「え! タクミさん、結婚されていたんですか?」
「はあ? 違うよ、親同士が決めた許婚がいるだけ。リョウマ兄さんよりも僕の方が年が近いから、たまたまいいように宛てがわれただけさ」
「どんな方なんですか?」
「……一応、姫なんだけど小国のせいか腰が低くて、あんまり姫らしくないかな。年に数回会うくらいだから、あんまり許婚っていう感じもしないし、向こうも僕のことなんてそんなに覚えてないと思うけど」


 聞こえてきた声に、はたと足を止める。
 そんなふうに思われていたとは知らなかった。確かに、顔も名前も知らなかったうちに、親同士が盛り上がってしまって初対面で許婚と紹介されたくらいである。お互いが望んだ関係であるわけがなかったが、王族ならではの定めでもある。

「ど、どうしましょう、声をかけづらいです……」

 はユキムラを振り返るが、彼もまた困った顔をしていた。今まさに話の中心となっているタクミの許婚は、のことである。「カムイ様にお声をかけるのは、後にいたしましょうか」さすがは軍師、窮地を切り抜ける知恵を持っている。
 一も二もなく頷いて、はそろりと踵を返す。

「あら? もしかして……ユキムラさん? ユキムラさんじゃないですか!」

 いかに軍師といえど、目論見を誤ることもある。
 カムイが駆け寄って来るのを、よもや無視をすることなどできるわけもない。ユキムラが指先でメガネを押さえながら振り向いた。は思わず、素早くユキムラの背に隠れる。

「カムイ様、お久しぶりでございます」

 ユキムラが丁寧に腰を折ったので、の姿はあっさりと露わになる。きょとんとしたカムイの真紅の瞳がを捉えた。
 タクミの姉君と対面するのは、これが初めてである。暗夜で育ったという彼女は、見慣れない格好をしていた。カムイの背後からタクミが近づいて来るのが見えて、は顔を伏せる。年に数回しか顔を合わせないくせに、許婚ぶってこんな場所まで来てしまって、居た堪れない。

……」

 どうしてここに、と言わんばかりの唖然とした呟き声だった。は視線をあげてタクミの顔を見て、すぐに目を伏せる。

「タクミ様。差し出がましい真似をしてしまい、申し訳ございません。お力添えできればと思い、自国から微力ながら兵を連れて参りました」
「だったら、ユキムラに兵を預けるだけで済んだ話だろ? どうしてこんなところまで来たんだ!」

 びくっ、と肩が跳ねあがる。
 いつも上辺だけの、その場限りの付き合いばかりで、タクミがこんなふうに感情を露わにするところなど見たことがなかった。

「た、タクミさん? どうしたんですか、落ち着いて下さい」
「姉さんは黙ってて!」
「そういうわけには……あの、まず、そちらの方を紹介していただけませんか?」

 カムイが困惑した様子で、タクミを見て、それからとユキムラとを見やる。

「……では、ここは私が。先程お話に上がっていた、タクミ様の許婚である様にございます」

 タクミもも口を開く様子がないと見て、ユキムラが間を取り持ってくれる。
 カムイがぱっと表情を明るくして、の手を取った。

「はじめまして、さん! 私はカムイです。よろしくお願いしますね」

 カムイに真っ直ぐ見つめられて、は一瞬呼吸を忘れた。
 白夜で生まれ、暗夜で育ち、その共に過ごした親きょうだいと袂を分かっただけではなく、敵国として戦う数奇な運命を辿る白夜王国第二王女。この戦いの指揮官だと聞き及んで抱いていた印象とは、だいぶ異なっていた。
 悪意を知らぬような美しく、澄んだ瞳をしている。

 は小国ながらも姫という立場柄、あまりよくない感情を向けられたことも多いし、猜疑心に満ちた息苦しい空気を感じることもあった。そのせいか、空気を読むことばかりが上手になってしまった。波風立たないように気をつけてきたというのに、まさかタクミを怒らせてしまうなんて思いもよらぬ事態である。
 タクミが苛立った様子で、とカムイの手を振りほどかせる。「宜しくなんてしなくていいから」と、呆れたように告げる。

 はタクミを見上げたが、視線が合うことはなかった。心臓が冷えていく。

「申し訳ございません。タクミ様のおっしゃる通りです、配慮に欠けていました」

 深々と首を垂れる。とてもじゃないが、タクミの顔を見ていられなかった。
 あなたが心配で、と言えないのは、がいまだに上辺だけ取り繕っているからだ。タクミにとってはそうでないかもしれないが、には名実ともに許婚として彼が大切なのだ。の気持ちは伝わっているとばかり思っていた。

 顔を俯かせたまま、は自嘲に唇を歪める。

「わたしは皆様の足を引っ張る前に、お暇いたします」
「えっ、帰っちゃうんですか? で、でも」

 コホン、とユキムラがわざとらしく咳払いして、渋い表情でタクミに振り向く。

「タクミ様の言い分は尤もですが、もう少し様のお気持ちを汲んで差し上げてください。ただ待つだけ、というのも辛いものですよ」

 むすっと結ばれたタクミの唇は開かれない。
 タクミさん、とカムイが咎めるように名を呼んでも、視線すら向けない。

 は顔を上げて、ゆるくかぶりを振った。そして、タクミに微笑みかける。

「ご健勝なご様子で、安心いたしました。タクミ様、どうかご無事でお帰り下さいね」

 感情と異なる表情を作ることは、にとってはとても簡単なことだ。「タクミ様がお帰りになられたら、国を挙げての祝言ですね」と、ユキムラが場を和ませる策を講じたが、の慰めにも励ましにもならなかった。
 カムイだけが素敵ですね、と頬を綻ばせた。




 天馬で送ってくれるというカムイの申し出を丁寧に断って、は自国の兵を供につけて帰ることにした。「もう帰っちゃうんですか?」と、残念がるカムイには悪いが、あまり長居してはタクミの機嫌を損ねるだけだ。
 はため息ともつかぬ息を吐いて、満開の桜の木を見上げる。

 リョウマたちへの挨拶も短いものになってしまったが、タクミの御きょうだいはそんなことで腹を立てるほど狭量な人柄ではない。

 ──顔を見られただけでも十分だ。
 そう思うのに、心が浮かばない。曇ってしまいそうになる顔をは伏せて、もう一度小さく息を吐き出す。
 そばに置いてほしいと言ったら、タクミはどんな顔をされるのだろうか。

「姫様、準備が整いまし……あっ、し、失礼いたしました!」

 焦る声を不思議に思いながら、は顔を上げた。今しがた声をかけた兵士が慌てて後退していく姿が見えて、視線をずらした先にはタクミがいた。えっ、と思わず驚きに声が漏れた唇を手で押さえる。

「タクミ様、どうされたのですか?」
「……さっきは、言いすぎたと思って」

 タクミが目を逸らしながら告げる。
 ふわ、と吹いた風がタクミの結い上げた髪の毛を揺らすと同時に、桜の花びらを舞い上がらせた。

「いいえ。軽率な行動を取ってしまったのですから、お叱りを受けて当然です」
「あんたはいつもそうだな」

 タクミが目を閉じて、何かを堪えるように言った。いつもそう、が何を指しているのかわかりかねて、は言葉に詰まる。
 開かれたタクミの瞳が、を真っ直ぐ見つめた。

「僕の言葉を否定しない。失言だって思うときもあるのに、あんたがそうだから……謝れなくなる」
「タクミ様が謝ることなど何一つありません」
「本気でそう思ってるの? 建前なんていいから、僕はあんたの本音が聞きたいんだけど」

 ぐ、とは唇を噛みしめる。他人を不快にさせないため、場の空気を悪くさせないため、いつも顔色を伺って言葉を選んできた。

「あなたを困らせたくありません」

 タクミの姿が涙で滲むので、は顔をうつむかせなければならなかった。

 の本音はわがままばかりだ。そんなものを口にして、タクミに嫌われてしまうのが怖い。ましてや、を「たまたまいいように宛てがわれただけ」「あんまり許嫁っていう感じもしない」と思っているのならば尚更、言えるわけがなかった。
 年に数回、顔を合わせることが楽しみで仕方がなかった。タクミの妻になることは、の何よりも喜びであり、心からの願いだ。

、顔を上げて」

 タクミの手がの頬に触れて、そっと持ち上げる。こぼれ落ちる涙を止めるすべを持たずに、タクミの手を伝っていく。

「困らないから、ちゃんと言葉にしてほしい。いや、僕のほうこそ……もっと言うべきことがあるね。姉さんに言ったのは全部照れ隠しで、本気でそう思っているわけじゃない」

 タクミの親指が伸びて、目尻に溜まった涙を拭った。
 少しだけ明瞭になった視界に、タクミの困ったように笑う顔が見えた。けれど、その顔はすぐに見えなくなって、の身体はタクミの腕中に収まった。これまでタクミと触れ合ったことなどないは、驚きと緊張に身を強張らせる。

「傷つけてごめん」

 タクミの声がすぐそばから落ちてくる。
 は目を閉じて、タクミに身を預けた。背に回された手に力が込められる。

「ここに居てくれないか。僕の目の届くところに、置いておきたい」
「ご迷惑では、ありませんか」
「……あんたが無事に帰れたか心配になるほうが、ずっと迷惑だよ」

 その声はひどくやわらかく響いた。は小さく鼻をすすって、タクミの胸に顔を埋める。抱きつくだけの勇気がなくて、タクミの服の裾をぎゅうっと握りしめる。
 思えば、今まで大事なことすら口にしていなかった。
 は唇を震わせながら、言葉を紡いだ。

「タクミ様をお慕いしています」

 はあ、と重たげなため息が、肩口に触れる。タクミの髪の毛が、頬を、首筋をやさしくくすぐる。

「うん。……僕も、が好きだよ」

 タクミが顔を覗き込んで、仕方ないなというように笑った。「もう泣き止んでくれる?」と、タクミの手が不器用な仕草で涙を拭った。

がそばに居てくれたら、僕はもっと強くなれる気がする」
「タクミ様は、もう十分お強いですよ」

 弓を扱えば他の追随を許さず、刀さえも侍よりも優れた技量を持っているというのに、彼の自己肯定感は低い。きょうだいに対して、劣等感を抱いている。
 タクミが素直でないことも承知している。恥じらいや意固地から出る言葉の裏にある真意も知っている。彼は弱いけれども、強くもあると理解している。だから、はタクミを否定しない。

「あなたは負けません。必ず、わたしの元へ戻ってくる……そう信じております」

 見つめれば、タクミがふいっと視線を逸らした。その頬が赤らんでいるので、の心臓は冷えることなく、早鐘を打つばかりだ。やわらかく眇めたの目尻からぽろりと涙が溢れ落ちたが、もう心は晴れ晴れとしていた。

(素直になることも難しいだけで)