「わたしがしあわせにします」
真剣な顔だった。ふざけている様子はなく、いたって真面目な台詞だった。
けれど、マシューはその言葉をすぐに受け止めることができず、思わず眉をひそめてを見つめた。彼女は真剣な表情をしたまま、すこしだけ首をかしげる。そうして、「わたしが、マシューさんを、しあわせにします」と、先ほどよりもゆっくりとはっきりと告げた。
照れる、といった感情の欠片も見られないが、そこでようやっとマシューはこれが告白であると思い至った。
なにも言わないマシューをどう思ったのか、がふにゃりと眉尻を下げた。マシューはあわてて口を開く。
「ああいや、その、いやに急だなと思って」
妙に歯切れが悪い。マシューは気まずく、視線をそらす。
がひどく困惑している。けれど、それ以上にマシューも困惑していた。だからこそ、うまく対応することができない。
「迷惑ですか?」
が泣きそうな顔をして、泣きそうな声で言った。
──迷惑、なのだろうか。マシューはを憎からず思っているのは確かだったが、はたしてそれは恋情と呼べるものではない。なんと答えればよいのか言葉を選ぶが、がうつむくのを見て、なんだかひどく申し訳ない気持ちになる。
マシューは少しの沈黙を置いて、「」と名前を呼んだ。おもむろに顔が上がる。泣いてはいないことに安堵した。
「がそう思ってくれるのは、うれしいよ。ありがとう」
「……」
「だけどおれは、幸せになりたいとは、別に思ってないんだ」
え、との唇から零れ落ちる。「強いて言うなら、若様を陰ながら支えられることが幸せかもな」マシューは、軽口をたたいていつものように笑う。こうしてはぐらかして、できるならばこの話をなかったことにしてしまいたい。
マシューは自分が、卑怯者で臆病者であるとわかっている。
守れずに失うことを恐れている。それ故に、大事なひとができてしまうことを恐れている。なによりも、レイラを忘れてしまうことを恐れている。
踵を返したマシューの外套を引っ張る手があった。まだ話は終わっていない、というようだった。
「だったら、わたしをしあわせにしてください」
マシューは思わず面食らう。「は?」思ったまま声に出た。
見下ろしたの顔は、相変わらず真剣そのものだ。マシューはますます困惑したが、外套を掴むその手が震えていることに気づき、真面目に向き合わなければいけないと考えを改める。
きゅっと結ばれた唇は、マシューの言葉を待っている。
丁寧に仕事をする人柄であるが、掃除がものすごく早いとか洗濯物がとりわけきれいとか、紅茶がこの上なくおいしいとか、そういった才能はまるで平凡である娘──容姿や性格も目立ったところはないのがという認識だったが、頑固であるという特徴を加える必要がある、とマシューは頭の片隅で思った。
が震える吐息を唇から漏らした。「……そばにいるだけで、しあわせだから、」湿っぽい声だった。
マシューは、が冒頭の言葉を告げるまでに、ずいぶんと思い悩んだのだろうと察し、言葉の重みを今さらながらに実感した。そして、自分の返す言葉の軽薄さも痛いほど実感せざるを得ない。
「できないよ」
「え」
「おれには、を幸せになんてできない」
「──」
「……ごめんな」
マシューさん、と音もなく唇が動いた。外套を掴んだ手が力なく離れていく。
「わたしのほうこそ、困らせてしまって、すみません」
が丁寧に腰を折る。女中として身に着けた仕草だろうが、あまりに畏まったそれにマシューは気後れする。
顔を上げたが困ったように笑みをこぼした。
「仕事に戻ります」
それだけ言って、振り向くことなく小走りに去っていくの背を、マシューはただ見つめることしかできなかった。
その背が見えなくなって、マシューは小さくため息をついて、頭を掻く。
悪いことをしてしまった。
そう思うものの、どういった言葉をかけるのが相応しいのか、見当もつかずに頭を抱えるほかない。「情けね……」ぼそ、と呟いた言葉は想像以上にマシューの胸の内を重くした。
ふと、それまでなんの意識もしていなかったが、数日オスティアを離れていても部屋の雰囲気は変わらずに、冷たいシーツは陽の匂いさえ香っている。
主がいない間も、しっかりと部屋のメンテナンスが施されていることに、マシューは今さらながらに気が付いた。
「……」
すぐにだと思い至った。
掃除が隅々までいきわたり、換気もよくされていて埃っぽさなど微塵も感じず、ベッドシーツはきれいに整っている。思えば、オスティアに帰ってくると、いつも笑顔で出迎えてくれるがいた。マシューの帰りを心待ちにしてくれていたのかもしれない。
マシューはベッドに寝転がり、天井を見つめた。おもむろに持ち上げた右手で目元を覆う。
「幸せに、か」
レイラのいない世界で、誰かと笑いあう。マシューはそんな姿を想像して、唇を歪めた。どれほどの月日が流れても、この胸の痛みは忘れられそうにもない。
レイラが、今のような腐った自分を望んでいないことは、マシュー自身がよくわかっている。
彼女のことはよく知っている──
は、と嘲笑が漏れる。
いつまでもこんな風にして、彼女にしがみついている自分が、誰かを幸せになどできるわけがない。そばにいるだけで、なんて。
「馬鹿やろう」
そんな台詞は、自分に向けられていいものではない。
マシューはごろりと寝返りを打つ。ふわりと太陽の匂いが香る。その香りがつんと鼻の奥を刺激するようで、マシューはぐっと歯を食いしばる。泣きたいのは、のほうだ。
マシューさん、と声をかける姿を見なくなって、マシューはようやくが意図的に自分を探しては声をかけていたのだと知った。いまの今まで、ただの偶然だと思っていたことが、情けないやら恥ずかしいやら、マシューは小さくため息を吐く。
「もういいわ、。今日は休んでいて頂戴。あなたがいると仕事が増える」
メイド長からため息交じりに叱られているの姿が見えて、マシューは足を止める。
が申し訳なさそうに「すみません」と、何度も頭を下げている。その足元にはバケツが転がっており、辺りに水がぶちまけられている。
珍しい、とマシューは思う。にメイドとして秀でた能力はないが、丁寧な仕事ぶりは失敗も少ない。
とぼとぼと歩くがこちらに向かってくる。マシューは顔を合わせぬように姿を消すか迷うが、その逡巡の間にの視線に捉われる。もとより大きな瞳がこぼれんばかりに見開かれ、気まずそうに伏せられる。
その様子にマシューもまた、気まずさを覚えた。
不自然にならぬようすれ違う。ふいに、の足が止まって、マシューを振りかぶった。
「あ、あの、」
マシューは蚊の鳴くような小さな声を捉え、振り向く。の手がぎゅ、とエプロンを握りしめているのが見えた。視線を上げると目が合って、マシューはなぜだか逸らしてしまう。
「マシューさんのせいじゃ、ありませんから」
「え?」
「わたし、よく失敗して迷惑をかけてしまうんです。だから、今日のも、いつものことですから」
がそれだけ言って、頭を下げる。マシューは反射的に、踵を返したの手を掴んでいた。
「えっ……」
が驚きの声を上げる。
「」
マシューは構わずに、の肩を掴んで向き合う形にする。の身体が緊張で強張るのを感じる。顔を覗き込むが、の伏せられた視線が交わることはなかった。
「嘘つかなくたっていい。おまえの仕事ぶりは知ってるよ」
「……っ」
「それから、いつもおれの部屋を掃除したり、布団も干してくれたり、ありがとうな」
びく、と肩を跳ね上げたがそろりと視線を上げた。
「知って、……たんですか?」
その声はどこか怯えを含んでいた。マシューは苦笑を漏らす。
怖がらせたり、これ以上傷つけるつもりはなかった。マシューはいつものように、明るく気安い様子で、軽くの肩を叩いてやる。「ま、今日はゆっくり休めよ」と、ひらりと手を振って背を向ける。
ちら、と向けた視線の向こう、が肩を押さえてうつむいているのが見えた。
「待って、マシューさん、」
の手が伸びる。「?」けれど、それがマシューに届くことはなく、躊躇うように宙で止まった。マシューは怪訝に眉をひそめて振り返る。震える手が、の胸元へと戻っていく。
「そんなふうに、マシューさんが笑うのは、いやです」
じ、とマシューを見上げるその瞳が、見る見るうちに潤んでいく。そうして、こぼれ落ちて頬を伝う涙を、マシューはなにも言えないままただ見つめた。ひどくきれいな涙だった。誰かのために流す涙は、こんなにも美しく尊いのだと、気づかされた気がする。
小さくしゃくりあげたが、両手で顔を覆って、うつむく。
「オスティアに戻ってきてから、マシューさんはずっとそうです。無理して明るく振る舞ってばかりで、わたしは、そんなマシューさんを見るのが苦しい」
泣かないでくれ、と思うのに、自分のために泣いてくれてありがとうとも思ってしまう。マシューはのつむじを見つめながら、かけるべき言葉を探す。
「幸せになりたいと思ってないなんて、そんな悲しいことを、言わないでください」
が顔を上げた。「だって、きっと、」一度結ばれた唇が、震えるように開かれる。
「だれも、そんなこと、望んでいません」
──そう、レイラだって、そんなことを望んでやいないのだ。
マシューは無意識に、の頬に手を触れていた。次から次へと伝い落ちる涙を親指でやさしく拭う。「ご、ごめんなさい、」とが慌てて身体を引いて、手の甲で涙を拭った。弾けた涙がきらりと光る。
欺くのは得意だった。
密偵として、身を潜り込ませるのはもちろん、周囲に溶け込むことは訓練されてきたことだ。ケチな盗賊、なんて軽口を叩いて本音を隠すのは、決して苦ではなかった。
けれど、これほどまで真摯に自分と向き合うこの娘に、これ以上心ない言葉であしらうことは許されない気がした。マシューはひとつ、重いため息を吐く。
「若様も、そんな風に思ってっかな」
急去したウーゼルの跡を継いだヘクトルには余裕がないが、それでも何かと声をかけてくれるということは、気を遣わせていたに違いない。それに気付くことすらできずに、支えてやりたいだなんて、滑稽にもほどがある。
「情けないな……何でもないふりしてるつもりだったけど、やっぱ堪えるよ。いつまでも忘れられないし、いつまでも悔やんでばかりだし、なんでレイラがって思っちまう」
の手がおもむろに伸びて、マシューをぎこちない動きで包み込んだ。
「どうして、なんでもないふりなんてするんですか?」
「……これでも、大人だからさ」
若様よりずっと、とマシューは自嘲するようにつぶやく。
背に回ったの腕に力が籠る。「大人だって、声をあげて泣いてもいいんです」そう告げるの声は静かだった。
レイラの亡骸を前にしてなお、涙を流せなかったのに──マシューは縋るように、をぎゅっと抱きしめた。レイラよりもずっと小さい体躯である。マシューはその肩口に顔を埋めて、誰の目に留まることなく、すこしだけ泣いた。ゆるゆるとの手がずっとマシューの背を撫でていた。
「マシューさん」
マシューは外套の襟もとを持ち上げてわずかに口元を隠しながら、を振り返った。年甲斐もなく泣いてしまった手前、気恥ずかしさから直視できそうになかった。
「わたしじゃなくてもいいんです。ヘクトル様でも、セーラさんでも、マシューさんのことを大事に思っている方はたくさんいます。だから、ひとりで思い詰めるのだけはやめてください」
お願いします、とが頭を下げる。マシューは視線を逸らし、人差し指で頬を掻いた。
「ああ、わかった」
「……はい」
が小さく息を吐いて、よかったと笑う。
わたしがしあわせにします。
ふいに、の言葉が脳裏を過る。マシューはの笑う顔を見つめながら、その言葉通りになるのはそう遠くないかもしれないな、と思うのだった。