長椅子に座るの後ろ姿を見つけて、シルヴァンは口角を上げた。いつもこの時間には大聖堂で祈りを捧げると知っているが、無駄足を踏むこともなきにしもあらずだ。
「やあ、今日も可愛いね! 君の前では女神様も霞んじまいそうだ」
シルヴァンはの隣に腰を下ろすと、自然な仕草で肩を抱き寄せた。きょとんとした顔でシルヴァンを見たが「こんにちは、シルヴァンくん」と、馬鹿丁寧に挨拶をして微笑む。
肩に置かれた手など微塵も気にするそぶりもなく、シルヴァンの美辞麗句に頬を赤らめることもない。
異性として意識されていないことは明白だったが、シルヴァンにはむしろそのほうが都合がよかった。
「お祈りは終わったかい? このあと、よければお茶でも……」
「シルヴァンくん、ごめんね。今日はちょっと」
「あー……そうか、それは残念。のために、うまい菓子を用意してたんだがなあ」
シルヴァンはわざとらしく、大袈裟に肩を落としてみせた。
こう言えば、が申し訳なく思うと同時に、菓子に惹かれることを知っているからだ。案の定、の顔がみるみる曇っていく。
「ごめんね、シルヴァンくん……」
このあと続く言葉は、埋め合わせ──
「しばらく、シルヴァンくんとお茶も、食事もできない」
「……え?」
思わず、書き間違いではないかと疑うほどだった。シルヴァンは驚きに目を瞠り、まじまじとの顔を見つめる。
「ほんとうにごめんね。シルヴァンくんが嫌になったとかじゃないんだけど」
が申し訳なさそうに目を伏せ、膝の上で合わせた手をもじもじと動かす。
シルヴァンは納得いかずに、つい詰め寄るように顔を寄せた。が恐々した様子でシルヴァンを窺う。結ばれた唇が開かれる気配はない。
「もしかして、誰かに何か言われたのか?」
シルヴァンは有り体に言ってモテる。
その上、遊びと割り切っているつもりでも、相手が本気になってしまうこともしばしばある。シルヴァンの恋人やら元恋人が、に対して嫉妬を抱いても不思議ではない。
一段、冷えたように低くなったシルヴァンの声音に、が慌てて首を横に振った。
「ち、ちがうよ!」
すこしばかり大きくなった声を恥じるように口元に手を添えて、が小さく続ける。
「わたしがシルヴァンくんに相手にされないことくらい、みんなわかってるから」
そこに自嘲や卑下するような響きはない。それが却って、シルヴァンの心を重くさせる気がした。
シルヴァンは、と距離をとる。
「何言ってるんだ、は魅力的だよ。だからこうして、いつも誘ってるんじゃないか」
「またまたぁ~」
からからと笑って、が軽くシルヴァンの肩を小突いた。
「別にいいの、シルヴァンくんと話すのは楽しいし。でも、さすがに美味しいもの食べ過ぎちゃったかなーって」
へへ、とが照れ臭そうに笑う。体型の変化は見られないように感じるが、確かにシルヴァンはを食べ物で釣って、女生徒の情報を得ていた。のおかげで、ほとんどの女生徒の名前はもちろん、趣味や好物を把握している。
を利用している自覚はある。しかし、朗らかで、表裏のないその性格を好ましく思うのも確かだ。
「そうかい? 俺には全然変わったようには見えないけどなあ」
「脱いだらすごいよ? なんちゃって」
冗談めいて、が身をくねらせる。シルヴァンと違って、しっかりと上着の釦を止めているので身体の輪郭はほとんど拾えない。
が肩に置かれたシルヴァンの手をやさしく払って、立ち上がる。
「お茶なんかしなくても、何か聞きたいことがあるなら聞いてね。わたしの知ってることなら、教えるし」
「ま、待ってくれ。俺は……」
その先の言葉が喉の奥でつかえる。
薄っぺらい言葉をこれ以上重ねて、何になるというのだ。シルヴァンの伸ばした手は、に届くことはなかった。
「じゃあ、わたし行くね」
「あ、ああ……」
ひらひらと手を振るを見送って、シルヴァンはため息を吐いてうなだれる。
利用されていると知りながら、これまでシルヴァンに付き合ってくれていたのか。思った以上に、胸が軋むことが、シルヴァンは不思議だった。
宣言通り、それ以来がシルヴァンの誘いに首を縦に振ることはなかった。
寂しいような、それとはまた違うような、不明瞭な感情がシルヴァンのうちで渦巻いている気がする。はっきりいって、これまでを恋愛対象として考えたことは一度としてなかった。
が媚を売ってくることはなかったし、ゴーティエの嫡子と知っても態度を変えることもなかった。何より、他の女にうつつを抜かそうとも、それを咎めることもなかったのだ。
単純に、興味がなかっただけかもしれない。利用しているつもりが、利用されていた可能性もある。ただで美味しいものを食べさせてくれる、都合のいい男──そう思うと、己が滑稽に思えて仕方がなかった。
つい、いつもの癖で大聖堂に足を運んでしまったシルヴァンは、見回した先にメルセデスと談笑するの姿を見つけた。
「、今日もお祈りかい?」
が顔を上げて、ぱちぱちと瞳を瞬く。メルセデスに見向きもしないことが、不自然に見えたのかもしれない。
シルヴァンは「二人が揃うと、花が咲き誇るようだなあ」と、メルセデスにも笑いかける。
「こんにちは、シルヴァンくん。今日はもう終わったから、わたしはこれで失礼するね」
そそくさとが立ち上がって「またね、メルセデスちゃん」と、やはり 馬鹿丁寧に挨拶をする。
避けられたかのような態度に、シルヴァンは思わず唖然としてしまう。
「行っちゃったけど、いいの? に声を掛けたんでしょう~?」
柔和なメルセデスの笑みは、シルヴァンの心を癒してはくれなかった。
シルヴァンは慌ててを追いかけた。
「、待ってくれ」
「わっ! シルヴァンくん?」
手首を掴んだ引き止めると、がひどく驚いた顔で振り返る。
「メルセデスちゃんはいいの?」
「メルセデス?」
「えっ? だって、メルセデスちゃんとお話したかったんだよね?」
が不思議そうに首を傾げる。
ただひたすらに、善意からの行動なのだとわかって、シルヴァンは当惑する。
──こんな女性を、シルヴァンは知らない。
自分とは全く異なる存在に対して、シルヴァンは己の根幹が揺らぐように感じた。同時に、途端にのことがわからなくなる。
「……いや、俺はと話がしたい」
の瞳が鮮やかに見開かれる。「わたしと?」と、驚きながら自分を指差した。
シルヴァンは頷く。
「だから、そうだな……街に出かけないか?」
餌付けじみた行為ばかりしていたので、をこんなふうに誘うのは初めてだった。悩んだ末にの首は横に振られた。
「これからドロテアちゃんと予定があって……せっかく誘ってくれたのに、ごめんね」
あまりに申し訳なさそうに言うので、シルヴァンのほうが悪いことをした気になるくらいだ。
「いや、こっちこそ急にごめんな。また誘うよ」
がぺこぺこと頭を下げながら、去っていく。
無意識のうちに握った拳がじんわりと汗ばんでいて、シルヴァンは己の緊張を知った。
前方から歩いてくる二人組が女生徒であると認識して、シルヴァンは口角を上げる。顔と名前を一致させるために視線を走らせて、シルヴァンは瞠目した。
「?」
「あ、シルヴァンくん」
「……っと、やあ! ドロテアちゃん」
足を止めたの横には、予定があってとの言葉通りにドロテアが並んでいた。
「あら、とってつけたように言わなくても構いませんけど」
「いやいや、俺がそんなことをするわけないだろ? ドロテアちゃんが誰かのおまけなんてあり得ないね」
言葉はドロテアに掛けながらも、シルヴァンの意識はに向いていた。
すぐにだと気づくことができなかったのは、いつも着込んでいる上着がないからだ。
「、その格好は……」
もちろん、上着の下は指定制服の襯衣だ。けれど、目がいくのは釦が弾けそうな胸元だ。脱いだらすごいよ、との声が脳裏をよぎる。
シルヴァンは、肩に引っかかるだけの己の上着を、に着せてやる。きょとんとした顔が、すぐに破顔する。
「ありがとう。魔法でちょっとやらかしちゃって」
「ちゃん、私先に行くわ」
「あ、うん、またね。ドロテアちゃん」
あっさりと去っていくドロテアを手を振って見送り、がシルヴァンに向き直った。
「でもシルヴァンくん、わたし寒くないから大丈夫だよ?」
「そう言う問題じゃないとおもうんだが……」
「うん?」
「無自覚か……たちが悪いな」
「シルヴァンくん?」
はあ、とため息をついたシルヴァンを見上げて、が瞳を瞬く。
何と言えばいいのかわからずに、シルヴァンは言葉を詰まらせる。を性的な目で見ることが、いけないことのように感じてならない。
「あー……いや、それより怪我はなかったのか?」
「おうさ! なんてね、へへ。見ての通りピンピンしてるよ」
がシルヴァンの口真似をするが、ちっとも似ていない。ふ、と自然に口元が緩む。
「なあ、これから時間はあるかい?」
頷いたが「じゃあ、わたしの部屋においでよ」と、屈託なく笑った。その笑顔が眩しく感じて、シルヴァンは目を細めた。
「あ、そういえばお互いお部屋に呼ぶのは初めてだねえ」
のんびりと言いながら、がシルヴァンの上着を衣紋掛けに吊るして形を整える。「シルヴァンくんの制服、いい香りがするね」と、何とはなしに言われた言葉に、シルヴァンはぎくりとする。それは、シルヴァンの香水などではないからだ。
「は、はは……そうかな?」
「うん。わたしよりもよっぽど身嗜みに気を遣っててすごいなぁ……あっ、上着は洗って返すね!」
が勢いよく振り向いて、その拍子に胸元の釦がひとつ弾け飛んだ。
転がる釦を唖然と見つめたが、慌てて胸元を両手で抑える。
「わーごめんね、お見苦しいところを!」
「あ、いや、」
シルヴァンはちらりと見えたふくよかな谷間を忘れようとかぶりを振り、に背を向けた。
「代えの上着が……あった! ふう……シルヴァンくん、こっち向いても大丈夫だよ」
振り向いた先にはいつもの制服姿があって、シルヴァンは安堵する。「ね、脱いだらすごいでしょ?」と、がおどけるように笑って肩を竦めた。
「……まあ、ある意味すごいな」
「えーっ、そこは否定してよぉ! わたしだって女の子なんだからねっ」
が唇を尖らせて、不満を伝えてくる。ひどく気やすい態度で、軽くシルヴァンを叩くには、恥じらう様子は微塵も見られない。
シルヴァンは、なおも叩こうと振りあげられたの手を捉えた。
「む、反撃する気……」
「が女の子だってことくらい、わかっているさ」
「え?」
「こそ、俺が男だって理解しているか?」
え、と動いたの唇からは音がなかった。じっと見つめれば、が気まずそうに視線を逸らす。
「ど、どうしたの、シルヴァンくん」
「男を簡単に部屋にあげるなよ。俺以外にもそうなのか? 無防備すぎて不安になるくらいだ」
「シルヴァンくん? ううん、部屋に招くのはシルヴァンくんが初めてだけど」
ぎゅ、と手を握りしめると、が戸惑いに視線を彷徨わせる。「どうしたの?」と、が途方に暮れたように、呟くように問いかける。
シルヴァン自身もよくわからない。けれど、この手を離したくはなかった。
に初めて声を掛けたのは、翠雨の節を過ぎてようやく雨が降らなくなった頃だったと記憶している。
理由なんて特になくて、何となく目についたから声を掛けたに過ぎなかった。強いて言うなら、ファーガスに行った際に買ったブルゼンがまだ余っていたからで、それをうまそうに食べてくれそうに見えたからかもしれない。
──こんなふうに覚えているのは、がブルゼンを食べて「おいしい!」と顔を綻ばせてはしゃいだからで、その様を見てシルヴァンの冷えた心が温まるような気がしたからだ。
帝国貴族で、紋章持ちで、何不自由なく育ったのだろう呑気さとおおらかさは、時にシルヴァンを苛立たせたが、それ以上にとの関わりは心が安らぐものだった。
利用していたのではなかった。
女生徒の情報を得る、というのはただの口実に過ぎなかった。
そんなことに今さら気がつくなんて、どうかしている。
「俺に自分は相手にされない、って前に言ってたよな」
「……うん」
「あれさ、撤回してくれよ。俺は、がうまそうに飯を食う顔が好きだし、馬鹿正直で疑うことのない素直さが好きだし、俺を色眼鏡で見ないところが好きだ」
「え? え? シルヴァンくん?」
己の頬が熱を持つのがわかって、シルヴァンは思わず顔を伏せた。心の篭っていない美辞麗句ならばいくらでも吐けるくせに、肝心なことは伝えるのが難しい。
「なあ、ひとつくらいは俺の好きなところがあるか?」
シルヴァンは己を知っている。
価値も、周囲の評価も、素行の悪さもすべて理解している。
「いっぱいあるよ! いっぱいあり過ぎて、語り尽くせないぐらい。だから、ゆっくりお話しようよ」
握っていないほうの手が、シルヴァンの手に重ねられる。顔をあげれば、がはにかむように笑んだ。その頬がほんのりと色づいている。
「……そうだな」
ふ、とシルヴァンの口角が無意識に上がる。
のその好きが、シルヴァンと同じものではなかったとしても、これから伝えていけばいいのだ。薄っぺらい言葉ではない。もし本音を言い淀もうとも、ならば耳を傾けてくれるとシルヴァンは知っている。
「えーっと、じゃあ、お茶淹れようか」
が手を離して立ち上がろうとするのを引き止めて「もう少しだけこのままで」と、シルヴァンは懇願するように言った。困惑しながらも手を握り返してくれるが愛おしいが、それを口にする勇気はまだ出そうになかった。