いかに己が盲目だったのかと思い知らされた。
地に伏し、鮮血を垂れ流しているを見ても、コルネリアの顔に哀れみも悲しみもない。冷たい瞳で見下ろしたまま「お前如きでも役に立てることがあったのね」と、くすりと笑みさえ溢す。
長年仕えてきたというのに、もはや名前すらも覚えていないのだ。邪魔だとばかりに、コルネリアがを足蹴にする。は呻いて身体を曲げて蹲る。
これは、見たくないものを見ないようにして、気づいていながら気づかぬふりを続けてきた結果だった。自業自得としか言いようがない。
「コルネリア殿、自分の部下を……」
唸るように言うロドリグの藍色の瞳は、燃えるようにコルネリアを睨む。手にした槍の刃先は、の血に塗れている。それは、本来ならばコルネリアに向けられるべきものだった。
「チッ……馬鹿かてめーは」
およそ、聖女と讃えられたコルネリアの口から出たとは思えぬ言葉だった。
「あなたのその槍が、この子を殺すのではないのです? それともまさか、同情でもしていると? ああ、ちゃんちゃら可笑しい!」
コルネリアが豊かな胸を揺らしながら、高笑いをする。
──これは誰だ。
にはわからない。けれど、それはもうずっと前からのことだった。やさしく微笑みかけてくれるコルネリアはいないのだと、はどうしても認めることができなかった。
焼けつくような痛みに、の意識が朦朧とし始める。両手で押さえつけようとも、傷口から流れる血が止まる気配はない。
ロドリグがぐっと槍を握る手に力を込めた。
「殿下はどこだ」
地を這うような声だった。肩にかかる暗い濃紺の髪が、怒りで逆立っているのではないかと錯覚するほどの迫力だ。
ディミトリは叔父殺しの罪によって、処刑された。帝国に与したコルネリアが実権を握り、王族がいなくなったファーガス神聖王国をファーガス公国と名を変えてしまった。
はコルネリアに異を唱えることができなかった。
ダスカーの悲劇にて家族を失ったディミトリが肉親を手にかけるわけがないと、はそう思っている。ディミトリの仕業ではないと証拠集めに奔走している間に、処刑は実行された。
そのため、もディミトリの首が落とされるところを見ていないし、遺体すら目にしていない。
「馬鹿の一つ覚えのように、殿下殿下とかしましい方ですわね。残念ながらもうすでに、あの方は死んだのですよ」
遅かったですね、とコルネリアが嫌味たっぷりに微笑んだ。
「戯言を……!」
ロドリグが槍を振るって、刃に付いた血を飛ばした。ファーガスの盾と名高いフラルダリウスの騎士たちが、吠えた。
交戦する音が、にはひどく遠くで聞こえているような気がした。
を抱えあげたのは、ロドリグだった。
瞼が重く落ちていく。開いた口からは、ごぽりと血が溢れた。けれどもは「コルネリアさまを、返して」と、言わずにはいられなかった。変わってしまったコルネリアから目を背け続けたが、言えたことではないのかもしれなかった。
「だれ、な、の」
さあね、とコルネリアの姿をした女が、吐き捨てるように言った。
腹部の傷が、熱い。
ぼやけた視界に見慣れない天井が見えて、はすぐに目を閉じた。細く吐き出した息が、細かく震えた。
生きている。
こみ上げたのが、安堵なのか落胆なのか、自身よくわからなかった。
瞼を押し上げて、ゆっくりと周囲を視線だけで見回す。状況を把握しようとするが、起きたばかりの頭では理解が追いつきそうになかった。
めくった掛布はひどく肌触りがよい。
は身体を起こして、室内をくまなく見るが、ここがどこか見当もつかない。自分のものではない、少し大きい衣服の裾をまくって腹部を確認するが、傷はおろか傷跡さえもなかった。
首を傾げながら腹部を撫でていると、ふいに扉が開いた。は顔をあげる。
まだ少年の瑞々しさを残したような、青年だった。の知り合いではないが、よもや命の恩人なのだろうか。
「な……」
言葉を失ったのは、が身体を起こしていたからではない。切れ長の真紅の瞳はを見て驚いたように見開かれ、その視線が腹部を捉えて素早く逸らされる。
は慌てて身なりを正した。
「すみません、お目汚しを失礼いたしました」
が頭を下げると、眉をひそめた青年は舌を打った。
寝台から降りようとしたところを制され「親父殿を呼んでくる」と、青年がさっさと踵を返す。はその背を黙って見送った。
果たして青年が連れ立ったのは、フラルダリウス公ロドリグであった。親父殿、ということは、 ロドリグの息子──なるほど確かに、二人が並ぶと親子だとわかる顔立ちをしている。
「おお、気がつかれましたか」
ロドリグが穏やかに笑んだ。けれど、コルネリアと対峙していた際の形相を思い出して、の身体が反射的に強張る。
傷はないのに、つい腹部を抑えてしまう。ロドリグの視線は、の手の動きを追っていた。
「医者を呼んであります。不調があれば、言ってください」
健康上の問題はなし、と医師に太鼓判を押されて、は湯浴みを終えて着替えを済ませた。その間に食事を用意してくれていたらしく、食卓に案内される。
「消化の良いものを用意させました。さ、遠慮なくどうぞ」
ロドリグに勧められ、は困惑しながらも手を伸ばす。空腹は感じている。ただ、あまり食欲はわかなかった。
が意識をなくして、およそ半節が過ぎていた。
少しずつ、胃に食べ物を入れていくに焦れることなく、ロドリグがその間のことを聞かせてくれる。
終ぞ、ディミトリの姿を目にすることはできず、フェルディアで交戦したのちにロドリグはフラルダリウス領まで戻ってきたという。「いや、私も頭に血が上ってしまいましてね」と、ロドリグが笑う。
不思議なのは、を治癒して自領まで連れてきて、こうして面倒を見てくれていることだ。
「何故、わたしなどを助けてくださったのですか?」
ふむ、と呟いてロドリグが顎に指を添える。思案するように見えて、じっと見つめる瞳はをつぶさに観察している。
居心地の悪さを覚え、は目を伏せた。
「あなたが、騎士の鑑のようだったからですよ」
は首を傾げる。まるで騎士とは無縁だからだ。
「……倅を思い出しました」
ロドリグが懐かしそうに瞳を細める。倅たるフェリクスに目を向ければ、苦虫を噛み潰したような顔をしていた。忌々しげに舌打ちまでしている。
口を挟んではいけない雰囲気に、は困惑するばかりだ。
「おい、つまらん話はもういいだろう」
フェリクスがけたたましく音を立てながら立ち上がる。ロドリグが名を呼んで咎めるが、気にするそぶりはない。それどころか、フンと軽く鼻を鳴らして踵を返してしまう。
は匙を手にしたまま、これまたけたたましく閉じられた扉を見つめる。
「ああ、すみません。口も態度も悪いもので」
「あ、いえ……」
「さて、腹も膨れたでしょう。部屋まで送りますよ」
ロドリグが恭しくに手を差し出す。病み上がりとはいえ、怪我もなく一人で歩くのに支障はない。遠慮してもその手が引くことはなく、は恐縮しながらも手を重ねた。
とても槍を持ちの腹に穴を開けた手と同じとは思えぬほど、やさしくて温かい、大きな手のひらだった。
「フラルダリウス公」
綺麗に整えられていた寝台に入り、身体を倒す前には口を開いた。
「ロドリグ、と」
「……ロドリグ様、何から何までほんとうにありがとうございます。このご恩をどうお返ししたらいいのか」
深く垂れた首を上げれば、唇にロドリグの人差し指が添えられる。近くで視線を交えても、あまり年齢を感じさせない若々しさだ。ただ、フェリクスとよく似た目元のまなじりが、柔らかく細められて小さな皺を刻んだ。
「今はゆっくり休むことだけを考えなさい」
言葉を封じられて、は頷くことしかできない。「いい子だ」と、ロドリグの手が幼子にするかのように頭を撫でていく。
が寝台に横たわるのを見届けてから、ロドリグが退室した。
ほ、と無意識のうちに口から吐息が漏れる。緊張状態にあったためか、瞼を下ろせばすぐに眠気がやってくる。閉じた瞼の裏に、コルネリアの高笑いする姿が焼き付いているような気がした。
本調子が戻るまでは、とロドリグに請われて、至れり尽くせりの世話を甘んじたものの、やはりあまりに申し訳が立たずには早々に根をあげた。
「すみません、よくして頂いている身で……」
「とんでもない。こちらこそ、却って肩身の狭い思いをさせてしまいましたな」
ははは、とロドリグが爽やかに笑う。
「ところで、ご自身の身の振り方は決まりましたかな」
「いえ……情けないことに、まだ何も」
「それはよかった」
「よかった? あの、何故でしょうか?」
は怪訝な顔でロドリグを見つめた。相変わらず、穏やかな笑みを浮かべながらも、ロドリグの眼差しは挑むような力強さを持って見つめ返してくる。
「ええ。実は、あなたに私の補佐をお願いしたい」
補佐、との口から鸚鵡返しに呟きが落ちる。の脳内に浮かぶ疑問符を見透かしたように「殿は、とても優秀な魔道士だと聞いています」と、ロドリグが笑みを深めた。
「優秀だなんて……いえ、それよりもわたしには、ロドリグ様の補佐など務まるはずがありません」
「そうでしょうか」
「ロドリグ様はわたしを騎士の鑑とおっしゃってくださいましたが、戦場に立つなんて荷が重すぎます」
はかぶりを振る。
「私はコルネリアを討ち、王国を取り戻したい。殿、どうか力を貸していただきたい」
伏せた視線を上げた先で、ロドリグの顔からは笑みが消えていた。
──ファーガスの盾。
ロドリグの二つ名が脳裏を過るほどに、はただ見つめられただけで気圧される。口を開くもすぐに言葉が出てはこなかった。
「奴は、あなたの知るコルネリアではない。そうでしょう」
「……」
「長年コルネリアに仕えたあなたを利用する形にはなるが、これは殿を思ってもいるのですよ。彼奴をあなたの手で討ち果たしたいとは思いませんか?」
コルネリアの、聖女の皮を被った何者かを。
美しい微笑みを讃えた冷たい瞳が思い出されて、の胸の内を暗くさせる。机上で固く握り締めた拳を、ロドリグの手がそうっと開かせる。そこには爪の跡がついていた。
いたわしげにロドリグの指先が撫でる手のひらに、視線を落とす。
「……強情で、気丈な方だ」
その手を握ったまま、ロドリグのもう一方の手がに伸びる。親指の腹が目尻に押し当てられ、溜まっていた涙の粒が弾けた。
「これだから、あなたを槍の錆にはしてやれない」
ふ、とようやくロドリグが頬を緩めた。もはやロドリグに、恐ろしさなど感じえない。にそれこそが、よほど恐ろしいことのように感じた。
何故って、だって、頬を撫でる手が途方もなくやさしい。