意図せず触れた髪は柔らかく、草花のようにさわやかな香りがした。もはやあまり思い出せる記憶も乏しいが、サカ草原の陽だまりを彷彿とさせる、ようにラスは感じた。軍師の指示を受け、馬上にを乗せてからというもの、沈黙が続いている。
ラスの口数は少ない。しかし、この長い沈黙はそれだけではないはずである。
いつも真っすぐと相手を見据えるその瞳が伏せられ、長い睫毛が陰影をつくっている。
「……恥じることはない」
が弾かれるようにして、顔を上げた。じっと視線を感じるが、ラスはあえて目を合わせずにただ手綱を握る。無意識にその手に力が籠ったのか、愛馬がすこしばかり鼻を鳴らした。
弓兵と違い、剣を持って前線に立つが、こうして怪我をすることは少なくない。
リンまでとは言わずとも、もサカの民らしく気が強い。負傷したことを恥じているが故の態度であると思っての言葉だった。しかし、的外れな言動だったのか、の視線はなおも突き刺さるようだった。
「わたしを助けてくれるのは、同族だから?」
「……」
その通りである。ラスは、軍内のサカの民には同様に手を貸している。リン然り、ギィ然り──けれど、そうだと即答できなかった理由が、ラス自身わからない。
ふいにが身を預け、頬ずりする仕草でぴたりと身体を密着させた。ふわりと草花のにおいが香る。ラスは思わず、わずかに上体を反らして距離を取った。「、」戸惑い交じりに名を呼ぶが、答えたのは愛馬の不機嫌そうな鳴声だった。
ラスは仕方なしに、の身体をぐっと引き寄せて、体勢を整える。
「……」
なにかを言いかけて開いたラスの唇から、言葉が発せられることはなかった。かしましいシスターが駆け寄ってくる姿を見つけて、ラスは口を結ぶ。
「やだ! ったら、またそんなに怪我して……もうっ」
セーラがさっと杖を掲げれば、見る間に傷がふさがる。破れた服と血の染みだけが、怪我を負った証のように残っている。ラスは無言のまま、を馬から降ろしてやる。とん、と軽やかに地に足をつけたが、それでもなおラスの腕を放さない。「ラス」と動く唇を、ラスは見つめる。
「助けてくれてありがとう」
「……ああ」
「わたし、恥じてはいないわ。すこし恥ずかしかっただけ」
ふい、と照れ隠しのように顔が逸らされ、そこから見えるの耳は確かに赤かった。
ラスはしばらく遠ざかるの背を見つめ、先ほどの質問をもう一度自身へと問いかける。けれど答えは見つからずに、ただ柔らかな身体の感触と近くで感じた香りが、やけに残っているような気がした。
思わず、反射的に身体が強張るのをラスは感じた。
先日のやりとり以降、何故だか顔を合わせづらく、ラスは意識的にを避けていた。もそれを感じ取っていたのだろう。気まずい雰囲気に、ラスは殊更無口になってしまう。
しかし、先に口を開いたのは、ラスの方だった。
「……考えていた」
「え?」
「おまえを助ける理由だ」
「……」
が目を丸くする。それから、小さく吹き出すように笑った。
「ラスったら、真面目ね。ごめんなさい、すこし意地悪な言い方をしてしまったものね」
傭兵として各地を転々としてきたなかでも、この軍の仲間意識は高く、絆が強い。人付き合いが得意ではないラスにとって、それはあまり好ましいことではない。しかし、サカの民であるのならば、それは別である。
四歳になる前より部族を離れた身であるが、ラスはサカの民としての誇りを人一倍持っている。同族が困っているならば助力を惜しまない。も、リンも、ギィも等しく同じサカの民であり、仲間であるのだから助けるのは当然である。
──しかし、もしがサカの民でなかったとしても、ラスは手を貸すだろう。
仲間だからではない。個人的な感情故である、ということに考えて思い至ったのだ。戦いのさなかも、いつもを気にしてしまっていたことに、今さらながら気がついた。それが余計に、を避ける理由になっていた。
すべてを言葉にして伝えるのは、口下手であるラスには少々難しい。
言葉に詰まるラスに対して、が目尻を下げてやさしく微笑む。
「そうやって、わたしのことを考えてくれていることが……うれしい」
が目を伏せてはにかむ。ほのかに赤らんだその頬を見ていると、ラスまで顔に熱が集まってくる気がした。
「俺は……幼い頃に草原を出たが、からはサカの懐かしい風を感じる」
ラスは、ぐっと握った手の緊張を解いて、の髪へと触れる。さらりとした手触りと共に、ふわりと草花のにおいが鼻腔をくすぐった。
「リンでもギィでもなく、おまえだけだ」
の瞳が真っすぐラスを見つめる。引き込まれるような感覚を覚えるのは、その視線があまりに真摯だからだろうか。ラスは気恥ずかしさから目を逸らし、顔を合わせぬようにの身体を抱き寄せた。
抵抗することなく腕に収まったが、ぎゅっと抱きしめ返してくる。
サカ草原の陽だまりに包まれる感覚を覚える──小さな体躯を腕にすっぽりと収めているのはラスのほうであるはずなのに、何故だか母なる大地に包み込まれているかのように錯覚してしまう。深い安堵感がラスの胸の内に広がる。
「ラス」
ラスは名を呼ばれてなお顔を見られずに、抱きしめる腕に力を込めた。「ラスってばもう、やだ、恥ずかしい……」消え入るような声が腕の内から聞こえ、ラスは視線を落とす。そこには耳はおろか、首元まで赤く染まったの姿があった。
くす、と思わず笑みがこぼれる。
「ラスが笑った……で、でも、なんで笑うの?」
「……おまえが……可愛いからだ」
がこれ以上なく紅潮させた顔を、ラスの胸へと埋めた。
「うれしい、けど、それ以上に恥ずかしい……」
ふ、とラスはもう一度小さく笑い、の髪へと顔を寄せた。思えばずっと、こうして触れたくて仕方がなかったのかもしれない。