いち、に、さんと無意識に数えていた律動が、弾けるように消えた。シルヴァンは地面に倒れた女生徒を目にしてから、手の内の感触がなくなっていたことに気がつく。
「ひどいです、さん……!」
大丈夫かい、とシルヴァンが口を開くより早く、女生徒が非難がましい声を上げた。
、という名に、ぎくりとシルヴァンの身が強張る。そんなことにも気づかない女生徒が、潤んだ瞳でこちらを見上げた。
「シルヴァンも見ましたよね? わざと足をひっかけて、私を転ばせたんですっ」
「え? あー……いや、」
シルヴァンは言葉を濁しながら、あたりに視線を走らせる。
イングリットが眉を跳ね上げるのが見えたし、またかと言わんばかりに眉間を押さえるディミトリの姿もある。ベレトでさえも、眉をひそめて軽くため息を吐く始末だ。はと言えば、いまだ地べたにうずくまる女生徒を見下ろしてから、シルヴァンを見やった。そこに表情はない。
中途半端に差し出したままのシルヴァンの手を取って、女生徒が立ち上がった。「シルヴァン、もうそろそろはっきり言ってやったら?」と、甘ったるい猫なで声を出して、女生徒がしなだれかかってくる。
「シルヴァンの婚約者に相応しいのは、私でしょう? 親が決めただけのさんなんかより、愛されてる私のほうが、よっぽど──」
ああ、失敗した。もっとものわかりがいいと思っていたから、手を出したのに。
シルヴァンは内心で、舌打ちをする。
もっとも、しがない男爵家の娘の思い上がりを助長させたのは、間違いなくシルヴァンだった。思ってもいない愛の言葉を囁いて、婚約者をないがしろにして、が”するわけもない”嫌がらせとわかっていながら適当に慰めた。
の視線が、再び女生徒に向くことはなかった。歯牙にもかけないのである。
「彼女を婚約者になさりたいとおっしゃるのですか?」
「シルヴァン、あなたという人は!」
当事者であるは静かに口を開いたが、目を吊り上げたイングリットはいまにも槍を手にしそうな勢いだった。
「……まさか、そんなわけないだろ」
「え?」
勝ち誇った笑みを浮かべていた女生徒が、信じられないとばかりに目を見開いた。
「ど、どうして? シルヴァン、嘘ですよね? だって、私のほうが可愛くて、傍にいてほしいって」
「はは、本気にしたのかい? 睦言を?」
「さんは名ばかりの婚約者だって! 親が決めただけで好きでも何でもないって!」
「貴族なんて、大体そんなものだと思うけどねえ」
大きな瞳がみるみる潤んで、真っ赤になった頬を涙が伝い落ちる。
ばちん、とシルヴァンの頬を打ったのは、イングリットだった。「このろくでなし!」と、その言葉に周囲の人々が賛同する気配がした。
女生徒が顔を覆って走り去るのを、イングリットが不憫そうな顔で見ていた。対して、はちらりとも見やしない。興味のかけらもないのだと態度でわかる。
の冷たい指先が、痛む左頬をそうっとなぞる。
「婚約破棄をなさりたいのなら、いつでもどうぞ」
「は? いやだから、そんなこと」
「あら、可愛げのない名ばかりの婚約者なんて、御免なのでは? わたしも、あなたのような不誠実な婚約者は如何なものか、と考えていたところです」
シルヴァンの顔を覗き込みながら、が目を細める。
ゴーティエに相応しい家柄の、紋章を持つ婚約者。この通り、可愛げはない。そんなことは、昔からわかりきったことだった。この婚約は、幼い頃に結ばれたものだ。
ため息を吐く。シルヴァンは、どうしたって首を縦には振れなかった。
「勘弁してくれよ、面倒ごとに巻き込んで悪かった」
もの言いたげにの瞳が瞬かれる。
ぱちん、と手を叩いたベレトが「練習を再開する」と告げた。シルヴァンを責めるような視線がようやっと散っていく。
「お詫びと言っちゃあなんだが、踊りの練習につき合わせてくれ」
「結構です。あなたと違って、わたしにはお相手がいますので」
差し出した手を一瞥して、が踵を返す。残されたシルヴァンを気の毒そうに見る者は、誰ひとりとしていなかった。
ため息を吐くと、それは白くなって風に流されていった。
あれだけの醜態をさらしたというのに、いつの間にかすっかりなかったことにされてしまったようだった。幾人とも踊ったせいで、シルヴァンの脚は棒になってしまった。大広間の熱気が、外気にさらされてようやく冷えていく。
いい加減、笑みを張りつけるのも疲れてしまった。
「……シルヴァン」
今日言葉を交わすのは、これが初めてだった。「まさか、ほんとうにいるとは思いませんでした」と、眉をひそめるが、冷たい風に吹かれて首を竦める。
シルヴァンはごく自然に肩を抱き寄せるも、に冷ややかに睨まれ、それがいかになれなれしい態度であるかに気がついた。がふい、と顔を背ける。寒さのせいか、小さな耳が赤く色づいていた。
「白鷺杯は残念だったな。まあ、相手が悪かったと思うぜ」
「下手な慰めなら結構です」
ぴしゃりと言って、がシルヴァンの手を払いのける。
「先生のご期待に沿えず、情けない限りです。あなたの顔にも泥を塗ってしまいましたね、申し訳ありません」
が悔しげに唇を噛み締める。
そんな顔をさせたいわけではなかった。
シルヴァンはゴーティエ辺境伯の次期当主である。その婚約者に注目が集まるのは、当然のことだ。値踏みするような視線がに向けられていることを知っていながら、シルヴァンは何もしてこなかった。見て見ぬふりをしてきた。
「よせよ、謝る必要なんてないだろ」
ちらりとシルヴァンを見やったが、口を開くことはなかった。冷たい風が頬を撫で、の髪をなびかせる。
「ほら、殿下と踊っている姿なんて、様に──」
「殿下は、わたしに気を遣ってくださったのです。本来、踊るべきあなたが、他の方の手を取られたから」
「…………」
「それなのに、女神の塔に呼び出すなんて。わたしを馬鹿にするのもいい加減にしてください」
そう言ってシルヴァンを睨んだ瞳は、苛烈な色を宿していた。シルヴァンは言葉に詰まるほかなかった。
は何ひとつとして間違ったことなど言っていない。
いつだって、名家の婚約者として恥じぬ振る舞いをして、妬み嫉みを物ともせずに背筋を伸ばすその姿は、シルヴァンには眩しすぎた。
──婚約者として相応しくないのは、己のほうだ。
正しくそう理解していながら、シルヴァンは握ったその小さな手を、離すことができそうにない。呆れた視線が手元に落ちる。
「今さら、何だというのです」
が冷たく吐き捨てる。
「あなたにはほとほと愛想が尽きました。どうぞ、可愛らしいお嬢さんとご結婚されてくださいな」
「……笑えない冗談だな」
「冗談なものですか。ゴーティエの名に胡坐でもかいているおつもり? 慰謝料たっぷりもらって、あなたなんて捨てて差し上げます」
が乱暴に手を振り解く。そうして踵を返すを、シルヴァンは抱きすくめた。
腕の中のやわらかい肢体が、強張るのがわかる。
長い間婚約者でありながら、こんなふうに触れたことは、一度としてなかった。
「そいつは困る」
冷えた耳に唇を寄せて、シルヴァンは小さく囁く。
「……俺が選んだ。じゃなきゃ、いやだ」
親が決めただけの婚約者だなんて、真っ赤な嘘だ。
幾人かいた婚約者候補の中から、シルヴァンが選んで決めたのだ。「はじめまして、シルヴァンさま」と、はにかむその幼い顔は、いまでも鮮明に思い出せる。
大切で大事なものは、いつも壊されたり奪われたり、譲ってきた。それが常だったから、”紋章持ち”であるシルヴァンは、仕方がないと気持ちに折り合いをつけてきた。
けれど、だけは何にも代えがたくて、だから興味がない態度を取り続けた。
もうその必要はないとわかっていてもなお、シルヴァンは態度を変えられずにいる。
その結果がこれだ。ふ、と自嘲の笑みが漏れる。
耳朶に触れた吐息に、の身体がびくりと跳ねた。
寒さのせいか、細い肩が頼りなげに震えている。ふいに、手の甲に温かい感触を覚えて、シルヴァンは瞠目した。
「?」
「あなたは、わたしを何だと……!」
覗き込んだ顔は、涙に濡れていた。思わず、シルヴァンは言葉を失うばかりか、あまりの驚きに身体を硬直させた。その隙をついて、がシルヴァンを押しのけた。
「ふざけないで! 勝手に困ればいい! もう知らない!」
の悲鳴じみた声が冷たい空気を震わせる。弾けて散った涙を、シルヴァンは場違いにもきれいだと思った。
伸ばした手は弾かれたが、シルヴァンは物ともせずに、を腕におさめてしまった。
「俺が選んだ、大事な、可愛い婚約者だよ」
「……っ」
「頼む、婚約破棄なんて言わないでくれ。兄上に……を、盗られたくなかっただけなんだ」
その名を出すのは卑怯だとわかっていたが、弁明するにはそうする他なかった。胸を押し返す手から、おもむろに力が抜ける。
「……シルヴァン、まずは言うべき言葉があるのでは?」
涙で潤んだ瞳が、じとりとシルヴァンを見上げた。
「あー……その、今まで、ほんとうに悪かった」
シルヴァンは思わず背筋を正して、丁寧に頭を下げる。はあ、と重いため息が降ってきて、シルヴァンはそろりとを窺い見た。
「”私のほうが可愛くて、傍にいてほしいって”? ”さんは名ばかりの婚約者だって”? ”親が決めただけで好きでも何でもないって”?」
一言一句たがわずに、件の令嬢の言葉を紡がれて、シルヴァンは一層頭を低くする。
「ほんっとうに申し訳ありませんでした!」
寒空にシルヴァンの声が響いたのち、が小さく噴き出した。
「……ほんとうに、ろくでもないひとですこと」
細めた瞳から零れ落ちた涙に、シルヴァンは手を伸ばした。指先に、じんわりとした熱が伝わる。がその手を払うことはなかった。
「そんなこと、とっくの昔から知っていたことですけれど」
「、」
冷たい頬が、そうっと手のひらに寄せられる。
「…………大事に、してくださるの?」
「も、もちろん! 女神様にだって誓えるさ!」
ふ、とが表情を緩めた。
「でしたら、許して差し上げます」
ほっと胸を撫で下ろしたシルヴァンは、唇を寄せてしかし、の手のひらが口づけを阻んだ。
「婚前交渉は厳禁、ふしだらな行為はお控えください」
「いや、口づけの一つや二つ、」
「大事に、してくださるのでしょう?」
ぐ、と言葉に詰まる。
理性と本能がせめぎ合い──シルヴァンは、両手を上げた。
「……わかった」
「よろしい」
「その代わり、結婚初夜は覚えてろよ?」
「……シルヴァン」
がシルヴァンを睨むが、その顔は林檎のように赤く、恐ろしさの欠片もなかった。