ぱちんっ、と小気味よい音が聞こえて、は立ち止まる。「いい平手打ちだなぁ」と、右手で左頬をさするのは、同じ学級に所属するシルヴァンだった。
 ──見てはいけないところを見てしまった。
 は慌てて踵を返す。そのすぐ隣を、涙を湛えた女性が走り抜けていった。その悲痛な表情に、の胸までもが痛むような心地がした。思わず、足を止めて小さくなっていくその背中を見つめてしまう。

「あれ、?」

 ははっと息を呑み、振り返った。
 ゆったりとした足取りで近づいてくるシルヴァンの左頬は赤くなっており、爪による傷跡がついていた。痛そう、とは眉を顰めて視線を落とす。

 シルヴァンが女性を追いかける素振りはない。彼の女好きは、他学級にも知られるほど有名だ。度々、女性関係でトラブルを起こしていることもまた、有名である。
 ちら、とはシルヴァンの様子を伺う。

「おいおい、そんなに気まずそうにしなくてもいいだろ?」
「……ご、ごめんなさい」
「べつに、謝ってほしいわけじゃないんだけどなあ」

 シルヴァンが軽く肩をすくめる。
 こんな場面に出くわして、気まずくないわけがない。はあ、と小さくため息をつくと、手に持った荷物が急に重く感じた。

は買い物か? まだ何か入り用なら付き合うし、終わったなら一緒に帰ろう」

 ひょい、と自然な仕草でシルヴァンがの手から荷物を取り上げる。「お、結構買ったなあ」とシルヴァンが呟くくらいには重みがあったらしい。
 は眉尻を下げてシルヴァンを見上げた。礼を言うべきか否か、咄嗟に言葉が出てこなかった。シルヴァンが女性ならば誰にでもやさしいことを知っているが、いざこうしてそのやさしさを向けられると、は戸惑いを覚える。

「ん? どうした?」

 シルヴァンがやさしい眼差しを向けて、の言葉を待ってくれている。

「あの、ありがとう。買いたい物はもう買えたから……」
「じゃあ、帰ろうぜ」

 は視線を下げて、俯きがちに頷いた。
 その長い足の歩幅を狭めて、の速度に合わせてくれるのも、それはそれはごく自然である。は背の高いシルヴァンを、首を持ち上げて見上げる。視線に気づいて、垂れ目がちの瞳がに向いた。

「はは、はちっちゃいな」

 ぽん、とシルヴァンの大きな手のひらが、頭の上に乗せられる。
 アネットよりは大きいし、言うほど小さくはないだろう。それに、が小さく見えるのは、シルヴァンの背が高いせいもある。

 は頭頂部を押さえて、シルヴァンを睨むように見た。「いや、馬鹿にしてるとかじゃなくて、可愛いっていう意味で」慌てた様子でシルヴァンが頬をひきつらせる。ぴりり、と傷が痛んだのか、一瞬だけシルヴァンの顔が歪む。

「その頬、ちゃんと冷やした方がいいですよ」
「え? ああ……」

 は鞄の中から絆創膏を取り出すと、背伸びをしてそれを貼ってやる。シルヴァンが驚いたように、瞳を瞬かせる。

「その顔じゃあ、しばらく女の子は誘えませんね」

 くすくすと笑えば、ばつが悪そうにシルヴァンが目を逸らした。






 授業が終わった放課後、の隣の席にシルヴァンが腰を下ろした。何を言うでもなく、シルヴァンが頬杖をついて、眺めるように目を眇めてを見つめる。

「なんですか?」

 教科書や帳面をまとめて、はため息交じりに振り向いた。
 シルヴァンの頬にはまだうっすらと傷が残っているが、よく近づいて見ないとそれはわからない程度に治っていた。へら、とシルヴァンが笑う。

「いや、この前はどうも」

 とん、とシルヴァンの指先が左頬の傷跡を指す。

「わざわざお礼なんて」

 が絆創膏を持ち歩いているのは、鍛錬でできた擦り傷などの小さな怪我のためである。あまり真面目に鍛錬をしていないシルヴァンに使うのは、思えば初めてだったかもしれない。

「それだけじゃないさ。先生や殿下に告げ口もしてないだろ?」
「……告げ口なんてしません」
「助かったよ。おかげでお説教を喰らわずに済んだからな」

 シルヴァンがぱちりと片目を瞑ってみせる。「それは良かったですね」と、は呆れた顔でそれを横目で見た。

ってさ、もしかして俺のこと嫌い? なーんか、つれない態度だよなあ」

 シルヴァンが大仰に空を仰いだ。
 は周囲に人がいないのを確認して、シルヴァンを真正面に見据える。不思議そうに首を傾げて、シルヴァンがを見つめ返す。

「嫌っているのは、あなたのほうでしょう」

 それを口にするのは、少しばかり勇気が必要だった。胸の前で組んだ手がかすかに震える。

「……どうして?」

 そう問いかけるシルヴァンの声が、わずかばかり低い。
 やさしげに目尻の下がったその瞳は意外そうに瞬かれるでもなく、冷え冷えとを映し出している。一瞬、息がつまるような感覚がした。

 が何か言うより早く、シルヴァンが破顔一笑する。

「そんなわけないだろ。こんな可愛い女の子、俺が嫌う理由なんて一つもないね」

 ──なんて軽薄な笑みで、なんて薄っぺらい言葉なのだろう。

 は、すうっと心が冷えていくような気がした。上辺だけ繕われるのは、ひどく虚しい。ふ、と思わず漏れた笑みは、吐息ともつかぬほど曖昧だった。
 きっとには、彼の本質を理解することなんて、できやしないのだろう。
 机の上の教科書たちを鞄にしまうと、は席を立った。

「うそつき」

 シルヴァンを責めるつもりなど毛頭なかった。ただ、胸が痛い。
 は、どんな顔でシルヴァンを見たのか、自分でもよくわからなかった。シルヴァンの口が開くが、その言葉を聞くよりも早く教室から走り去る。

 シルヴァンが追ってくる気配はない。それに安堵すると共に傷つく自分がいて、我ながら身勝手が過ぎると、は自嘲の笑みを浮かべた。

「紋章なんて、」

 呟く声が驚くほど掠れていて、は唇を噛みしめる。ふいにひどい目眩がして、その場にしゃがみこむ。きつく目を閉じると眦に涙が滲んだ。



「気分が悪い?」

 差し出された手のひらを前に、はおもむろに顔を上げた。
 顔を覗き込むべレスの表情はあまり心配しているようには見えなかったが、彼女の無表情はいつものことである。

「……大丈夫、です」
「そうは見えない」

 べレスが膝をついて、の目尻に指を這わせる。「泣いている」と、べレスがかすかに眉を顰めて告げる。

「先生……」

 じんわりと滲んでいただけの涙が、途端に溢れて零れ落ちていく。胸がずきずきと痛む。以前、涙を湛えた女性を見て胸が痛んだのは、いつか自分もそうなると予感していたからかもしれない。
 シルヴァンのことが好きだ。髪の色と同じく、太陽のようなひとだと思った。
 けれども、きっと、彼はのことなど──

「先生が生徒を泣かせちゃだめでしょうに」
「泣かせたわけでは……」

 の背後からかかった声に、べレスが困惑した様子で答える。振り向くことができずに、は俯く。
 ぽん、と気安く肩に手を乗せられ、びくりと身体が震えた。

「ま、女の子慰めるのは得意なんで、ここは俺に任せてくださいよ」

 ぱちんと片目を瞑るシルヴァンを見るべレスの眼差しは、不安に満ちていた。


 シルヴァンに差し出された白い手巾は清涼感のある香りがした。
 いつまでも受け取らずにいると、ため息と共にそうっと目尻に押し当てられる。じわりと涙が染み込んでいく。
 はまだ薄い膜を残す瞳で、シルヴァンを見上げた。

「嫌ってなんかいない」

 シルヴァンは笑っていなかった。少しだけ、眉根を寄せている。

「ただ、俺はが羨ましくて仕方がないよ」

 ははじめて、シルヴァンの本心に触れた気がした。

 は、ファーガスのなかの地方を納める、いわゆる田舎貴族の娘である。
 血が濃いのか運がいいのか知らないが、の兄弟は皆紋章を持っているし、三世代を遡っても長子が紋章を宿して生まれている。田舎故ののんびりとした気質も相まって、紋章に拘るような家ではなく、の紋章の有無などほとんど気にもしていないくらいである。

 イングリットのように婚姻の道具とされることもなければ、メルセデスのように貴族の役割を押し付けられることもない。もちろん、紋章を持たないことを理由に廃嫡された兄弟もいない。
 紋章や血統を重んじるシルヴァンのゴーティエ家とは、何もかもが違う。

「妬ましいの間違いでは?」
「はは、痛いところついてくるな……まあ、そういう気持ちがないわけじゃないさ」
「……やっぱり」

 は俯いて、胸を押さえる。
 また涙が溢れそうになる瞳をぎゅっと閉じた。ふいに頬に触れる手の感触がして、は恐る恐る顔を上げる。シルヴァンの指先がやさしく目尻をなぞる。

「俺はのことが羨ましくて、妬ましくて、だからこそ惹かれるんだ」

 零れ落ちた涙がシルヴァンの指に当たって、弾ける。「あーあ、泣かせちまった」と、シルヴァンが眉尻を下げて、やけにやさしく笑った。そんなふうに笑うところは一度だって見たことがなかった。

「からかってるんですか?」
「いやいや、まさか」

 親指の腹が、やさしく涙を拭う。

「俺がを口説かなかったのは、俺の方が本気になりそうだったからだよ」

 嫌われているからこそ、食事にすら誘ってもらえないのだと思っていた。は真意を確かめるようにシルヴァンを見つめるが、やさしい眼差しがあるだけである。

「……うそつき」

 ふいっと顔を背けるが、赤くなった耳は隠せなかったようで、シルヴァンが小さく笑った。そして、笑いを残す唇は熱を孕む耳朶をちゅっと食んだ。びくっとの肩が跳ねるのを見て、シルヴァンが可笑しそうになおも笑う。けれど、それは決して嫌味ではない。

「ま、はずいぶん前から俺に本気だったみたいだけどな」
「な、何故ですか」
「そりゃあわかるって。あんだけ熱い視線を送られたらな」
「……」

 あまりの恥ずかしさに穴があったら入りたいくらいだ。
 シルヴァンの手のひらがの両頬を包んで、俯くことも背けることも許さない。は伏せ目がちにシルヴァンを見つめる。

「……好きだ、

 そう告げたシルヴァンの甘ったるい垂れ目は、驚くほど真摯だった。だからこそは「わたしもです」と、素直に答えるほかなかった。

「はは、また泣かせちゃったな」

 シルヴァンが困ったように、けれど嬉しそうに微笑んだ。

 泣き腫らしたの目を見て、「何が任せてくださいよ、だ」とべレスにシルヴァンが責められるのは、また別の話である。

(その慰め方だって、とうにわかっていた)