北の城塞にいる頃常々ギュンターやジョーカーに、おまえは感情が顔に出やすい、と指摘されていたことをふいに思い出した。だから、視線だけでを捉えたそのもとより眉間に刻まれた皺が、より深くなったのは気のせいではないかもしれない。何故なら、は確かに「いやな人に会ってしまった」と思ってしまったからである。
しかし、いつもと様子が違うことは目に見えて明らかだった。
いつも顔半分を覆っているマスクは外されており、サイゾウのあらわになった口元は荒い呼吸を繰り返している。
は慌てて馬を降り、木の根元に身を寄せるサイゾウのもとへと駆け寄る。「サイゾウさん、」途端に血の匂いが色濃くなり、は顔をしかめる。サイゾウが手のひらで押さえるわき腹からは、血がじわじわと滲んできているようだった。
白夜の優秀な忍は、優秀だからこそ、危地へと赴く。恐らく前線で激しく戦ったのだろう。残敵の確認のための見回りであったが、こうして見つけることができてよかった。もし誰にも気づかれなかったらここでこのまま、とそこまで考えてはぞっとしてしまう。携帯しているポーチを漁っていると「……行け」と、低いつぶやきが落とされた。は思わず手を止めて、呆然とサイゾウを見上げた。
行け、とはこのままサイゾウを放っておいて、という意味だろうか。
はそう考えてひどくむっとして、サイゾウに負けぬほど眉間に深く皺を刻んだ。深手を負った仲間を見捨てるような奴だと思われたのは心外だったし、まるでここで死んでも構わないと言っているようにも聞こえて腹が立った。
「いやです。いいから、大人しくしてください」
「……、」
何かを言いかけたサイゾウだが、その唇からは辛そうな呼吸が漏れただけだった。その様子には焦りながらも、ポーチから特効薬とガーゼ、包帯を取り出した。
こんなとき、ジョーカーやフェリシアのように杖が使えたのなら、どれだけよかっただろう。
ただの騎士であるにできるのは、簡単な手当てくらいである。しかし、ギュンターに扱かれたおかげで、傷の手当てならお手の物だ。なにせ、いつも泣きながら自分で自分の傷を手当てしていた。
「手、退けてください」
サイゾウが迷うような素振りを見せたので、は強引にその手を避けた。重ねたガーゼを思い切り押し付ける。「ぐ、」と噛み締めたサイゾウの唇からくぐもった声が漏れ、はその傷の深さと痛みを思って、眉尻を下げる。白いガーゼが赤く染まっていくのを見ていられなくて、思わず目を逸らしてしまう。
は内心で気合を入れて、血塗れのガーゼを捨てると同じように傷口を圧迫する。大方止血されたことを確認して水で傷を洗い、特効薬を丁寧に塗り込むと包帯を巻きつける。何も言わぬサイゾウがその手を止めることはなかった。処置が終わると、はふうと大きく息を吐き、緊張のせいでじっとりと額に滲んだ汗を拭う。
ほかに大きな怪我はないだろうか、と確かめるために持ち上げた手は、ふいに伸ばされたサイゾウの手に掴まれる。は首をかしげてサイゾウを見つめた。
「……?」
意外なことに、はじめて見るサイゾウの素顔は、あまり似ていないと思っていた双子のスズカゼとそっくりであった。
ふと、はその端正な顔が煤で汚れていることに気づいて、掴まれていないほうの手を伸ばし指先でそれを拭う。サイゾウの眉間の皺に力が籠ったような気がした。
「何故、助ける」
「え? 当たり前でしょう、わたしたちは仲間ですよ」
は眉をひそめて、サイゾウを見る。
「カムイ様に近づかないでください」と、まるで親の仇を見るようにして、は再三サイゾウに言ってきた。サイゾウが、まったくもってカムイを信用していないという姿勢を取り続けるから、という明確な理由があるにせよひどい顔でひどいことを言ったには違いない。
だからと言って、サイゾウを嫌悪したり憎悪しているわけではなかった。しかし、それを知っているのは自身のみである。
はこれまでの自分の態度を思い、バツが悪くなって視線を逸らした。
「動けますか?」
馬に乗って行けば、すぐカムイの元へ戻れるだろう。はサイゾウの答えを待ち、手当てしたばかりの彼のわき腹へと視線を落とす。
いつまで待っても返事がない。はそろりと視線をもたげる。
「……!」
サイゾウの手が素早く動き、の唇を覆い、身体を引き寄せた。よくもまあ、これだけの怪我を負って動けるものだ、と感心を覚えるほどの動きだった。愛馬が何かの気配を察知して、忙しなく鼻を鳴らした。ち、とサイゾウが舌打ちする。
「馬を黙らせろ……!」
は愛馬にアイコンタクトを送り、草むらへと身を寄せさせる。
の耳元で、なおもサイゾウが言い募る。
「戦えるな?」
「も、もちろん、え、サイゾウさん」
まさか戦う気ですか、と問う前にサイゾウが動き出す。怪我をまったく感じさせずに、サイゾウが放った手裏剣は正確に敵兵に飛んでいく。「ぐああっ!」「くそ、あの死に損ないが!」敵兵は三人おり、一人はいまの攻撃で倒れたようだ。はサイゾウの奇襲に合わせるように、口笛で呼んだ愛馬に跨り突撃する。
「なっ……もう一人!?」
驚きに身体を強張らせる敵兵を、剣で蹴散らす。残った弓兵がサイゾウに狙いを目掛けていることに気づいて、はきつく手綱を引いた。
体勢を整える間はなかったが、ぎゅっと手槍を握って振りかぶる。弓矢と槍はほぼ同時に放たれた。残念なことに、の手槍は弓兵に当たることはなかった。
「サイゾウさん!」
さすがにサイゾウの動きはわずかに鈍い。
常ならば、弓矢を交わすことなど容易いだろうが、深手を負った身では困難である。身を低くして構えたサイゾウが、小刀で矢を弾いた。
はその様子を傍目に、弓兵に剣を振り下ろした。
白い包帯にじわじわと赤が広がっていく。は焦る気持ちで、ぐっと両手で傷口を圧迫する。
「……おい、何故泣く」
「だ、って、」
サイゾウさんが、
はぐずぐずと鼻をすする。自分の無力さが憎い。本来ならば、はサイゾウの盾となりながら、戦うべきだった。
「死なないでください」
はサイゾウを見上げた。
サイゾウの表情こそ変わらないが、戸惑っているようだった。
「貴様は俺が嫌いではないのか」
は目を丸くする。けれどすぐに、やっぱり、と納得する。
「そう思われて当然ですよね。でも、わたし、サイゾウさんのことは尊敬しているんです」
「何だと?」
「カムイ様への疑心は、リョウマ王子への忠信の表れだと知ってます。だから、サイゾウさんの行動を理解はできますけど、カムイ様を傷つけるようなことは許せなかっただけです。でも、正直その忠誠心はすごいと思ってます」
はふてくされて唇を尖らせる。子どもじみているということは、自分でもわかっていた。
「……そうか」
サイゾウの小さなつぶやきが落ちる。はサイゾウの様子を窺い見て、その存外穏やかな表情を目にした途端に、なんだか恥ずかしくなってしまう。
視線を落としたわき腹からは、やはり血が滲み続けていて、再び涙が込み上げてくる。
「泣いたり、ふてくされたり、顔を赤くしたり忙しない奴だな」
顔を赤くしたり?
恥ずかしいと思ったことが、すぐに顔に出てしまったのだろう。感情が出やすい、と指摘されてなお、なかなか治すことができずにいる。「もう、喋らないでください」と、はうつむいたまま告げて、ひたすら傷口を押さえる。ふいに、その両手にサイゾウの手が重なった。
その後すぐに、残敵清討に当たっていたジョーカーが探しにきてくれて、は泣き顔を見られて恥ずかしい気持ちよりもずっと、杖を使える彼が来てくれたことがうれしかった。「さすがはカムイ様の執事!」と、持ち上げるだけで良い、と思っていることすら見抜かれたようで額を小突かれる。
しかし、まんざらでもない様子で、ジョーカーがリライブの杖を惜しみなく使ってくれたおかげで、あれだけの深手もあっという間に癒えたのだった。
「いつもの決まり文句はどうした」
ふいに聞こえた低い声に、は足を止めた。
先ほどまで確かに誰もいなかったはずなのに、前方の木の幹に背を預けるサイゾウの姿があった。しかし、は突然現れたことよりも、サイゾウが冗談を言うことに驚いてしまう。数拍目を丸くしたのち、は噴き出すように笑った。
「やだ、サイゾウさん、カムイ様と和解されたことくらい知っていますよ」
「……」
スズカゼと反して近づきがたい、と言われる雰囲気はそのままだが、鋭さを感じるほど張りつめていた空気は少しばかり和らいだようだった。
「カムイ様を傷つけないのなら、それでいいんです。前にも言ったように、わたしはサイゾウさんのその忠誠心は尊敬しています」
なにせカムイが経験したことは、その御心を推し量ることすらできないような、想像を絶するものだ。それも、あまりに突然のことが短期間にありすぎた。ギュンターの代わりとは程遠いものの、騎士として主を守りたいのは当然として、大好きなカムイをこれ以上傷つける存在は許しがたいのだ。
黙していたサイゾウが、足音もなく近づいてくる。
「……俺も、貴様には思うところがある」
は首をかしげ、サイゾウの言葉を待った。近くで見上げた顔は、やはりその半分をマスクで覆っており、眉間の皺もくっきりと刻まれていた。
「初めはただ、腹の立つ小娘だと思っていたが、カムイを思う故ならば当然と思うようになった。俺もまた、貴様の忠心は認めてやる」
「サイゾウさん……」
「それから、」
背の高いサイゾウが少しだけ屈んで、の耳元に口元を寄せた。「先日は……ありがとう、」と、低い声が耳に触れた次の瞬間には、サイゾウの姿は風のように消えていた。礼を言いよどんだその間が、なんだか可愛らしかった。
はしばらく呆然としていたが、はっとして耳を押さえる。
「え、ちょ、ちょっとサイゾウさん!」
「……なんだ」
「わあ! 急に消えたり現れたり、やめてくださいよ……」
忍だからな、といまいちよくわからないことを口にするサイゾウの耳がかすかに赤くなっていることに、は気づく。はじめて名前を呼ばれたことも相まって、は途端に恥ずかしさを覚えて、慌ててうつむく。また顔が赤くなってしまうと思ったからだ。
くい、と顎を指先ですくわれる。傷のない左目がじっとの顔を見つめる。
「感情が顔に出やす過ぎる」
その指摘はもう耳たこである。命取りになる、とすらギュンターには口酸っぱく言われたものだ。「し、知ってます」とは情けなくも震える声で答えた。
「……少しは俺を見習え」
ふん、と鼻を鳴らしたサイゾウが、素早く踵を返す。背を向けたサイゾウの顔が、ほんのりと染まる耳よりも赤くなっていたことは、背を向けられたには知る由もなかった。
顔が赤い。これ以上ないくらいに赤くなっている、と自覚してもなお、にはどうすることもできなかった。サイゾウにはじめて名前を呼ばれてからというもの、なぜだか彼を直視できないし、顔を合わせればこうだ。は自分自身がよくわからない。
熱を持つ頬に、サイゾウの手のひらが触れた。その手は、意外なことにの頬と同じくらいの温度を持っていて、冷たさは感じなかった。
「その顔は、好きだと言っているようなものだ」
サイゾウに告げられ、は遅ればせながら自分の想いに気づかされた。自覚するとなお、恥ずかしくなって、顔だけにとどまらず首元までさっと赤みを帯びる。
「」
名を呼ばれ、は彷徨わせていた視線をサイゾウに向けた。その頬はうっすらと赤いような気がした。
「ふん、これでも俺も照れている。どうだ、貴様とは雲泥の差だろう」
何を誇らしげに言っているのだ。突っ込みたいところだが、はまごついて何も言えない。口元を覆うマスクが取り払われるのをただ見つめる。
端正な顔が近づいてくるのに耐えられず、はぎゅっと目を瞑った。少しだけかさついたやわらかな感触を唇に感じても、は目を開けることができなかった。頬に触れていた手が後頭部へと回る。サイゾウにしてはやけにぎこちない動きだった。
「サイゾウさん、」
「い、嫌だったか?」
「あ、い、いえ、そうじゃなくて」
は顔を赤くしたまま、ひどく近い位置でサイゾウを見つめる。
「……ちゃんと、言葉にしてください」
少しの沈黙ののち、サイゾウがこの上なく恥ずかしそうにしながら「好きだ」と言ってくれた。なんだ、サイゾウさんもひとのこと言えないくらい照れてるじゃない、とは口にしなかったけれどもやはり顔には出てしまっていたかもしれない。