「ごめんなさい。でもどうか、父を許してあげてね……」

 反乱の鎮圧に当たったアッシュにはそう言ったが、他ならぬこそが実父であるロナートを許せそうになかった。義父としてとても慕ってくれていたアッシュに、こんな辛い思いをさせてしまった。
 兄のことはも悲しかったし、あまりに信じがたかった。けれど、それは今回も同様である。

 やさしい父が領民を巻き込んでまで、教団に反旗を翻すなんては考えもしなかった。そうまでして、兄の無念を晴らしたかったと言うのだろうか。
 亡骸は何も語らない。
 これが父の本意だったのか、にはもはや確かめるすべはない。


 すまない、とロナートは言って、を部屋に閉じ込めた。謝るくらいなら、理由を話してほしかった。共に、兄のために何かをしたかった。
 外の喧騒をただ聞くことしかできなかったなんて、恥ずべきことだ。父のために戦い、命を落とした領民たちに顔向けができない。民に剣を向けることになってしまった士官学校の生徒たちにだって、頭が上がらない思いだ。

 目の前が暗い。地に足をつけているはずなのに、足元の感覚がひどく鈍い。
 ふいに手を取られ、は顔を上げる。「手をお貸ししますよ、お嬢さん」と、言葉だけならひどく場違いなほど戯けたふうだったが、その声音は静かで沈痛な響きを持っていた。明るい橙色の髪に目に入って、は思わず瞳を眇める。
 制服を身につけていることから生徒であるとわかったが、アッシュよりもよほど大人びて見えた。やさしげに目尻を垂らした瞳に反して、眉はぐっとつり上っている。

「ありがとうございます」

 大きくて、すこしだけかさついた手は、の手をそっと握った。






 監視の意味も多分に含まれているとわかっていたが、大修道院に身を寄せることができたのは、にとって幸運だった。とてもじゃないが、あのままガスパール領を治められるとは思えなかった。気持ちの整理には時間を要する。何より、教団に対する不信感や恐ろしさよりも、実の弟のように思っているアッシュが傍に居る安心感のほうがずっと大きかった。
 一節、二節と過ぎて、は士官学校の生徒や教師とはだいぶ打ち解けられるようになったし、ここでの生活にも慣れてきた。笑うことも増えた。

 ただ、夜はなかなか眠ることのできない日々が続いている。
 皆が寝静まった大修道院は静謐で、人の溢れる昼間と比べるとひどく厳かのように感じた。
 はじめこそビクビクと歩いていたものだが、同じようになかなか寝付けないというフレンや、仕事が長引いたという先生との時間を過ごすうちに、暗闇に対する不安や恐怖はなくなっていた。

 頬を撫でる風がすこしばかり涼しく、湿っていた空気が乾き始めている。季節の移ろいを感じて、はそれと同時に時の流れを思う。
 未だ、はロナートを許す気持ちにはなれない。


 ぽん、と背後から肩を叩かれて、は思わず飛び上がった。アッシュほどではないが、幽霊の類は得意ではない。は慌てて手のひらで口を覆って、悲鳴を抑え込む。
 振り向いた先で、目を丸くするシルヴァンが肩に置く形のまま手を固まらせている。

「そんなに驚かせちまうとは……いや、ごめんな」
「いえ……こちらこそ、すみません」
「血の繋がりはないのに、怖がりなところはアッシュに似てるんだな」

 はは、とシルヴァンが笑うが、それはの抱く彼への印象とはすこし違って、静かで力ないものだった。朗らかで明るい、そんな顔ばかりではないらしい。
 はドキドキと忙しない心臓を手で押さえながら、シルヴァンを見上げた。
 アッシュよりも三つ年上である彼が、大人びて見えるのは当然だった。

「アッシュには言わないでください。あの子の前では、姉ぶりたいのです」

 同じように怖くてもいつも強がったふりをして、アッシュの手を引いた。これからもそうでありたいと思う。いつまで彼の義姉でいられるのかは、わからないけれども。

「了解。こんなに綺麗なお嬢さんに頼まれたら、断れないなあ」

 けれど、がたとえ男だったとしても、無下に断ることはないのだろう。「ありがとうございます」と、は小さく頭を下げる。
 ふわっと芳しい香りが鼻先に触れた。

 シルヴァンの噂はよく耳にしていた。度々夜遊びに出かけていることも聞き及んでいたが、こうして夜に出会うのは初めてのことだった。もしかしたら、シルヴァンが意図的に避けていた可能性もある。
 だとしたら、こうして声をかけてきたことにも、何か意図があるのかもしれなかった。

「シルヴァンさん」

 言葉を交わすのは、実のところあの反乱での短いやりとり以来である。
 仲良くなったフレンからは到底信じられないような彼の噂話を聞いたものの、はシルヴァンに苦手意識があるとかではない。が日中はあまり部屋を出ないため話す機会もなく、部屋を訪ねてくる親しいアッシュや女生徒以外とはそれほど交流を持っていないのだ。

「すこし、歩きませんか?」
「……いいのかい? もちろん、喜んでお供しますとも」

 シルヴァンが自然にの手を取った。あの日と同じく、大きくてすこしだけかさついていた。




 シルヴァン=ジョゼ=ゴーティエ。
 ゴーティエ家といえば、代々王国を守ってきた名門貴族である。ファーガスの最北端にあり、同じファーガスであるがガスパール領とは距離があるため、は名前しか知らなかった。もちろん、彼に兄がいることも、その兄が廃嫡されていたことだってすこし前に聞いたばかりだ。

 シルヴァンの口数は少なかったし、も話し上手なほうではない。けれど、はこの沈黙の時間が嫌いではなかった。

「何の感慨もない、と思ってた」

 きゅ、と繋いだ手に力が込められる。けれど、それは頼りなさを覚えるほどに、弱々しい。

「……兄上の賊の残党を討伐させられてさ」

 シルヴァンが呟くように、ぽつりと言葉を落とす。
 課題となったゴーティエの家督争乱については聞いていたが、こちらは初耳だった。は黙ったまま、シルヴァンの横顔を見つめた。視線が絡むことはない。

「色々考えちまうんだよな、静かな部屋に一人でいると特に。ああ、もしかしたら君もそうなのかなあなんてことも、思ったり」

 ふいに、シルヴァンがこちらを向いた。
 朗らかで明るい、なんて印象とは程遠い、寂しげな微笑みがを見つめる。

「ここ最近は、夜が長くてしょうがない」

 にはシルヴァンの気持ちはわからないし、シルヴァンだっての気持ちを理解することはできないだろう。
 は瞳を伏せて、そっと手を握り返した。

「わたしは、夢を見るのが怖くて眠れないのです。父や兄の夢を見ると、起きたときに途方もなく悲しくて、虚しくなってしまうから」
「……ロナート卿も、君の兄上も、やさしい家族だったんだな」
「ええ、わたしにとっては、やさしくて尊敬できる父と兄でした。こんなこと、アッシュには言えないけれど、どうしてわたしを置いて行ってしまったのだと今でも思うのです」
「それは、」

 シルヴァンが眉尻を下げて、言い淀む。は一度口を噤み、唇を噛みしめる。
 そう、この思いはアッシュには到底打ち明けることができないのだ。残される者の気持ちを痛いほど理解しておきながら、アッシュを置いて行きたかったと言うのと同義だ。それはまるで、彼を家族として認めていないようである。

「教団を恨む気持ちはありません。でも、父のことは、許すことができない」

 視線を上げて、シルヴァンの顔が滲んでいることには気づく。
 アッシュの嘆く姿を見ても、ついぞ溢れなかった涙がいまさら込み上げるなんて、信じられなかった。は呆然と頬に手を伸ばす。

 ぎゅう、と痛いほどに手を握られたかと思えば、引っ張られた身体がシルヴァンの胸に飛び込む。「くそっ」と、シルヴァンが珍しくも悪態をつく。

「傷の舐め合いでもいい、と思ってたのに、そんな顔されたら……!」

 けれど、苛立たしげな口調と相まって、その抱擁は驚くほどやさしかった。は、シルヴァンの腕の中で目を閉じる。

「あなたには似合いませんよ、そんなこと」
「……俺の、何を知ってるって言うんだ」

 苦しげな声が告げる。確かに、はシルヴァンのことをよくは知らない。知っていることと言えば、女性と見れば声をかけるほどの女性好きだということ。フレンや他の女生徒たちから聞いたそういったトラブルが絶えないこと。あとは、大修道院に居れば誰もが知っているようなゴーティエ家のことばかりだ。
 それでも、とは思う。


「わたしに、手を差し出してくれたでしょう」


 ロナートの亡骸を前に立ち尽くすばかりのの手を、この手が包んだのだ。
 は、すこしだけシルヴァンの胸板を押し返し、おもむろに顔を上げる。

「わたしは、あなたに救われました」

 「そりゃあ、君が、こんなにも美しい……」と、シルヴァンが軽口を言いかけて、閉じる。ぐっと、シルヴァンが眉根を寄せて、顔を苦しげに歪めた。

、俺にはあのとき、君が消えちまいそうに見えた」
「……」
「だから、手を握って、どこにも行かないでくれって……そう、思った」
「こんなにやさしい手があるなら、わたしは生きていける。シルヴァンさんのおかげで思えたのです。だから……残念ですが、わたしの傷はもうほとんど治っていますから、舐め合いなんてできませんよ」

 ははっ、とシルヴァンが声を立てて笑う。そこにはいつもの朗らかさが滲んでいた。「参ったなあ」呟く声は、笑いの尾を引いており、まったく参ったようには見えなかった。
 けれど、その笑い声が次第に収まると、シルヴァンの顔から笑みが消える。
 静寂が戻ってくる。

「じゃあ、今度は俺を救ってくれよ……」

 、ともう一度噛みしめるように、シルヴァンが名前を呼ぶ。そうして、再びを腕の中に閉じ込める。今度は縋りつくように腕が身体に絡んで、はほんのわずかに息苦しさを覚えた。

「消えていなくなったり、しません」

 あなたを置いて、と小さな声で告げれば、安堵したようにその腕が緩められた。耳朶にすこしだけ掠れた、低い声が触れる。

「もうすこし、このままでもいいかい」

 何故だか、シルヴァンが幼い迷い子のように感じた。は言葉なく頷いて、その大きな背を抱きしめ返す。

 救えるのならば、いくらだって手を差し出すし、いくらだってこうして抱きしめる。
 ──だから、どうかあなたの傷を見せてほしい。

「……どこにも行かないで、とわたしも祈ってもいいですか?」

 ふ、とシルヴァンの吐息のような笑みが耳元で聞こえる。
 答えは得られなかったけれど、シルヴァンの腕の力がかすかに強まった。今はそれだけで、十分だった。

のしるべ

(手を繋いだのはどちらの為だったのか)