さよならをしないと、と彼女が言った。
 とても静かな声だった。ただ、レイラの亡骸を抱えてじっと息をひそめるマシューの肩を、皆を導く手がそっと撫でた。「こんな形でも見つけてあげられてよかった。あなたに見送ってもらえるなら、きっと寂しくありません」まるで吐息のような、ほそい声が告げる。がぎこちない微笑みをマシューへ向けた。

「……そうだな」

 いつまでもこうしているわけにはいかないことに、マシューはとっくのとうに気づいていた。竜の門へと近づいている今、足を止める時間などない。ヘクトルやエリウッドが待っている。けれど、マシューは冷たくなったレイラを見つめて、動き出すことができずにいる。

「大丈夫です。どうか時間は気にせず、お別れを」

 立ち上がったの手を、マシューは思わず掴んだ。
 驚いた顔がマシューを見る。マシューはなぜだか、とはじめて出会った頃を思い出した。見習い軍師で、まだ頼りなく、ときには不安な顔で戦場に立っていた姿──いまは一端の、フェレ軍師なのだから人は成長するものだ。

「なあ、さん」

 かたや皆の信頼を一挙に受ける軍師に、かたや後ろ暗い仕事を行う密偵。以前と同じように気さくに話しかけても、嫌な顔一つ見せず、立場が変わってもそれを鼻にかけたりしないことにマシューは安堵していた。神妙な顔をして、がマシューの言葉を待っている。
 急かすわけでもない。沈黙。静寂。
 恋人の亡骸を抱いた男が、女の腕を掴んで引き留めている。奇妙な光景にちがいないが、それを見る者も、指摘する者もいない。

「頼む。おまえも一緒に弔ってくれないか」
「え? でも……」
「……頼むよ、さん」

 気を遣って、ヘクトルたちがマシューをひとりにしてくれようとしていることはわかっている。この辛く、苦しい思いを分かち合いたいわけではなかったが、マシューはなぜだかに縋りたくなったのだ。

「わかりました。マシューがそう言うのでしたら」

 頷きとともに返された言葉に、マシューはわずかばかり口元を緩めた。



 まるで眠っているような錯覚すら覚えるほど、レイラの死に顔は美しかった。
 相当な手練れにやられたのだろう、急所以外には損傷がない。だからこそ、ヘクトルたちもすぐには亡くなっていることに気づかなかった。

 土に埋もれ、その姿が見えなくなっていく。
 マシューよりも遥かに優秀な密偵。
 だからこそ危険な仕事も多いが、レイラに限ってヘマなどあり得ないと、本当にそう思っていたのだろうか。この仕事が終わったら、なんて呑気なことを考えていた自身にマシューは腹がたった。

「後悔先に立たず、なんてよく言ったもんだな」

 なぜもっと早くに足を洗わせなかったのか。
 なぜ、どうして、もしも──仕方のない考えばかりがぐるぐると回る。

 マシューはかぶりを振って、物言わぬを見やった。
 短く切りそろえられた爪の間に泥土が入り込んだ、小さな白い手が丁寧に土を均していく。の額にはじわりと汗がにじんでいて、彼女にとっては重労働だったことが覗える。

「わたしも後悔ばかりしています」
さんが?」

 マシューは意外だと言わんばかりに驚いた。
 いつも迷いなく指揮を執っているように見えていた。が膝についた土を払いながら、立ち上がる。

「でも、立ち止まってはいられない。皆さんの命を預かっていますから」

 それは、まるで自身に言い聞かせるような口ぶりだった。汚れたの手が、傍らに生えている花を摘む。「魔の島なんて場所でも、花は咲いているんですね」何本か見繕うと、レイラを埋葬した上へ手向けた。

「オスティアに、連れて帰ってあげられなくて、ごめんなさい」

 の言葉がずんと胸に重く沈んでいく。
 ああ、レイラ、こんな所にひとり置いていくことしかできないおれを許してくれ。

「……おれさ、この仕事を終えたら、レイラを家族に紹介しようと思ってた。それじゃあ、遅かったんだな」

 が振り向く。
 ひらりと花弁が風に舞い上がった。じめじめと薄暗い気味の悪い場所だというのに、なぜか神聖な場所にいるような錯覚を覚える。

──密偵なんて仕事、いつ死ぬかわからないことぐらい、知ってたのにな」

 嘲笑したつもりだったが、マシューはうまく唇を動かせなかった。それどころか、身体は鉛のように重く、膝をついたまま腰を上げることができない。ただ、レイラが埋まっているその土を眺め、手のひらで撫でることしか今のマシューにはできそうになかった。
 なくしたものが大きすぎる。
 ヘクトルのもとへ戻らなくては。マシューはぐっと唇をかみしめた。

「また、レイラさんに逢いに来ましょう」

 の手が、マシューの肩をやさしく包んだ。マシューはおもむろにを見た。

「そのときは、レイラさんのお話を、たくさん聞かせてください」

 そのやわらかな微笑みがマシューの心を溶かすようだった。
 いつの間にか、あの見習い軍師は、こんなにも強く頼もしくなっているのだ。立ち止まってはいられない、と先ほどのの言葉が脳裏をよぎる。マシューよりもずっと多くの後悔をして、それらを乗り越えて強くなったのだろう。

「……ああ、いくらでも話してやるよ」
「はい、約束です」

 が満足そうに、大袈裟なくらいに大きく頷いた。


 「、敵だ!」と、ヘクトルの声が聞こえ、よりも早くマシューは立ち上がった。が一瞬だけマシューを見やり、逡巡する間がほんのわずかばかり見られた。

「行こう」
「マシュー、あなたは……」
「こんなところで立ち止まっていたら、レイラに笑われちまうよ」
「……」

 マシューはレイラのことをよく知っている。
 自分のことで任務をさぼったとなれば、怒るに違いない。そういう真面目なところも好きだった。
 それに、霧の深い場所でこそ、目の利く自分の出番である。マシューは心配そうに見つめるの肩へ、こつりと額を預けた。の身体のこわばりから緊張を感じる。

「ありがとうな、

 小さく、呟くように告げる。
 そうして顔をあげたとき、マシューはようやく笑みを形作ることができた。

「ほら、若さまが呼んでるぜ」

 マシューはいつもの軽い口調でを促した。はい、と駆け出すの背は、思っていたよりもずいぶんと小さく華奢だった。
 ふと、追いかけようと踏み出した足を止め、レイラを振り返る。

 今はまだ、嘆くことも、悲しむこともしない。



「若さま! 戻りましたよ」

 驚くヘクトルに向けた笑みは、決して無理をして作ったものではない。
 こうして、めげずにいられるのは間違いなくのおかげだ。「マシュー、頼りにしてもいいですか?」霧の深さに眉を顰め、たいまつを手にしたがマシューを見上げる。

「もちろん、まかしといてください!」

 ──ほんとうは。
 すこしばかり、を責める気持ちがあったのだ。軍師として多くの命を救ってきたくせに、どうしてレイラを救えなかったのだと。お門違いも甚だしいが、やりきれない思いをぶつけるくらい許されるのではないかとさえ考えていた。
 けれど、大切なものを失う痛みも、恐怖も、のほうがより多いのかもしれなかった。

「レイラさん、あなたの大切なひとは、絶対に死なせません」

 が祈るように囁いたその言葉は、マシューの耳にもかすかな音ながら届いた。
 思わず振り向き見たその顔は、すでに頼れるフェレ軍師だ。霧をじっと見据えている。それでも、指先の小さな震えと、細く吐き出された息が彼女の緊張や恐怖を表していることに、マシューは改めて気がついた。この少女に頼りきっていたことが情けない。
 マシューは、先ほどがしてくれたように、細い肩をそっと撫でた。

「安心しろよ、おれがちゃんと周りを見てやるから」
「……っ、は、はい」

 気負いが感じられていたその肩から、適度に力が抜ける。マシューは軽くの背を叩き、先導するために霧の中へと進んでいった。


 いつか、この場所に戻ってきたときは、にレイラの話をうんと聞かせてあげよう。思う存分、レイラを想い嘆き悲しもう。泣くのはそれからでも遅くない。

 そして、のその小さな肩に乗せられた重荷を、分かち合えたらいい。がこうして、マシューの痛みを汲みとってくれたように。軍師の仮面をもう取ってもいいのだと伝えて、出会った頃のような年相応の顔が見れたらいい。
 そうしたら、涙のひとつでも見られるだろうか。

 マシューはそんないつかを思い、すこしだけ口角をあげた。

泣くためのいつか