びくっ、と手のひらに身体の震えが伝わって、すぐ傍らから堪えるような吐息を感じる。なだらかな曲線を描く腰を緩くなぞって、パイソンは目を細めた。
 しとりと汗ばむの首筋に気づいて、悪戯心でそこに唇を近づける。

「パイソン、」

 制止にしてはやけに小さい。戸惑いに満ちたその声は、か細く震えていた。

さぁ……」

 ふ、と漏れた笑みが肌に触れて、がぴくりと震える。
 パイソンを止めたいのなら、殴ればいい。けれど、の手は、ただしがみつくばかりである。

「誘ってる?」
「ん……ッ、そんなわけ、な……い、」

 が密着するパイソンの胸板を押し返す。その力があまりに弱々しくて、パイソンは驚きに瞳を瞬かせた。
 いつもルカやフォルスに混じって鍛錬するような腕力自慢のだというのに、これではそこらのシスターよりもか弱いように見える。

 パイソンは喉の奥で小さく笑い、とくとくと脈打つ頸動脈に口づけた。悲鳴のような嬌声のような、甲高い声が短く漏れて、押し返していたの手がぎゅっとパイソンの服に皴を作る。

「違うの? へーぇ、ってばやらしい~」
「ひっ、や」

 ぺろりと伸ばした舌を肌に這わせる。
 逃げるように捩られたの身体が、パイソンに抱き寄せられてより密着する。

 が常用している鎧がない分、案外抱き心地のよい柔らかい身体をしていることや、早鐘を打つ心臓の音がよくわかる。パイソンまでつられてドキドキしてしまいそうだ。
 取って食うつもりなどないが、すこし味見するくらいなら許されるだろうか。

「離し、て。パイソン……」

 の声はもはや泣き声に近い。
 やり過ぎたかと焦って、パイソンはの顔を覗き込んだ。

 きつく瞑られた目尻に涙が滲んでいる。顔全体が赤く色づき、首筋のあたりまでも紅潮していた。普段のからはまったく想像できない顔だった。
 嗜虐的な気持ちを煽られると同時、庇護欲も掻き立てられる。

 迷って迷って迷った末に、パイソンはを解放した。

「……はいはい、わかりましたよーっと」

 急に支えをなくした身体はふらりと傾いたが、持ち前の反射神経と鍛えられた筋力によって、が転倒することはなかった。が脱兎のごとく、パイソンから距離をとる。

「据え膳食わぬは男の恥って言うんだからさ、我慢した俺のこと褒めてよね」
「……褒めるわけないでしょ。大体、据え膳じゃない」

 パイソンを睨みつけるその瞳は潤んでいて、迫力に欠ける。
 震える両腕を抱きしめる様は、まるで小動物に見えた。ぎゅっと力んだまなじりから、涙が落ちる。

「あれま、泣かれると悪いことした気分になるね」

 パイソンはすこしも悪びれずに、の目尻に親指を這わせて涙を拭う。が身を竦ませ、後退りする。
 あまりの怯えように、パイソンは目を丸くした。

「何、どしたのさ」
「触らないで」

 の声音は硬い。
 パイソンは、己の手のひらに視線を落とした。親指がほんのわずかに濡れている。

「いーじゃん、減るもんじゃないし」
「わたしの神経が擦り減るわ」
「ふーん? そりゃ悪うございました」

 パイソンは両手を挙げて、から離れる。
 警戒心を剥き出しに、がじっとパイソンを見つめている。

「何もしないって」
「……信用がないのよ」

 パイソンに立ち去る気がないと察して、がため息を吐いた。

 こうして見ると、は女でしかなかった。
 着替えているところに出くわしたのは、ただの偶然でしかない。驚いたが足を縺れさせたので、咄嗟に抱き留めたのだって事故である。
 グーパーと何となしに手を握っては開く。柔らかい感触が、まだそこに残っている気がした。


 はっきり言って、パイソンはを女と意識したことがなかった。
 前線で戦うが、弓使いのパイソンよりも腕っぷしが強いのは明らかである。鎧のせいで身体の線はまるっと隠れているし、ごつい兜のせいで顔もろくに見えやしない。

 カチャ、と甲冑を身につける音が、聞こえてくる。

「ねぇ、って処女?」

 音が止む。信じられない、と言わんばかりの顔で、がパイソンを凝視する。
 そういえば、はルカと同じように貴族の端くれであった。失言だったかな、とパイソンが思ったときには、頬に衝撃が走っていた。

「最低! その口、縫いつけてやりたい」

 激高したの頬が、恥じらうみたいに赤かった。






 ガシャン、と耳障りな音を立てて外された兜から、ぽたぽたと雨粒が滴る。
 久しぶりにの顔を拝んだパイソンは、不躾な視線を向けた。じろり、とパイソンを睨みつけたが「あなたも早く脱いだら」と、吐き捨てるように言った。

「そんな怖い顔しなくたっていいでしょ」
「……無駄口を叩かないで」

 はいはい、とパイソンは肩を竦めて、言われたとおりに濡れた外套を脱いだ。ぎゅう、と絞れば少なくない水が滴り落ちた。バケツをひっくり返したような雨に打たれれば、当然である。
 突然の豪雨だった。
 成すすべもなく、あっという間に濡れ鼠になったが、洞穴を見つけることができたのは幸いだった。

「うーん、すぐ止むかねえ」

 パイソンは小さく呟きながら、肩当を外す。
 が兜を脱いだきり立ち尽くしていることに気づいて「あらら? 早く脱いだほうがいいんじゃないの?」と、パイソンはにやりと笑った。

「…………」

 む、とが顔をしかめる。

「なによ、手伝ってやろうか」

 パイソンにその気はなかったが、場を和ますためにも手を伸ばすふりをする。がぎくりと顔を強張らせて、後ずさった。

「冗談だよ、ジョーダン。何もするつもりないから、さっさと脱ぎなよ。風邪ひくじゃん」

 が鎧の留め具に手をかける。その指先が震えていた。

「寒い?」
「……平気」
「ま、これじゃ火も熾せないけど」

 火打石は持っているが、乾いた枝がない。
 ここで雨をしのごうとも、濡れた身体は冷えていくばかりだ。

 身を寄せ合えばすこしはマシだろうが、この間のことを思えば、がパイソンにそんなことを許すわけもないだろう。
 鎧を脱ぎ去れば、濡れたインナーが張りついて、の曲線美があらわになっていた。

「パイソン」

 が気まずげに口を開く。

「この間は、ごめんなさい」

 てっきり、じろじろ見たことを咎められるかと思っていた。パイソンは瞳を瞬かせる。

「その、手を上げたのは、さすがにやりすぎだったわ」
「別に謝んなくていいよ。こっちだって、やり過ぎたかなーって思うし」
「……そう」

 ふい、とが顔を背けた。
 それきりが黙り込んでしまったので、パイソンは何だか居たたまれなくなる。雨音が弱まる気配はなく、パイソンはため息を吐いた。

「どうする? ここにいてもどうにもならないし、走ってアジトに戻ったほうがマシかもよ」
「そう、かも……」

 がぶるりと肩を震わせ、心許なさげに両腕を抱く。

「なーんだ、やっぱり寒いんじゃん」

 パイソンはの顔を覗き込む。
 は、とが小さく息を呑んだ。触れてこそいないものの、少し動けば肩がぶつかる距離だ。

 の瞳が鮮やかに見開かれる。じり、とが怯えた様子で後ずさった。

「あのさぁ、別に取って食ったりしないって。に無体を働いたとなれば、フォルスに殺されるね」
「……でも、この前…………」
「だって、も乗り気だったでしょ。少なくとも、俺にはそうとしか見えなかったけど」

 が目を逸らし、口を噤む。
 パイソンとしては、を責めるつもりではなかったし、揶揄うつもりもなかった。ただ、あれで本気で嫌がっていたんだとしたら──

「っ、」

 濡れて張りつく前髪をそっと払ってやる。が弾かれたように顔をあげた。

、あんた相当危ういよ」

 驚愕。それから、絶望。顔色を変えたの瞳に、じわりと涙が滲む。
 あ、と思ったときには、の頬に涙が伝い落ちていた。勘弁してよね、という言葉を、パイソンは喉から出る寸前でため息に変えた。

「……やっぱり、わたし、可笑しいのね」

 がふ、と嘲笑する。

「身体に触れられると、いつもああなの。甲冑だって、ほんとうは動きづらくて嫌だけど、そのほうが君のためだってルカが助言をくれたの」
「へえ、ルカが」
「でも、やっぱりこんなものじゃ、どうにも……」

 頬を指先で撫でれば、涙で濡れた感触がする。
 ぴく、との身体が不自然に跳ねた。

「ルカとはこういうふうになんないの?」

 指を滑らせて、頬のなめらかさを確かめる。「っン、」と、漏れた声を恥じ入るように、が下唇を噛みしめた。
 驚くほどへにゃへにゃの力で、がパイソンの手を払う。

「ルカは、あなたと違って紳士だから」
「あーあ、これだよこれ。参るね、ほんと。色男は憎いや」

 パイソンは払われた手で、の肩を掴んだ。

「紳士じゃなくて悪かったね」

 口ではそう言ったけれど、パイソンは少しも悪いとは思っていなかった。
 何かを言いかけて、の唇が薄く開く。パイソンは小さく笑って、ぺろりとその唇を舐めた。驚いて身を引こうとするの肩を、ぐっと押さえつける。

「ねぇ、キスはしたことはある?」

 問いかけの形ではあったが、パイソンは答えなど必要としていなかった。がわずかに身を捩ったのに気づいていながら、逃れられないように抱き寄せる。

 重ねた唇は柔らかかった。
 力が入らなくたって、唇を噛むことぐらいできるはずだ。よもや舌を噛み千切られることはないだろう、とパイソンは結ばれた唇を舌先でこじ開ける。

「ッふ……」

 びくり、との身体が震える。の舌が奥へと逃げてしまったことに気づいて、パイソンは歯列へと舌を這わせた。
 強張っていたの身体から、次第に力が抜けるのがわかった。

「へへっ、かーわいい」

 パイソンは唇を解放し、の顔を覗き込んだ。
 いつかと同じように、首筋までもが紅潮してしまっている。
 こつん、と額を合わせると、濡れたの前髪がパイソンに顔に張りつく。瞳はきつく閉ざされていたが、おもむろに瞼が押し上げられた。潤んだ瞳がじっとパイソンを見つめる。

 ふいに、の冷たい指先が、パイソンの口を押さえた。

「キスだって、その先だって、したことない」

 が震えた声で告げる。不安げに、の瞳が揺らぐ。
 パイソンは、の手首をやさしく掴んだ。「じゃあさ」と言いながら、パイソンは血の気をなくした爪に口づける。この冷えは、雨のせいか緊張のせいか、定かではない。

の初めて、ぜーんぶ俺がもらっていい?」

 す、との睫毛が瞳を隠す。唾液に濡れた唇が戦慄く。

「責任を、果たしてくれるなら」

 腰を撫でようと伸ばした手が、はたと止まる。
 責任──嫌な言葉だな、とパイソンは思った。
 震える睫毛の先を見つめる。がどれだけの勇気をもってその言葉を口にしたのかなんて、パイソンには推し量ることはできない。

 責任を果たすなんて御免だと思ったのは確かだが、けれどそれ以上にを泣かせることが嫌だと感じた。

「りょーかい」
「…………えっ?」
「そうと決まれば、初めてがこんなところじゃあんまりだから、さっさとアジトに戻ろうぜ」
「え?」

 自分で言っておきながら、了承を得ると思っていなかったのか、が呆けている。
 さっさと身支度を済ませたパイソンは、に兜をかぶせた。

「なによ、それともここで今すぐ純潔を散らしたかったわけ?」
「ち、違っ……」

 手にした鎧が思った以上に重くて、パイソンは眉をひそめる。それでも、置いておくわけにはいかず、いまだ狼狽えるに宛がった。

「あっ、」

 性的な意味はまったくなかった。
 もそれをわかっているのだろう、素早く口を両手で塞ぐ。
 石のように固まってしまったを揶揄いたい気持ちはあったが、それ以上に早く帰りたかった。パイソンは素早く鎧を身につけさせて、湿った外套を纏わせる。

「走れる?」
「あ……あまり、速くは走れないけど」
「だよね。はい、ちゃんと俺の手握ってね」

 ぎゅ、との手を繋ぐ。「行くよ」と、声をかけて雨の中へと走り出す。
 いまだに雨脚は強かったが、アジトに戻ってからのご褒美を思えば、パイソンの足取りは軽くて仕方がなかった。

首筋に

(味見、なんかじゃもう物足りない)