美しい刺繍や煌びやかな装飾が施されたドレスがシーツに埋もれるようにして広がり、指の先まで綺麗に整えられた四肢はだらしなく投げ出されている。足のつま先は、窮屈そうなヒール靴に包まれている。
 マシューはその靴を脱がせてやり、ゆるりと足の甲を撫でる。
 「みっともない格好するなよ」突然現れたマシューに驚くこともなく、が気だるげに視線を向けた。

「仮にも未来のオスティア侯爵夫人だろ」
「……」

 答えないまま、がゆっくりと身体を起こす。
 戦争中には見られなかった着飾った姿は、不思議としっくりと馴染んで見えた。マシューは恭しく振舞いながら、ネックレスや指輪などを外していく。
 されるがままのの瞳は力なく伏せ目がちで、疲弊からかまるで人形のようである。

 マシューはふと手を止めて、を見上げる。「マシュー」目が合った途端、が口を開いた。思わずマシューは内心どきりとする。
 ふう、と疲れたようにため息をついて、が髪の装飾を外した。結い上げられていた髪が肩へと落ちる。

「わたしは、了承していないわ」

 たしかに、とマシューは思うが同時に、断る理由もないとも思う。
 あの若様が。色恋にはまったく無関心だったくせに、ずいぶんと成長したものだ。ヘクトルの照れくさそうなばつの悪そうな顔を思い出す。
 対して、の困惑した様子からは、もしや色よい返事がもらえないのではないかという危惧がある。このような華やかな表舞台に顔を出すことすら拒んでいたのに、このように着飾られてうんざりしているだけだと思いたいところである。

 ヘクトルに手をとられたが絞り出すような声で告げる。「お願い、考えさせて。すぐには返事はできない」泣き出しそうな顔だった。


 裸足で床に立ち上がったが背を向ける。はずして、と腕を広げて見せるに、マシューは小さくため息をつく。

「いま、人を呼ぶよ」

 振り向いたが、マシューの腕を掴んだ。マシューは思わず振り払いそうになるが、寸でのところでとどまる。
 眉根が寄せられた顔から苛立ちが見てとれた。ため息と共に顔が伏せられる。しかし、腕を掴む手の力は緩むどころか強まった気がする。沈黙が降りる。
 マシューはじっとつむじを見つめ、の言葉を待った。

 このひとはこんなに小さかっただろうか。不意に思う。戦場で指揮を取っていた姿はひどく頼もしく、大きく見えたものだ。
 ばかね。呟きはひどく小さかった。

 が勢いよくぶつかってきたため、思わずしてマシューはベッドへと倒れることとなった。反射的に起き上がろうとするが、のしかかってきたによって阻まれる。
 ふわ、とから香がかおった。

さん?」
「自分のことになるとてんでだめ。うまくことを運べない」

 がくしゃりと顔を歪めた。マシューはのそんな表情を見たことがない。恐らく、軍にいた誰もが、親友のリンディスでさえ知らないだろう。
 彼女はいつだって自信に溢れた顔をしていた。

「ひとの気持ちを読んで、ときには利用して操ってきたのに」

 わたしはただの狡猾な卑怯者みたい。ぽつりと言って、が唇を噛みしめる。
 軍師とはそういうものだ。軍神と囃し立てられる一方で、手段を選ばない等と嘲られることだってある。けれど、確かなことはが多くの命を守ってきたということだ。

「……いつになく感傷的だな」

 耳にゆれるイヤリングが灯りにきらめく。マシューはそっとそれを外してやる。

「焦っているの」
「なにに?」
「わたしの、……身の上に」

 マシューは怪訝に眉をひそめる。それ以上なにも言わずに結ばれた唇は、かすかに震えていた。

、とりあえずどいてくれないか」

 時々、マシューは彼女をこう呼ぶ。別段理由があるわけではないが、幾分声音はあやすような柔らか味を帯びるように思う。
 が首を横に振る。一人押しのけるぐらいなんでもないが、マシューはそれをしなかった。

 広間から少し離れた客間には、かすかにワルツの音楽が届くか届かないかくらいの音量で流れている。耳を澄まさなければ聞こえないが、静まり返った今はマシューの耳にはしっかりと流れていたし、の呼吸や心臓の音さえ聞こえていた。鼓動はひどくはやい。
 やがてが動き、布が擦れる音が聞こえた。




「悪い」

 近づく気配にほぼ反射的に身体が動いた。マシューに瞬く間もなく組み敷かれたが目を丸くしている。ややあって、痛いと呟いた。見れば、きつく手首を掴んでいた。

「悪い……大丈夫か?」

 マシューは慌ててを開放したが、が動く気配はない。

「……わたしがオスティア侯爵夫人になったら、幸せになれると思う?」
「ああ、若様ならきっとな」

 の手が伸びて、マシューの腕に触れた。マシューは彼女を起こしてやる。が苦しそうに息を吐いた。「慣れない格好はするものじゃないわね」はやくはずしてと強請るものだから、マシューは仕方なく紐を解いた。

「このままじゃ、本当にオスティア公爵夫人ね」
「不満か?」
「……ずっと一緒にいられる、のに」

 うれしくない。
 マシューはの顔を見た。眉根を寄せたまま、じっと足元を見つめている。

「絶対に、だれも幸せになんかならない」

 が顔を上げる。戦中に見たような顔をしていて、マシューは気後れする。それに気づいたのかいないのか、彼女が口角を上げた。

「わたしが言うんだからまちがいないわ」

 ふふ、と笑うその顔はやや苦い。
 マシューはヘクトルのはかなく散った恋を憂うと同時に、の心内を思って苦しくなった。どうするべきかなんてわかりきっていて、ひどく簡単なことなのだ。けれど踏み出せないのは、大人である故に多くのことを考えてしまうからだ。


 じん、とあるはずのない背中の熱を感じた。
 ──「俺に遠慮なんかするんじゃねぇぞ」大きな手が容赦なく背を叩き、ばしんと大きな音が鳴った。非常に痛かったことを思い出す。

「湯浴みを。今日はほんとうに、疲れちゃった」

 マシューはの背を見つめる。コルセットに締め付けられていたせいで、かわいそうなほど美しい曲線を描いている。たしかに、彼女にこのような格好は似つかわしくないのかもしれないとマシューは思う。
 ヘクトルならば伴侶を必ず幸せにする。そういう男だ。
 けれど、の言うとおり、彼女とヘクトルの結婚はだれも幸せになんてなれないのかもしれなかった。

「マシュー?」

 しゃらりと左手首にブレスレットがゆれている。マシューはその手をとり、ゆっくりと持ち上げる。指先に口付けて、甲に唇を触れて、手首にキスをする。
 見上げたの顔が赤らんでいる。
 マシューはを見つめながら、器用にブレスレットを外した。「ずいぶん、着飾られたんだな」セーラにいいようにされていた様子を思い出す。小さくの喉が鳴った。

「ずるい、」
「……」
「なにもいわないの、ずるいわ」

 幸せになれよ、とか。若様なら安心だ、とか。おまけに似合ってるとか綺麗だとか、なんにも。
 マシューは苦笑する。

「……好きだと言って」

 が辛そうに顔をゆがめる。

「マシューの気持ちだけは、いつもわからない」
「そうか?」
「うまくはぐらかして、隠してしまうから」
「褒められてる、と思っとく」

 ずるい、ともう一度呟いて、が身体を預けてくる。ぽす、と身体はマシューの胸に納まった。
 いつの間にか流れていたワルツはメヌエットに変わっている。マシューは時間の流れをようやく感じた気がした。

 マシューはの髪をくしゃりと撫で、額に唇を寄せた。

「どうあがいたって、行き着く先はたぶん一緒だ」
「え?」
「所詮おれは、さんの手のひらの上って訳さ」

 が気まずそうな顔をして、唇を尖らせる。「わたしはもう軍師じゃないわ」マシューは小さく笑う。いい加減素直になりなさい、と囁いたのは懐かしい声だった気がする。

「おれだったら、さんを幸せにできるかい?」

 マシューはの答えを待たず、唇をすばやく重ねる。
 やっぱり、マシューはずるい。腕の中に赤い顔をうずめながらが言って、マシューは悪びれずに笑った。



 
   

(恋心はおもく落ちていくから)