって言えることでもある──中立国であるイズモ公国が、仲介になって両国を近づけてくれているという見方もできるけれど、実際はただイザナが賑やかしいことを好むだけだろう。加えて、愛する妻の好きな者たちを集わせているのだ。
イザナの妻となったカムイに「こうして一緒に食事ができるなんて、夢を見ているみたいです」と嬉しそうに言われてしまえば、タクミとて無碍にはできない。
オボロが仕立てた晴れ着を身に纏うが、不思議そうにタクミの顔を覗き込む。
を連れてくる気はなかった。けれども「次はぜひ、さんも」と、カムイが無邪気に笑うから、タクミは首を縦に振るほかなくなってしまう。
「……そういえば、はイザナ公に会うのは初めてだったよね」
こくり、とが頷く。それだけでなく、カムイと顔を合わせるのだって、久々のはずである。少し、緊張した面持ちをしていることに気づいて、タクミはの頬を指先で撫ぜた。
「まあ、そんなに気を張る必要ないよ。なんていうか……いや、見たほうが早いかな」
「お待たせ致しました。ご案内いたします」
タクミは立ち上がり、の手をやさしく引いた。
初めて目にするイザナに戸惑っていたようだが、次第に笑顔を見せるにタクミはほっとする。
今回の晩餐の席に、国王となったリョウマとレオンの姿はなかった。忙しくて時間が取れなかったのだろう。はっきり言ってレオンに苦手意識のあるタクミは、内心安堵している。がいる手前、嫌みの応酬などしたくもない。しかも、いつも言い負かされるのはタクミのほうだ。
暗夜王国の来賓であるカミラは、ヒノカやサクラたちと和やかに談笑している。それを嬉しそうに眺めていたカムイが、ふとタクミの顔を覗き込んだ。
「タクミさん、顔色が優れませんね」
「え? ……別に、ちょっと寝不足なだけだよ」
ふい、と顔を背けて、タクミはぶっきらぼうに答えた。
こんな態度をとるべきではないとわかってはいるのだが、そうそう素直になどなれやしない。
小さく袖を引かれ、タクミは振り返る。がイザナと二人で話したがっているので「好きにしなよ」と、タクミは頷く。
「じゃあ、ちょっと向こうに行こうか~。すぐに戻ってくるからね~カムイ!」
人目も憚らず、イザナがカムイの頬に口づけしていく。「も、もうっイザナさん!」と言いながらも、カムイも満更ではなさそうである。タクミは小さくため息を吐いた。何故きょうだいの色事を見せつけられなければならないのだ。
「あらあら、本当に二人は仲がいいのねぇ」
カミラがくすくすと笑いながら言った。
カムイがあたふたしている。緑茶を慌てて飲んで、火傷する始末だ。タクミは呆れた顔をしながら、お茶をすする。
気を取り直すように、カムイが咳払いしてタクミに向き直る。
「実はイザナさん、さんに会ってみたいとおっしゃっていたんです」
「に?」
「はい。さんが神社の娘さんだと言ったら、自分に近しいものを感じたのか興味が湧いたみたいで」
「ふーん、そう」
タクミは素っ気なく相槌を打つ。「義弟のお嫁さんに、一度は会っておきたかっただけかもしれませんけど」と、カムイが照れたように笑った。
神祖竜の末裔たるイザナと近しいなんて、が聞けば卒倒しそうだ。
「それよりも……タクミさん、お忙しかったのでは? 隈もできてますよ」
「別に、大したことないよ」
ぐ、と湯呑みを煽って、緑茶を飲み干す。タクミは席を立った。
「の様子を見てくる」
こちらも仲がいいわね、とカミラたちが笑い合っている横を、タクミは足早に通り抜けた。
「さ、思ったことを口にしてごらん」
まるで公王とは思えぬほど人好きのする笑みを浮かべて、イザナがを振り返った。ぎゅ、と唇をかみしめたが、こくりと慎重な仕草で頷く。
の喉が、引きつるように、不自然に震えた。
の声を聞いた者はほとんどいない。口が利けないのではない。自ら口を閉ざしているのだ。
イザナの手が、の肩を気安く叩く。
柔和に細められた瞳が、ほんのわずかに開いての緊張した面持ちを映し出した。
「わたしが」
の声は細く、かすかな震えを持っていた。が恥じ入るように目を伏せる。
「わたしが傍にいることで、タクミを苦しめているのではないかと、不安なのです」
「そっかそっか。不安になるのもわかるよ~、キミの魔力は強大だからね。だからこそ、ミコト女王が守ってくれていたんでしょ」
由緒正しい神社の娘であるには、小さな頃から不思議な力があった。見えざるものが見えて、言葉には力が宿る。
──お父さんもお母さんも大嫌い! いなくなっちゃえ!
些細な喧嘩だった。子どもらしい癇癪だった。
けれど、ひとを傷つける言葉が実際に命を奪ってしまうなんて思いもしなかったし、何が起こったのか幼子には理解できなかった。ただただ、恐ろしくて仕方がなかった。
それから間もなく、シラサギ城に引き取られることになったが、以来の口は固く閉ざされている。家族のように育ち、心を許したタクミにさえも、言葉をかけることはない。
「最近よく、夜中にタクミが魘されているんです。夢見がよくないとは昔から言っていました。でも、あまりに頻繁で心配で、不安にもなります」
「タクミ王子はどんな夢を見ているの?」
「わたしには何も教えてはくれません。ですが、おそらく……あり得たかもしれない未来、なのだと思います。ミコト様が、わたしが怖い夢を見たときにそんなふうにおっしゃっていましたから」
「なるほどね~。話を聞く限り、キミがタクミ王子の夢に何らかの干渉をしているのは間違いなさそうだ。それと……」
悪いとは思いつつ、廊下で話を聞いていたタクミは、思わず襖を開け放った。が目を丸くしている。「おやおや」と、イザナがのんびりと呟いた。
「待ってくれ。僕がを手にかけるなんて、そんな未来があるわけないじゃないか!」
タクミは腕を掴み、に詰め寄った。
「落ち着いて、タクミ王子。ちゃんの言うあり得たかもしれない未来、はもう過ぎ去ったんだよ~。だから、不安になる必要なんてないよ」
「…………」
「それから、そんなふうにちゃんの力が干渉しちゃうのは、多分ミコト王女が亡くなられて護符の力が弱まっているせいだと思うんだ。この護符に……タクミ王子、その髪紐貰えるかな~?」
あっけらかんとしたイザナの態度に苛立ちながらも、タクミは結い上げた髪をほどき、髪紐を手渡す。
から受け取った小さなお守り袋に、それを入れると「キテスマサナザイ~」とイザナがわけのわからない呪文を唱えた。たったそれだけで、もう終わったらしい。にこりと笑って、イザナがに護符を握らせる。
「これでもう大丈夫~。ちゃんはむしろ、タクミ王子と離れちゃいけなくなったんだ」
「あ、ありがとうございます……」
が頭を下げて礼を言う。
小さい頃から家族のように過ごしてきたというのに、こんなふうにはっきりとの言葉を聞いたのは、これが初めてである。夫であるタクミよりも先に、イザナと会話していたことが少し──否、かなり癪である。
「ちゃんは、タクミ王子に守られている限り、言霊もその効力を発揮しない。だから、思ったことはちゃんと口にすること」
ぴっ、と立てられた人差し指の横に、中指が増えて二本になる。
「それからね~、さっきついでに二人のことを占ったんだけど、もうすぐ親になるみたいだよ~?」
「は?」
「おめでとう! もしかしたら、妊娠したことでタクミ王子に影響を与えていたのかもね。まあ、何にせよ、もう何の心配もいらないってことだよ~!」
じゃあボクは戻ってるね、とイザナが部屋を出ていく。
タクミはと顔を見合わせた。互いにぽかんとしていたが、タクミははっと我に返ると、先ほどと同様にに詰め寄った。
「に、妊娠って!? ほ、本当に?」
「……う、うん。すぐに伝えられなくてごめんね」
タクミは慌てて、を気遣って身体を抱き寄せた。が目を伏せる。
「わたし、不安だったの」
「……」
「大事なひとを失いたくなくて、傷つけたくなくて、何事も悪いほうにばかり考えてしまって」
の長い睫毛の先に、涙の粒が光る。瞬きと一緒にそれがぽたりと落ちた。
タクミはぎゅっとを抱きしめる。
物事を悪く捉えがちなのは、タクミも一緒だ。強がったっていつも不安で、劣等感だってなくなってくれやしない。
「二人一緒なら、いや……僕たち家族が一緒なら、大丈夫だよ」
タクミはの腹部に手を当てる。恥ずかしそうに頬を赤く染めて、が言葉なく頷いた。
「好きだよ、。僕が必ず守るから」
タクミは、己の手はを守るためにあるものだと、信じている。
が顔をあげて、はにかんだように微笑む。
「わたしも、タクミが好きだよ」
この声が、言葉が、これからは耳にできるのだ。そう思うとあまりに嬉しくて、タクミは口元の綻びを隠せなかった。