最低だ。
最悪な気分だった。自己嫌悪でいっぱいになる。守るべきミカヤに助けられるばかりか、彼女の身に負担をかけたのは、紛れもなく自分だった。握りしめていた拳を開けば、手のひらにべっとりと付いていた血液は乾ききっていて、パリパリと剥がれ落ちていく。
はあ、と重いため息が口から漏れる。は暗い路地裏にしゃがみ込んで、破れた服の下の素肌に、傷ひとつないことを確認する。もう一度、ため息が漏れた。
一体どんな顔をして、彼らの元へ戻れるというのだろう。
助けてくれてありがとう。迷惑かけてごめん。わたしなんか放っといてよかったのに。ミカヤの身体は大丈夫なの。頭の中に浮かぶ、どの言葉も相応しくないような気がして、は抱えた膝に顔を埋めてますます身を小さくする。
特別な力を持つミカヤは、たちにとって特別な存在だ。大好きなミカヤ、みんなに愛されるミカヤ、そしてデインを導くミカヤ──彼女を失うなんてあってはならない。それが、万が一にものような、何の力も持たない者の命と引き換えに、なんて考えるだけでもぞっとする事態である。
思い切りぶたれた左頬が、今さらひりひりと痛む。
「グーでなかっただけまし、か」
ぽつり、と呟いて、は頬をさする。
あれほど激昂したサザを見るのは初めてだった。いつも冷静ぶって、弟扱いを嫌って大人びたふうにして、考えてみればミカヤにいいところを見せようと背伸びしているのかもしれない。倒れたミカヤを前にして、冷静でいられるはずがないのだ。
はあ、とため息ばかりが口を衝く。暁の団の一員として、自分が情けなくてたまらない。
とはいえ、いつまでもここに居るわけにもいかないことはわかっている。わかっていても、なかなか腰は上がりそうになかった。
「……こんなところにいた」
「ひっ!」
まったくもって気配を感じなかったのに、すぐ後ろから声が落ちた。は小さな悲鳴と共に、びくりと跳ねた身体を転げるようにして距離を取った。誰の声なのかなんてことは考えなくてもわかっていたのだが、逃げるために整わぬ体勢のまま駆けだそうと決めていた。踵が地を蹴るより早く、風が吹くような速さをもって組み伏せられる。
逃げ出そうとしたことが、すぐさまバレたらしい。ぎり、と腕を捻り上げられて痛みで泣けてくる。
「ちょ、サザ、いたっ……」
「どうして逃げるんだ?」
「いや、あの、もう逃げないからとりあえず解放して」
うう、と涙目になりながら、はサザを振り返った。
すこし考えるような間をおいてから、サザがの上から退いた。重さと痛みがなくなって、はほっと息を吐きながら、地面から立ち上がる。容赦がないサザのせいで、汚れが付き放題である。
「どうして逃げようとした」
「だって、」
は窺うようにサザを見て、すぐに視線を逸らした。サザの顔に怒りはなく、いつもの澄ました表情が浮かんでいる。
「……サザにも、ミカヤにも、みんなにも合わせる顔がないよ」
「なんで」
「なんでって、それは、」
サザの手が伸びてきて、は身を強張らせた。
逃げないと言った手前、後ずさることもできない。サザに手首を掴まれて、握っていた手を開かれる。乾いた血がパラパラと落ちていく。
「さ、サザ、汚いよ」
自分の血なのだからは気にならないが、サザにとっては他人の血液だ。見るのも触れるのも、気持ちのいいものではない。「こんなに、」とサザが小さく呟いて、顔をしかめた。
そして、サザの指先が手のひらを労わるように撫でた。
「……ごめん」
顔を伏せたサザが、妙に湿っぽい声で告げる。まさか謝られるとは露にも思わず、は慌てた。
「サザが謝ることなんて何もない。サザは正しいことをした。間違っているのはわたしだよ、謝らなきゃいけないのはわたし、ねぇサザ顔を上げてよ」
「…………」
「ミカヤは大丈夫だった? わたし、ちゃんと守れなくてごめんね。今度同じことがあったら、グーで殴ってもいいからね。あ、同じことがあったら駄目か」
あはは、とは笑ったけれど、相変わらずサザの顔は俯いたままだ。
ぎゅうと手を掴まれる。痛いくらいだった。
「、下手したら死んでたんだぞ」
面を上げたサザが睨むようにを見たが、それはに対して怒っているわけではないとわかる。己に憤っているのだ。ミカヤの傍を離れてしまったこと、状況を把握しないままを責め立て、手を上げてしまったこと。
それがわかるからこそ、はへらっと笑った。
「それでミカヤが死んじゃたら、元も子もないでしょ。だから、謝らなきゃいけないのはわたしなの」
サザにとって、ミカヤは皆とは違う意味で特別なのだと、は知っている。
本当に合わせる顔がない。一瞬でもミカヤを疎ましく思ってしまったなんて、自分でもびっくりするほどおぞましい。自分がサザの特別になれないことなんてわかりきったことなのに、浅ましい思いがいまだにあるなんて誰にも言えない。
サザとミカヤの間に立ち入る隙間なんてない。たった二人の姉弟。大切に想いあって、生きてきた少年と少女。は、サザの視界に入ることすら、かなわない。
「あ、もしかして、ミカヤに謝りなさいって怒られ──」
きつく握られた手を引かれる。「うわっ」と、あまり可愛らしくない悲鳴を上げて、はサザの鍛え上げられた胸板にぶつかる。程よい厚みがあって、なるほどこれなら腹筋も披露したくなるわけだ、と思わず思考がずれていく。
意味がわからない。サザに抱きしめられる理由など何ひとつ思い浮かばない。
「酷いこと言ってごめん、ぶったりしてごめん、……泣かせたりして、ごめん」
は小さく息を呑んだ。「な、泣いてないよ。そりゃさっきは痛すぎて涙が」と、腕の中で否定すれば、サザの指が目尻に触れた。やさしい手つきで左頬を包むが、ぴりっと痛みが走る。ひどく近くで顔を覗き込まれ、は思わず逃げるように身を捩った。
「目が赤いし、鼻も赤くなってる」
「……夕日のせいじゃないかな」
「こんな路地裏で? さすがに無理がある」
サザが呆れたように言って、小さくため息を吐いた。
「な、泣きたくもなるでしょ。大事なひとは守れないし、死ぬ思いしたのに、好きなひとには罵倒されて平手喰らわされて、もう踏んだり蹴ったり」
「……もう一回言って」
「だ、だから、大事なひとは守れないし、死ぬ思いしたのに好きなひとに、は……」
言われるがまま繰り返して、はそこでようやく失言に気づいた。はっとして口を押さえてももう遅い。声になった言葉が、取り消されるわけではなかった。
「いや、今のはその、言葉のあやって言うか」
「」
「あ、はい、な……なに?」
サザの微かに緑がかった金の瞳がじっとを見つめる。髪の色はまったく違うのに、ミカヤとよく似た色の瞳。
「サザ?」
「……ミカヤは俺にとって特別だけど、」
「そうだね」
「……のこともちゃんと大切に思ってる」
上手く言えなくてごめん、とサザが恥ずかしそうに瞼を伏せた。
それはつまり、仲間として大切という意味だろうか。何だか嬉しいような、残念なような、複雑な気持ちでは「ありがとう」と、あいまいに笑った。
「」
軽く顔を持ち上げられる。あ、と思う間もなく、唇が触れ合う。
鼻先をくっつけたまま、サザがふと笑みを漏らす。「わかってないみたいだから、はっきり言わせてもらう」と唇が動くたびに、吐息が触れてくすぐったい。
「ミカヤとこういうことはしない。だけだ」
じわ、と歪んだ視界を瞼の裏に閉じ込めて、は自分から唇を合わせた。
それにしても言葉のあやだなんて酷いな、というサザのぼやく言葉も、口づけで呑み込んで聞こえないふりをしよう。そうしよう。