揺らめく炎に向かって紙切れを放れば、ぼうっと一瞬だけ大きく火が燃え上がって、それは跡形もなく焼却した。すぐに元の揺らめきに戻った炎を、はじっと見つめた。
 たゆたう船の上では、なおさら炎はゆらゆらと揺れているようにも思えた。

「汚れ仕事ってのは、おれたちの専売特許だと思っていたんですけど、違ったみたいですね」

 静かな声が落ちる。
 は振り返って、薄暗い部屋のなかに自分以外の姿を見つけた。太陽の元では明るい栗色の髪が、暗く影を落としている。腕組みをして壁に背を預けたマシューの顔には、軽薄そうな笑みは浮かんでいなかった。

 汚れ仕事、と彼が言うのであれば、まさしくその通りなのだろう。は黙ってマシューを見る。
 いつこの部屋に入って来たのかさえわからない。ケチな盗賊、などと軽口を叩いてはいるが、やはり本業はオスティアの密偵なのだ。
 ふっ、と炎が揺れて、視界が不明瞭になる。瞬きの間に距離を詰めたマシューが、の腕を掴む。けれど、それはねじ伏せるわけではなかったし、痛みを与えるほど強い力ではなかった。
 灯りの元、ぼんやりと赤く浮かび上がるマシューの顔は、何故だか苦しげに歪んでいた。

様、今すぐこんな真似はやめてください」

 先程と同様、ひどく静かな声だった。マシューが眉間に深い皺を刻んでいる。
 は答えを持たずに、気づかぬうちに堪えていた息をそうっと吐き出すためだけに、口を開いた。漏れた吐息は震えていた。

「若様が傷つきます。エリウッド様だって、リンディス様も」

 マシューがぐっと眉をしかめた。一度、言いづらそうに唇を結んで、そして躊躇いながらも口を開く。腕を掴んだままのマシューの手に、力がこもった。

「……何よりあなたが一番、傷ついてます」

 やはりは答えを持たなかった。唇を結んで、視線を落とす。
 わからない。嘘を吐くことばかり上手くなって、自分の気持ちなんて今さら考えたこともなかった。驚くほど己には何もないのだ。傷つく心を持ち合わせているのかさえ、には定かではなかった。

「なあ、頼むよ……」

 気がつけば、マシューの口調が崩れている。
 にしてみれば、マシューのほうこそ汚れ仕事をするには優しすぎるような気がした。は、やんわりとマシューの手を振りほどいた。

「マシューさん」

 マシューが小さく息を呑む。相応しい言葉ではないと知っていたが、にはこう言うことしかできない。

「ありがとうございます。お心遣い痛み入ります」
様、」
「ですが、わたくしのことなど、捨て置いてくれて構いません。その程度しか価値はないのです」
様!」

 振りほどいた手が再びの腕を掴んだ。

「自分をそんなふうに言うな! あなたは、自分が思うよりずっと、大切に思われているんです。それくらいわかってくださいよ……」

 言葉の最後は力なく、マシューがうなだれる。掴まれた腕がすこしばかり痛んだが、振りほどく気にはなれなかった。これほどまでに自分に心を砕いてくれる存在を、は知らない。
 赤みを帯びた栗色の髪の毛に、触れる。
 髪と同じ色をした瞳が、じっとを見つめた。

「……わたくしの理解には及びません。わたくしはただの駒に過ぎませんもの」
「……」
「生を受けたときから、いいえ、生まれる前から決まっていました。わたくしは家のために生きて死ぬ、侯爵家の娘としての価値も本当はないのですから」

 マシューの視線がぶれたように感じたのは、が後ろめたいような気持ちになったからだろうか。

「わたくしは不義の子。恥ずべき私生子。命があるだけありがたいと思わなければ」

 マシューが悔しげに唇を噛んで、目を伏せた。マシューの手はおもむろにの腕を放した。
 密偵ならば情報収集はお手の物、のことなど調べつくしているのだろう。いくら隠し立てしようとも、事実は覆せない。の家が必死になって隠している秘密だと言うのに、驚く様子もないマシューに対して、もまた特別驚きはしなかった。

「……あなたには似合わないですよ」

 静かな声を落として、一つの物音を立てずに、マシューが扉の向こうへと消えた。は閉じられた扉を見つめながら、鈍い痛みの残る腕をさすった。



 汚れ仕事とマシューは称したが、に出来ることなどたかが知れている。
 公女という立場を利用して繋がりを作り、諸侯の情報を集める。実しやかな噂話で多少の情勢操作をする。そんなことばかりをしてきた。公女で仲良くなれそうなのはあなただけよ、と言ってくれたリンディスには申し訳ないが、には友と呼べるような心許せる者はいない。

 ラウス候公子エリックの名ばかりの婚約者になってからは、情報を伝えるのがダーレンに変わっただけである。反乱を企てる折に、ダーレンがを利用しないわけがなかった。
 友人のリンディスを助けるという名目で、私兵を率いてラウス候に制圧されたキアランに向かい、エリウッドらと合流した。それはすべてラウス候の命令だった。内部の情報を伝えることが、に与えられた役目だった。些細な内容であろうと情報を流していたのは確かである。

、やれ! 今こそわしの役に立つときだ!」

 ダーレンの濁った瞳がを捉える。

「わしは世界を統べる王だ!」

 火にくべた紙切れには、ダーレンから短い指示が書かれていた。公子を殺害せよ、とその公子がエリウッドとヘクトル、どちらを指すのかはわからない。もしくはどちらもなのかもしれない。
 ダーレンと対峙しているエリウッドが驚いた顔で振り返った。

……?」

 不安そうに名を呼んだのはリンディスだ。ヘクトルが思い切り眉をひそめている。
 素早くの腕を掴んだのは、顔を見るまでもなくマシューであるとわかった。相変わらず、ねじ伏せるわけでもなければ、痛みもなかった。つくづく優しすぎる。ふ、とは小さく笑みを漏らすと、掴まれていないほうの手で魔導書を開いた。杖を振るだけのトルバドールのふりはもうやめだ。

 ぽう、と魔導書から光が漏れる。マシューがそれに怯むことなく、を引き寄せたがすでに詠唱は終わっていた。バランスを崩した身体は馬から落ちて、マシューごと地面に倒れ込んだ。

、なぜ、だ……わしは世界を……統べる……王……ぞ……」

 が放った魔道の光に貫かれ、ダーレンの身体が崩れ落ちる。
 咄嗟にマシューが抱き止めてくれたおかげで、にはほとんど痛みはなかった。「いてて……」と、呻くマシューに気づいて、ははっとして身体を起こした。

「馬鹿だな、手を汚す必要なんてないのに」

 に続いて身体を起こしたマシューに手を取られる。労わるように包む大きな手は、とは違って剣蛸があり、武骨でささくれだっている。
 ──大切なひとを失ったばかりのこの手は、己に触れていいものではない。

 はマシューの手をやんわりと解いて、顔を俯かせた。「」と、名を呼ぶ声が聞こえても、は顔を上げることができなかった。

「君は僕たちの仲間で、友人だ」

 優しい声とともに、暖かい手が肩に置かれる。顔を上げないに向かって、それでもなおエリウッドが優しい言葉をくれる。

「さあ、一緒に行こう。奥に父上がいるはずだ」

 ダーレンの企てを止めるだけの力を持っていればよかった。そうすれば、この優しい笑みを奪うこともなかったし、マシューやエリウッドの大切なひとの命が失われることもなかったのだ。








 クックー、と小さく鳴いて、鳩が窓辺に降り立つ。コンコンとくちばしで窓をノックするので、は窓を開けてやる。伝書鳩として飼いならされたこの鳩は、もうその役目を終えたのに時おりこうして姿を見せる。少し撫でると満足して空へと飛び立っていく。

「ずいぶん主人に忠実なやつですね」

 含み笑いをして、マシューが言った。
 いつ部屋に入って来たのか知らないが、無礼を詫びるわけでもなく、自然にの傍に立って空を見上げた。「おれみたいじゃないですか」と、冗談とも本気ともつかぬ様子で、マシューが笑う。
 はマシューを見上げた。明るい栗色の髪が、陽の光を受けて橙色のように見える。

「マシューさん、どうしてわたくしを気にかけるのですか? まだ何か疑っておいでですか?」
「まさか! そんなふうに思われてるとは知りませんでしたよ」
「いえ、そういうわけではないのですけれど」

 は指先で唇を押さえた。「でも、だって、」と、その先に続く言葉が出てこない。

「……前に、おれが言ったこと、覚えてます?」

 マシューに瞳を覗き込まれて、は反射的に目を伏せた。ふっと笑う気配があったが、は顔を見ることができずに視線を落としたまま、首を横に振った。

様は、あなたが思うよりずっと、大切に思われているんです」
「……そう、でしょうか」

 はそろりと視線を上げた。マシューが満足げに笑って、頷く。

「そうですとも」

 マシューの手が、窓枠を掴むの手に重なった。びくり、とさも意味ありげに手が跳ねてしまって、は誤魔化すこともできずに困った顔でマシューを見た。
 偽ることも嘯くことも、何とも思っていなかったはずなのに、今ではそれが嘘のようだった。
 大きな手にの手がすっぽりと覆われている。マシューのすらりと長い指は、手先の器用さを表すようだった。太陽の眩しさに目を眇めるように、マシューが柔らかく目尻を細めた。ぎゅ、と重なる手に力が込められて、はますます振りほどくことができなくなる。

「もちろん、おれも、様を大切に思ってますよ」

 重ねた手を繋いで、マシューが「さ、そろそろ行きましょうか」と優しく笑んだ。
 を含むエリウッド一行は、オスティア城下でひと時の安らぎを経て、また魔の島へと発たなければならない。ここに至るまで多くの大切な命を失ってしまった。悲しみに浸る暇もなく来てしまった。

「マシューさん」

 この手に触れていいのか、にはわからない。しかし、繋いだ手を振りほどくほどの勇気がない。縋りたい、離したくない、ずっと傍に──以前は思いもしなかったのに、のなかには欲がある。

「そうだ、レイラのために花を買っていかないと。あそこにはロクな花が咲いてなくて、手向けられなかったんです。良ければ様が選んでくれませんか?」
「わたくしが?」
「まあ、また一緒に行く機会はあるかもしれませんけど」

 マシューがあまりにもさらりと言ってのけるものだから、は言葉の意味をすぐには理解できない。手を引かれるがまま、はマシューについていく。

「必ず、ここに戻ってきましょう」

 ふいに、マシューが静かな声をぽつりと落とした。マシューの表情を窺う間もなく、城下街で先に待っていたリンディスが「、遅いじゃない!」と駆け寄ってくる。
 するりと離れていく手を、は無意識に視線で追いかけた。そして、その人差し指がマシューの口の前に立てられる。「またあとで迎えに来ます」と、小さく囁いて、あっという間に姿を消してしまう。流石は訓練されたオスティアの密偵である。

、顔が赤いけど……熱でもあるの?」
「えっ、な、なんでもありません」

 慌てて手のひらで押さえた頬は、隠し切れないほどに熱を持っていた。

「ふーん、ったらいつの間に……」
「ち、違います」
「あら、違うって何が? 私は別に何も言ってないけど」

 にやにやと笑ってリンディスが顔を覗き込んでくるので、は殊更赤らめた顔を俯いて隠した。
 果たしてマシューの言葉通りに、何度か一緒にレイラの眠る地へ足を運んだのち「おれの大事なひとだよ」と紹介されるのは、そう遠くはない未来である。

鼓動だけは嘘をつかない

(あなたといるといつもドキドキしている)