がしゃん、と派手な音を立ててすり鉢が割れた。
投げつけられたそれを軽く避けたマシューは、乾いた笑いを漏らした。次いで、すりこぎを握った手が振りかぶられる。マシューは慌てて細い手首を掴んだ。
「、落ち着けよ」
「わたしは落ち着いています」
間髪入れずに返され、マシューは肩をすくめた。
「昨夜はあんなに可愛かったのに」
の頬にさっと赤みがさす。怒りか羞恥か、もしくはその両方かもしれない。マシューは口角を上げ、の手からすりこぎを素早く奪い取った。
恨みがましい視線がマシューを見上げる。けれど、その瞳は若干潤んでいるようにも見え、ちっとも怖くない。むしろすこし可愛げがあるくらいだったが、それを口にすれば火に油を注ぐだけである。マシューは緩む頬を一度引き締めると、表面上だけ神妙な顔を取り繕って、の視線を受け止める。
「そういうことを口にするのはやめてください」
「はは、悪い」
「……まったく誠意が感じられません」
はあ、とが盛大なため息を吐いた。「怖い顔するなよ」と、マシューは深く刻まれた眉間の皺を指先でつつく。
「誠意が! 欠片も! 感じられませんっ!」
が辛抱堪らんと言うように声を荒げた。
さすがにからかい過ぎたか。の握りしめられた拳がぷるぷると震えている。彼女が薬師などではなく、武器を持って戦う職業ならば、マシューはよもやコテンパンにされていたかもしれない。それほどの怒りを感じる。
「……なあ、嫌だったか?」
こんな聞き方をするのはずるいと知っている。が鋭く息を呑んだ。
「それは、」
「それは?」
顔を覗き込むと、が視線を逸らした。そして、その辺にある薬草をひと掴みして「お答えできかねます」と、乱暴にこちらへ投げつけてくる。ひょい、と身体を避けるもマシューを花吹雪で包むように薬草は舞い落ちた。独特のにおいが鼻をつく。
思わず眉をひそめたマシューの背を、の手がぐいぐいと押してくる。
これ以上ここに居座っても状況が悪化するだけだろう。マシューはそう判断して、素直に天幕から追い出されることにした。
「放っといてください」
勢いよく、天幕の垂れ幕が閉じられる。
マシューはしばらく入り口を見つめていたが、ごりごりとすり鉢の音が聞こえてくると、ようやく踵を返した。
杖一本を振るだけで怪我は綺麗さっぱりなくなるが、癒し手も杖も有限である。ウーゼルお抱えの薬師であるがリキア軍に加わり、傷薬はもちろんのこと滋養強壮剤もお手の物とあって、戦いだけでなく行軍にも非常に功を奏している。
同じオスティアに仕える身として、マシューには誇らしい気持ちがある。
けれど、彼女はいつまでたっても、謙遜して恐縮してばかりいた。薬を作る以外にはなにもできず、戦場に立つことすらできないと、恥ずかし気に語る。
ちょっとばかり緊張をほぐしてやろうと思って、酒を酌み交わしたのだが──マシューの脳裏に、昨夜のの姿が過る。
軽率な真似をした自覚はある。だが、後悔はしていなかった。
マシューにはいくつもの眠れぬ夜があった。さすがに任務に支障をきたしそうだと思っていると、その顔色の悪さに気づいて、が声をかけてくれた。処方してくれた睡眠導入剤はよく効いた。
そして、それだけではなく、マシューの話を親身になって聞いてくれた。
そのおかげか最近は胸糞の悪くなる夢を見ない。薬がなくても眠れていた。
「……のやつ、すり鉢投げることねぇのに」
ふ、とマシューの頬が緩んだ。こんなふうに穏やかな心地でいられるのは、まぎれもなくのおかげである。
頃合いを見計らって、マシューはそっと天幕を覗き込む。小さな背が、懸命にすりこぎを動かす姿が見えた。マシューに気づく様子もなく集中している。
ふう、とが一息ついて、額を拭った。
「ご苦労さん」
びくっとの肩が跳ね上がる。恐る恐るというように振り向いたが、ひどく困惑した顔をする。
「ま、マシューさん……」
「放っとけと言われてもね。おれは昨日のことを、なかったことにするつもりはないぜ?」
「…………そう、言われましても……」
が視線を手元へと落とした。「あれは過ちです」と、静かな声が告げる。マシューは適当に腰を落ち着けて、の言葉の続きを待った。
「いまは平時ではないし、わたしは……わたしたちは、その、弱っていたというか」
が窺うような視線を向けて、すぐに目を伏せる。膝元で重ねられた手が震えて、それを抑え込むようにぎゅっと握られる。力を込める瞬間、が一度唇を結んだ。
「お互い、酒に飲まれたのでしょう」
努めて冷静に話しているつもりなのだろう。たしかに、声を荒げることもないし、すり鉢を投げつけてくることもない。
マシューは馬鹿ではない。密偵として観察眼も優れている。一見大人ぶった態度だが、舐めてもらっちゃ困る。どこにでもいるような女の化けの皮をはがすことぐらい、朝飯前だ。
「へえ、そりゃあまた、知ったような口を聞いてくれるな」
え、とが呆けた声を上げた。俯きかけた顔を、顎に指をかけて上げさせて視線を合わせる。の瞳が揺れる。
「おれは、失った痛みを、代わりで埋めるような真似はしない」
レイラはもういない。そして、その代わりなど存在し得ない。
がマシューの手を振り払って、後ずさる。すり鉢とすりこぎが転がった。はあっ、とが喘ぐように苦しげに息を吐き出す。
「わたし、は」
ウーゼルの訃報は、もちろんマシューにも届いていた。それをヘクトルには悟られないように、とオズインともども気を張っていた。
薬師であるが、ウーゼルの病状を知らないはずがなかった。
ウーゼルの元を離れて、リキア軍に同行するようになったのは、もうほとんど薬の意味がなかったのだろう。
「わたし、なにも、できなくて」
彼女が謙遜し、恐縮する理由は、これだったのだ。
顔を上げたは真っ青だった。震える唇が、震える声を紡ぐ。「これしかできないのに、お役に立てないなんて」か細く響く言葉が痛々しい。マシューは、の震えを押さえるように、腕に閉じ込める。
「落ち着け。大丈夫だから」
の手が縋るように、マシューの背に回る。「マシューさん」と、まるで昨夜と同じように、が目を閉じてぴたりと胸元に頬を寄せる。不謹慎にも心臓がどきりと跳ねた。
「もっと、きつく、抱きしめてください」
ぎゅ、と言われた通り腕に力を込める。の身体の震えはいつの間にか治まっていた。
「生きている、と実感します……」
ひどく感慨深げにが呟いて、マシューを見上げた。
相変わらず白い顔だが、血の気は通っている。マシューはそのことに安堵して、の頬に触れた。輪郭をなぞって、薄く開かれた唇に指先で触れる。
「……嫌じゃ、ないです。マシューさんなら」
躊躇いをたっぷり含んで、が告げる。ふ、とマシューは口角を上げた。
これでは昨夜の二の舞なのだが──素面な分、どこか気恥ずかしさを孕みながら、マシューは唇を重ねた。
「誘ったのは、だからな」
昨夜も、いまも。