美しい歌声が聞こえる。
 はなるべく羽音を立てぬように気をつけて、傍らの枝へと降り立った。森の中で少しだけ開けたその場所は澄んだ湖があり、日の光が差し込んで水面が輝いている。そこに立つ御仁の姿も相まって、幻想的な風景と化したその場は、戦時中であるというのに別の空間になったようにも思えた。

 風を受けて、長い金糸がなびく。白い羽が揺れる。その姿を、はずっと見ていたいと思ったし、できることならこの歌をずっと聞いていたいと思った。
 もし、自分にヤナフのような能力があればいつでもその姿を見つけられたし、ウルキのような能力があったのならば、どこにいてもその歌を聞けただろう。羨ましい限りだ、と何度思ったかは知れない。はひとつ、小さくため息を吐いて枝から飛び降りた。

 歌声が止まり、彼の人が振り向く。はティバーンを前にするときと同様に、無意識に緊張で背筋を伸ばした。

「リュシオンさま、そろそろ戻りましょう」
「……ああ、そうだな」

 わずかばかり疲弊した顔をしている。しかし、気遣うようなそぶりを見せては、嫌がられてしまうことをは知っていた。ゆっくりと歩き出すリュシオンの隣に並び、その顔をそうっと伺い見る。端正な顔はまっすぐと前を見据えているが、やはり顔色が優れない。
 もとより、鷺の民は身体が強いほうではない上に、負の気の影響を受けているせいだろう。

 本来ならば、このような場所にいるべき存在ではない──
 は何度もそう思うが、口が裂けても言ってはいけない。絵に描いたように美しい容姿に反し、なかなかに激しい気性を持っているからである。「」ちら、と碧眼がを見下ろす。

「はい」
「私の顔になにかついているのか?」
「……いいえ、なにも。いつもと変わらずお美しいお顔です」
「それは嫌味か?」

 はあ、とリュシオンがため息を吐く。はくすくすと笑いながら、視線を逸らした。
 ふいにリュシオンの足が止まり、もまた立ち止まる。おもむろに、リュシオンの手がに伸ばされる。まるで白魚の手のようだ、と思う間に、その手は離れていった。

「葉っぱがついていたぞ。まったく、どこを通ってきたらそうなる」

 葉を捨てながら、リュシオンが少しだけまなじりを下げてやわらかく笑う。歩き出したその背中に一瞬だけ見とれて、は慌てて後を追った。
 ずるい。そんなふうに簡単に触れるなんて、卑怯だ。
 いけないとわかっていても、手を伸ばして触れたくなってしまう。けれど、そんなことは許されない。

 のそんな葛藤をリュシオンが知るわけがなかった。



 リュシオンの歌の力は、軍にとって大きな役割を果たしている。彼自身に戦うすべはなくともその存在は重要であり、またリュシオンが戦場に立つことを望んでいる。決して口には出さないけれど、はそれがとても嫌だった。我らが王であるティバーンが是というのならば従うほかないのも事実である。
 しかし、危険が及ばぬように配慮されているとはいえ、心配になるのは仕方がない。

、私の周りをウロチョロするな!」

 リュシオンがこめかみを押さえ、ため息交じりに言う。何度その言葉を聞いたかもわからないが、言われて初めては、心配のあまり必要以上にいつもリュシオンの傍にいたことに気がつく。

「……もっと前線に出ろ。ティバーンにもそう言われているはずだ」
「リュシオンさま……」

 素直に頷くことができなくて、は俯く。
 はあ、と深いため息を吐いたリュシオンの手が、の手を掴んだ。よりも大きい手だが、この手は誰かを傷つけることはできない。それを知っているからこそ、リュシオンの傍を離れたくない。

「お前には戦う力がある。ティバーンの……アイクのために、その力を使え」
「リュシオンさまをお守りさせてください」
「だめだ」
「リュシオンさま」

 リュシオンがすげなく背を向ける。はその背を見つめながら、ぎゅうと握りこぶしを作り、必死に感情を押し殺す。そうでもしないと、声を荒げてしまいそうだった。
 鷺の民と鷹の民とは違う。どうしたって、リュシオンの身体が屈強になることはない。
 同じようなやりとりを何度繰り返そうとも、リュシオンの意思が折れることはなく、は結局彼の傍を離れるほかなくなってしまう。その度、はひどく不安になる。もしも、リュシオンが自分の目の届かないところで傷ついてしまったら──
 タナス公の一件が、未だのなかで重くしこりのように残って消えない。不安がくすぶる。

「……無茶なさらないでくださいね」

 の言葉などほとんど意味はない。それでも、リュシオンが「勿論だ」と答えるのを聞いて、は化身して飛び立った。


 にとって戦いは苦ではない。むしろ、力を誇示できる場は好ましい。
 けれど、戦いのさなかの興奮は、すぐにしぼんでいく。リュシオンの無事を確かめたい。その思いだけで、翼がはためく。「ちょいと待ちな」と、ヤナフに声をかけられて、はしぶしぶ振り向く。

「なんですか」
「おいおい、つんけんすんなよ」
「だって、落ち着かないんです。リュシオンさまのお姿を目にしないと」

 は胸を手のひらで押さえる。「やれやれ」と、ヤナフが大袈裟に肩をすくめて見せる。

「その怪我の手当てしてからにしろよ」

 指摘されて気づいたように、は興味もなく自身の怪我へと視線を向けた。二の腕の傷は深いものではなく、ほとんど出血も止まっている。このくらいなんでもない、と思ったが、このままの状態でリュシオンに会えば大目玉を食らうことは想像に容易い。
 は思わず眉をひそめる。はやる気持ちはあるが、ヤナフの言う通りだ。

「心配しなくても、白の王子なら無事さ」

 その言葉にほっとすると同時、むっとしてしまう。やはり千里眼は羨ましい限りだ。ひら、と手を振っていくその小さな背を見つめて、は小さくため息を吐いた。




さんが強いのは知ってるよ。でも、ちゃんと怪我をしたなら教えてね」

 ミストが杖を掲げれば、淡い光に包まれる。そうして瞳を瞬かせる間に、傷はなかったかのように癒えてしまう。する、とミストの指が二の腕をなぞる。

さん、女の子なんだし」

 それほど変わらない見目であっても、倍以上の年下であるミストにそう言われ、は苦笑する。女の子だなんて言い方は、自分にはあまりに似つかわしくない。

!」

 転げるような勢いでリュシオンが天幕に飛び込んできて、は思わず目を丸くする。ぐ、と両肩を掴んで詰め寄られ、ますます訳がわからずにきょとんと瞳を瞬く。「じゃ、私はこれで」くすりと笑ったミストがさっさと退出していくのを、はただ見送った。
 リュシオンの眉間に皺が刻まれている。肩を掴む手に力が込められて、はようやくはっとする。

「どうされたんですか? リュシオンさま」
「……怪我を、したと」
「はい。いま、ミストさんに治してもらいました」

 リュシオンの手が動いて、の身体を包み込んだ。深いため息がすぐ傍で聞こえる。それが安堵によるものだとも気づけず、は身じろぐことなく緊張に強張らせた身体をリュシオンに預ける。

「お前が無茶をしてどうする……」

 ぎゅう、ときつく抱きしめられるが、はなおも動くことはできなかったし、なにも言葉を発することができない。
 人を殴れば自分が骨折してしまうほど脆弱だというのに、案外力強い抱擁であった。

 リュシオンがおもむろに動く。両頬を手のひらで包まれ、顔を覗き込まれる。端正な顔の柳眉はひそめられ、やはり眉間に皺が刻まれていた。「痛むところはないんだな?」ひどく近い位置で見つめられ、は緩慢に頷いた。
 こつり、と額と額がくっつく。
 リュシオンの体温を感じ、今さら羞恥がやってきて顔に熱が集まる。は慌てて瞳を閉じた。

「あ、あの」

 喉に何か痞えたように、上手く言葉が紡げない。

「……前言を撤回する」
「え?」

 まるで訳がわからなかった。は思わず目を開けて、リュシオンを見つめた。透き通るほど白い肌がうっすらと赤みを帯びていることに気づく。
 リュシオンが不機嫌そうな表情をしながら、視線を逸らした顔を見て、はすぐに俯く。

「私の傍にいろ」

 え、と先ほどと同じ言葉が、唇からこぼれ落ちる。

「お前が怪我をしたと聞いて、気が気じゃなかった。私は……」
「……」
「私は、お前のことが好きだと気づかされた」
「ずるいですよ、リュシオンさま……」

 幾度となくすげなく扱ってきたくせに。
 王族という立場に対するの躊躇いなどお構いなしだ。

 ぽろ、との瞳からあふれた涙を、リュシオンの美しい指先が拭った。やさしい腕に包まれて、はそろそろと細い背へと手を回す。力を込めれば折れてしまいそうなほど細い体躯だったが、をすっぽりと包みこんでいる。は種族の違い以前に、男女の差異を認識した。

「……お前はいつもこんな気持ちだったのだな」

 今さら過ぎる。はふ、と口元をゆるめた。「ほんとうに、リュシオンさまの周りをウロチョロしてもいいんですね?」からかうように言えば、抱きしめる腕に力が込められる。

「これからは、私の目が届かぬところに行くことは許さん」
「……はい」

 これまで生きてきたなかで、この上なくしあわせな命だった。





「リュシオンさま、ララベルさんに小さな竪琴を譲っていただきました」
「竪琴を?」
「はい。リュシオンさまが使っていた竪琴は、フェニキスに置いてきてしまいましたから」
「待て、……“様”はいらないと何度言えばわかる」
「あ、す、すみません……そうでした」

 こほん、と小さく咳払いして「リュシオン」と蚊の鳴くような声が告げる。満足そうに笑ったリュシオンがに寄り添い、白と茶の羽根が重なり合う。白い指先が弦を弾いて、美しい歌声が紡がれるのに、はうっとりと目を閉じた。
 その姿を遠目から見ていたヤナフが「王に面白い報告ができそうだ」と呟いて、ウルキに咎められていたことなどには知る由もない。

ウィステリア

(まるで至福が降りそそぐよう)