授業が終わってすぐに、幼なじみたちは揃って訓練場に向かってしまった。とてもじゃないが、シルヴァンには真似できない真面目さだ。これからどうしようかな、と思っていたところに「ちょっといいかな?」と頭上から声が降った。
シルヴァンは顔を上げて、笑みを浮かべる。
「勿論! どうかしたかい?」
「あのね、イングリットいますかって他学級の生徒が来てるんだけど……」
「イングリットに?」
お茶や食事の誘いじゃなかったことを残念に思いつつ、シルヴァンはかすかに眉をひそめた。
頷いた女生徒が、申し訳なさそうに眉尻を下げる。
「イングリットいないみたいだし……たしか、幼なじみでしょ? 私、先生に呼び出されてて、あと任せてもいい?」
「おうさ、俺が責任持って対応するよ」
片目を瞑って笑って見せるが、顔を赤らめることもなく女生徒はさっさと行ってしまう。シルヴァンは小さくため息を吐く。
まだ士官学校に入学して、半節しか経っていない。
話しかけてきた女生徒の名前を今頃になってようやく弾き出しながら、頬杖を付いて教室の入り口を見やる。イングリットの見た目に騙された哀れな男を探したが、そこにいたのは見慣れぬ女生徒だった。ぱち、とシルヴァンは垂れた瞳を瞬く。
「やあ、イングリットに何か用かい? 伝言があるなら、俺が伝えておくよ」
不安そうに教室内を見ていた視線が、シルヴァンを捉える。
身丈がある分、威圧感を与えがちなので、シルヴァンはすこし距離を取って声をかけた。遠目で見てわかっていたが、頭のてっぺんから爪先まで手入れの行き届いた、貴族然とした女生徒である。
ふさふさと音を立てそうなほど、長い睫毛が瞬きのたびに忙しなく動く。緊張しているのか、胸の前で組まれた手が小さく震えていた。
「いえ、出直します」
くるりと教室内を見回した瞳が伏せられる。俯きがちになって、頭のつむじがよく見えた。
「おっと、まあ待ちなよ。イングリットなら、今ごろ訓練場で槍を振ってるだろうさ」
踵を返しかけた女生徒が、ぱっと顔を上げる。沈んだ表情が一変して、丸い瞳が期待を込めてシルヴァンを見上げた。
「本当ですか?」
「ああ。なんたって、殿下を持ってして騎士の中の騎士と言わせるくらいだからなぁ」
「ディミトリ殿下に」
感心したように女生徒が呟いて、唇に指先を押し当ててながら小さく笑った。
「そうだ、ちょうどいい。俺も鍛錬に行こうと思っていたところでね、一緒に行かないかい?」
シルヴァンは大仰な仕草で手を差し出した。
恥ずかしそうにすこし顔を伏せた女生徒が、その手を取ることはなかった。
訓練場ではディミトリとフェリクスが手合わせしているのを傍目に、イングリットが素振りに励んでいた。シルヴァンに気づいたイングリットが、訝しげに眉をひそめて手を止める。
「珍しく、真面目に鍛錬する気にでもなった?」
棘のある物言いである。ここで言い返せば、ほかの幼なじみからの援護射撃が飛んでくることを見越して、シルヴァンは肩を竦めるにとどめた。
「イングリット、お前に用事らしい」
イングリットの視線がシルヴァンから外れて、睨むようだった双眸が鮮やかに見開かれる。
「……?」
イングリットが呟いた名前には聞き覚えがあった。
シルヴァンの頭の片隅に追いやられていた記憶が、弾けるように思い出される。「イングリット!」と、シルヴァンに対する態度とは雲泥の差で、女生徒がイングリットに駆け寄った。
まるで本気の斬り合いのように打ち合っていたディミトリとフェリクスまでもが手を止めて、振り向く。
「、? 王宮で迷子になっては殿下に泣きついてた? 剣の稽古に混ざって、フェリクスにコテンパンにされて泣き喚いた?」
「シルヴァン! を辱める真似は慎んで!」
きっ、と吊り上がったイングリットの瞳が向くと同時、不思議そうに瞬く瞳もまたシルヴァンを見上げた。
「シルヴァン? どこに……」
「どこにって、おーい? この色男が目に入らないのか?」
「……え?」
「ん?」
「え?」
おどけたシルヴァンを見つめる瞳が、長い睫毛を何度も何度も上下する。困惑しているのがわかって、シルヴァンはイングリットと視線を交わした。イングリットも不可解そうに首を傾げる。
「嘘……だって、シルヴァンは女の子でしょう?」
ディミトリが思わず、というように槍を手から落とした。フェリクスが珍しく、呆けた顔を晒している。イングリットが指先でこめかみを押さえた。
シルヴァンの脳裏に「お嬢ちゃん」と、憎しみのこもった兄の声が過ぎる。
とこうして顔を合わせるのは、十年ぶりくらいだろうか。王宮での出来事は、シルヴァンが六、七歳の頃で、はそれより二つほど年下だ。詳しい事情は知らないが、王国を出て帝国に移り住んだはずだ。
いくら女好きのシルヴァンとは言え、顔を見ても思い出せなかったのも無理はない。
「お前、それは本気で言っているのか」
ズカズカと近づいてきたフェリクスが、掴みかかるような勢いで言った。がたたらを踏むように後ずさる。
とん、と後頭部がシルヴァンの胸に当たる。
振り返ったが頭を押さえて、慌てて身を離した。その顔は真っ赤だ。常ならば、可愛いとかそんな言葉が口をついて出たのかもしれないが、シルヴァンはため息交じりの苦笑を漏らす。
「ま、まあ落ち着いて! 、見ての通りシルヴァンは男性です。それも、あまり近づいてはいけない部類の……」
「待て待て、イングリット。俺を辱めるのはいいのか?」
思わず口を挟んでしまうが、イングリットはちらりともシルヴァンを見ない。
槍を拾ったディミトリが、壁際に控えていたドゥドゥーを伴って近づいてくる。はっと息を飲んだが、背筋を正してディミトリに向き直る。
「ディミトリ殿下、ご無沙汰しております。ご挨拶が遅くなってしまい、申し訳ございません」
胸に手を当てて、一礼する。
その洗礼された仕草は、あの泣き虫だったとは重ならなくて、シルヴァンは内心で動揺する。記憶の中の幼い女の子は、まだ泣き顔でシルヴァンを見つめているというのに。
「、そんなに畏まらなくてもいい。しかし、本当に久しぶりだな」
ディミトリが微笑む。その隣で、フェリクスがフンと鼻を鳴らした。
顔を上げたがディミトリとフェリクスの顔を交互に見て、それからシルヴァンを窺うように見た。そして「ディミトリ殿下と、フェリクスくんと、シルヴァン……くん」と、声に出して確認する。
余所余所しく愛想笑いを浮かべて、がイングリットの傍に身を寄せる。
「殿方は、すぐに大きくなっちゃうのね……」
イングリットの背に隠れながら一際背の高いドゥドゥーをちらと見て、がどこか寂しげに呟いた。
食堂を見回して、シルヴァンはすぐにその姿を認めた。
背筋の伸びた座り姿も、食具を扱う所作も、惚れ惚れするほど美しい。食事を乗せた盆を片手に、シルヴァンはその目の前の椅子に手をかけて席に座る。
「よう、」
が馬鹿丁寧にも一度食具を置いて、シルヴァンと視線を合わせる。驚いた顔こそしていないが、動揺しているのが丸わかりで睫毛が忙しない。
「おっ、いいねぇ! 俺もそれが昔から大好物でね」
「え……よ、よかったら一口どう?」
笑みをかたどったシルヴァンの唇が、ひくりと引きつる。
それに気づいたがぎこちない微笑みを引っ込めて、俯く。シルヴァンもそうだが、もまた距離を測りかねているようだった。再会してから数節過ぎてもこの有り様である。
十年も顔を合わせてなければ、当たり前かもしれない。まして、にしてみれば同性の親友だと思っていた相手は、異性だったのだ。戸惑わないわけがない。
「はしたないことを言って、ごめんなさい」
「俺はもらってやってもいいんだかなぁ、周りの視線が痛くてしょうがない」
「周りの……?」
が戸惑い、視線を彷徨わせる。
「ま、気にすんなよ」
チラチラとこちらを伺うような視線がいくつもある。シルヴァンを咎めるようなものから、を羨むものまで様々だが、他学級で関わりのなさそうな組み合わせが周囲の興味を引いたらしい。
そういう人目を気にしてしまうのは、生きづらさに繋がる。シルヴァンは自分に嫌気がさす。
が目を伏せて、肉叉を手に取った。短く整えられた爪が、彩られたわけでもないのに綺麗だった。
「なぁ、本気で騎士を目指すのか?」
カチッ、とが音を立てて肉叉を置いた。挑むような眼差しで、がシルヴァンを見る。
泣き出しそうにその瞳が揺らぐ。
「いけませんか」
食卓に置いた肉叉を握る手が、震えていた。
ほっそりとした指先は、とてもじゃないが剣や槍を握るようには見えない。イングリットのように、幼い頃から剣を握り続けてきた手ではなかった。
シルヴァンはわざとらしく、大仰に肩をすくめる。
「まさか。の人生は好きにしたらいいと思うさ、ただ人には向き不向きがあるんじゃないかと思っただけだ」
の唇が何かを言いかけるように戦慄くが、言葉はなかった。
女性と共に取る食事だと言うのに、それ以降は会話らしい会話もなく、味もよくわからなかった。かき込むように平らげて、シルヴァンは席を立つ。
先に食べ終えて待っていてくれたが立ち上がる気配はない。
「」
「……何だかごめんなさい、せっかくの食事を台無しにしてしまって」
「何言ってんだよ。俺が後から勝手に来たんだ、お前が気に病む必要がどこにある?」
むしろ、この場の空気を悪くしてしまったのは、間違いなくシルヴァンだ。
「一人で静かに食べてるところを邪魔して悪かったよ」
の分の盆を持ってやれば「ありがとうございます」と、丁寧に頭を下げる。
幼なじみとは違う。ただの同級生とも違うし、口説く対象とも違う。にどう接すればいいのか、シルヴァンにはわかりかねる。もう、昔の関係には戻れやしないのだ。
いつかと同じようにフェリクスに剣で打ち負かされた挙句に「この体たらくで、よく騎士になりたいと口にできたものだ」と、容赦ない言葉を浴びせられたと言うのに、が泣き出すことはなかった。
はっきり言って、に剣術や槍術の才能はない。
体格が華奢で、筋力がつきにくい体質のようだし、運動神経も並みだ。動体視力に優れるわけでもない。幸いなのは、魔術の才能に恵まれていたことだろうか。
「何で騎士にこだわるんだ?」
出立や立ち振る舞いからわかるように、が騎士として育てられていないことは明白だった。ガルグ=マクに来たのだって、騎士になるためではないはずだ。
は紋章を持たない。
いつもいつも、紋章持ちの兄のおまけみたいな存在だった。
大浴場から出たばかりなのか、長椅子に座るの髪がしっとりと濡れていた。つま先を見つめたまま、が顔を上げることはなかった。
「小さい頃の夢を叶えたかったんです」
「夢ねぇ……」
シルヴァンには夢なんて、そんなものはない。望むだけ無駄だと知っているからだ。
「お兄様に意地悪されているお友だちを、守ってあげたいと思ったんです」
シルヴァンの心臓が跳ねる。一瞬、呼吸が詰まった。
そりゃ大層な夢だな、と軽口を言おうと動かした唇からは、呼気しか漏れなかった。
にマイクランのことを話したことがあっただろうか。全くもって記憶にないが、が知っているということは何処かから耳に入ったのだろう。貴族は口が軽い。特に、人を貶めるような話は好まれる。
「……でも、もう必要なかったね。あなたは、わたしなんかよりずっと強い」
が顔を上げる。眉尻を下げて、微笑んだ顔がいまにも泣き出しそうに見えた。
その通りだよ。お前に俺が守れるかよ、むしろ俺が守る方だろ。馬鹿だな、。騎士なんて全然似合わないのに、無理して手に肉刺作って、本当に馬鹿だよ。
それらの言葉が全て、頭の中で消えていく。
「意地悪な兄上なんて、もう何処にもいないから、平気さ」
言おうと思っていた言葉は何一つ紡げずに、吐息まじりに吐き出した声はみっともなく震えていた。
シルヴァンは、小さくて華奢な身体を抱きしめる。
はもう、泣き虫だった女の子ではない。シルヴァンも、女に間違われるような子どもではない。の小さな手が、シルヴァンの背をやさしく撫でる。
「シルヴァン、もう隠れて泣いたりしないで」
──どうしたの? だいじょうぶ、わたしがそばにいるよ。
小さくて柔らかい手が、いまと同じように背中をさすってくれた記憶が蘇る。
泣き虫だったのは、だったはずだ。
はは、とシルヴァンは力なく笑う。部屋の片隅で膝を抱えて泣いていた子どものことなんて、とっくに忘れていた。
「誰が泣くかよ。じゃあるまいし」
「……迷子になっても殿下に泣きついたりしないし、フェリクスくんにコテンパンにされても泣き喚いたりしません」
「へえ、そりゃ随分成長したもんだな」
「だって、もう立派な淑女ですもの。わたしにも、甘い言葉を囁いてもいいんですよ」
は、と意味もない言葉がシルヴァンの口から漏れる。
確かに器量が良くて、品もある。けれども、を口説き落とす気になんて到底なれなかった。
付き合って、別れる。そんな関係になるのは御免だ。
「よせよ、お前にそんな真似できるかよ」
かと言って、昔のようなただの友だちでは、きっと満足などできないのだ。柔らかくて温い身体をいつまでも解放できないのが、何よりの証拠である。