ああ、わたしはこの人を、殺してしまうのかもしれないんだな。
不意に胸に落ちた思いはひどく恐ろしく、わたしを臆病にさせた。そして、より狡猾にさせて、また醜い感情も抱かせたのだ。ほかの何を犠牲にしてでも、この人だけは死なせたくはないという、愚かで滑稽な願いが生まれてしまったのだ。
だけれども、きっと一生口に出すことのできないこの想いは、蓋をして隠すほかない。
「マシューは待機をお願いします」
は感情が抜け落ちたような、ひどく静かな声で告げた。
一瞬だけ、マシューの瞳に不満の色が滲んだが、まるで見間違いだったかのように端正な顔には笑みが浮かんだ。そうして、おどけたように肩をすくめてみせる。
「おれはお払い箱ってわけか」
「…………」
やや離れたところで壁に背を預けているラガルトは、目を閉じて腕を組んでいる。その口元は弧を描いているように見えた。
はなにかから逃れるように目を伏せて、戸惑いを覚えながらまだ呼び慣れぬ名を口にした。「ラガルト、」薄く開いた眼がを見る。緊張か恐怖か、背筋に震えが走った。
唇を結ぶ。そうしないと、泣き出したいような感情を抑え込むことが、ひどく困難だった。
おもむろに伸びたラガルトの手がの肩を軽く叩いた。まるで、気の置けない友人にするような仕草だった。は先ほどよりも随分と近くでラガルトを見た。やはり笑っている。
「ま、よろしく頼むよ。軍師殿」
揶揄うような声色にも、労わるような声色にも聞こえた。
そのまま闇に溶けるように、背は遠ざかって見えなくなった。マシューがラガルトの消えたその先を睨むように見つめている。はそれに気づいて、マシューの顔を見られずに俯いた。
「……あいつのこと、信用するのか」
は思わず笑いそうになって、それがひどく場にそぐわないことだと気づいて、唇をかみしめた。
信用なんて、そんなものがあるわけがないのに。
べつに、マシューのように疑っているわけではない。けれど、その腕を見込んでとか、信頼を寄せるからだとか、そんな理由は欠片もないのだ──は浅はかな思いに気づかれないように、そっと息を吐く。
「ラガルトの方が腕が立つのはたしか、って言ったらどうします」
「……」
「珍しいですね。マシューがそうやって、わたしに感情をぶつけるの。あなたは、いつも、やさしい」
「そっちこそ、いつだって腹が立つくらい軍師だ」
は今度こそ、堪えきれずに小さく笑った。どこが、と問いたい。私情を挟める軍師なんて存在していいわけがない。
「気づいてるか?」
「なにを、」
「さっきから、指先が震えてる」
「……!」
素早くマシューに腕を掴まれる。はしばみ色の瞳は、ひどく冷静にを見下ろしていて、すうっとつま先から冷え冷えとしていく感覚がした。
取り繕わなければ、と咄嗟に脳は判断を下したのに、反して表情が崩れてしまう。「なんだか寒くて、」戦慄いた唇がやけに震えた声で告げるものだから、はますます表情を改めることができず、俯く。しかし、マシューに顎を掴まれて視線を合わされる。
「なにを隠してる?」
ぞっとする。は何も言えず、その瞳を見返して、すべてを見透かされているような気分になった。不意に手が離れる。
「言いたくないならいい。少なくとも、おれはおまえを信頼してるよ」
マシューの口ぶりはひどくぞんざいで、苛立ちが感じられる。
は結んだ唇をゆっくりと開き、ため息ともつかぬ吐息を漏らす。ピリピリとした空気は、まぎれもなくマシューから発せられている。振り払うようには緩くかぶりを振った。
「わたしは、自分が信じられません。軽んじられる命なんてない。すべて等しく尊い命なのに、思ってしまうんです」
いつから、こんな風に考えてしまうようになったのだろうか。打算的で、利己的で、まるで自分のことしか考えていない。
ちっぽけな手で守れるものなど限られている。大切なものはいったいどれだけあるというのだろうか。恐れるのは、何だ。
──すべてを守れる軍師でいたかったはずなのに、
「この人だけは、死なないでほしいと願ってしまうんです」
「おれだって、若様だけには死んでほしくないと思う。それと同じだろ」
「違います!」
は思わず声を荒げる。マシューがわからないというように、眉を顰めた。
「ちがう、わたしは、そんな風に考えちゃいけないんです。わたしは、みなさんの命を預かっているんですから」
一番に考えなければいけないのは、皆の安全であり、いかに犠牲なく戦を制することができるか。犠牲を払ってまで、だれかを守りたいなんて、ひどく愚かだ。
ただの密偵と暗殺者ではやはり格が違い、前線に立つのは得意ではないマシューに対して、ラガルトは斥候から戦いにおいても目覚ましい活躍をしてくれる。期待以上の働きであったが、周囲とはあまり馴染めていない部分があった。
いつかと同じように、ラガルトが腕を組んで背を壁に預けている。
「骨が折れるねえ」
なんでもない口ぶりなのに、まるで責めているように聞こえてしまう。は気まずさを感じて目をそらす。
「軍師殿はよぉくやってくれてるさ。あんたを責めるわけじゃない」
「いえ、わたしは」
「折り入って頼みがあるんだが、いい加減マシューってやつをどうにかしてくれないかい? このままじゃいつか殺されちまう」
くつくつと笑うその様は、まるで言葉の信憑性がない。しかし、マシューが射殺さんばかりの視線をラガルトに向けているのは事実である。
マシューが音もなく現れて、素早くラガルトに掴みかかる。「マシュー!」思わず悲鳴交じりの声が上がって、マシューがぴたりと動きを止めた。ラガルトがわざとらしく肩を竦めてマシューから離れる。
「頼んだよ、軍師殿」
ラガルトがひらりと片手をあげて、何事もなかったかのように去っていく。
その背を睨み付けていたマシューがを振り返る。びくりと肩が揺れた。マシューと顔を合わせるのは、待機を言い渡したあの日以来である。
マシューとラガルトがいがみ合うのは仕方のないことであり初めからそうであったが、顕著になったのは明らかにラガルトを登用してからだ。のせいだとも言える。
「わたしの判断は、やっぱり、間違っていたんですね」
「……どうして」
「わかっていたことです。でも、わたしは自分の感情に任せてしまったから、」
「言っただろ、おれはおまえを信頼してる。なあ、おまえが自分を信じられなくてどうするんだ? なんでおまえは、そうやって、自分の思いを殺してまで軍師でいようとするんだ?」
マシューの真摯な視線を受けて、息が詰まる。
伸ばされた手が手首を掴む。はまるで蛇に睨まれた蛙のように、身動きが取れなくなってしまう。「いつからそうなった? は、完璧なんかじゃなかったはずだ」マシューが苦虫を噛み潰したような顔をする。
リンと共に誓いを立てた頃と、今は違う。そう言いたいのに、唇はすこしも動いてくれない。
完璧にならなくちゃいけないんだよ、だってわたしはとても多くの命を背負っているんだから、いつまでも見習いだなんて言って失敗を許されるような場合じゃない。心の中でばかり言葉が言い募る。
「わたしは」
ゆっくりと口を開く。言いたいことはたくさんあるはずなのに、声が震えて、うまく言葉が紡げない。手首を捉える手に力がこもる。
「話せ」
どうせすべてお見通しだ、と言われているような気分になって、は足場が崩れていくような感覚に襲われる。
そんなことできない。知られてはいけない。閉じた蓋がこじ開けられようとしているのに、どうしたってそれを止める術を持たない。
「すきなんです」
見つめたはしばみ色の瞳は、やさしい色をしていた。
マシューの手がくしゃりと髪を撫で、そうしてようやっとただの少女であるへと戻ることができたような気がした。見上げたマシューの顔には、いつもとはすこし違うやわらかな笑みが浮かんでいる。
「安心しろよ、おれは死なないさ」
「そんなこと、」
わからない、と続けようとした唇を人差し指で制される。
「自分が信じられなくても、おれのことは信じてもらうぜ」
指先が離れたかと思えば、瞬く間に唇が掠めていく。悪戯っぽい瞳を見て、はさっと頬を紅潮させる。「かわいいやつ」とマシューがからかうように言うから、ますます頬が熱をもち、顔を伏せるほかなくなってしまう。
何もかもがマシューの思うままなのであれば、マシューの方がよほど軍師に向いている。