ふわっと吹いた風は、開いてあった本の頁をペラペラとめくった。窓は締め切られているので、外からの風によるものではないのは確かだった。
 ぽかんとするに対し「ほら、やっぱりには魔道の才能があるんだ」と、マリクが瞳を輝かせて言った。だからと言って、マリクのようにカダインで学ぶ気はさらさらなく、その後もは魔道書を手にする機会などなかった──護身になるかすら怪しい小刀を握って構えるが、誰がどう見たって及び腰だ。震えているのは手だけではなく、全身だった。

 何としてでもエリスをお守りしなければ、と庇うように前に立ったはいいが、には戦うすべがなかった。
 しかし、本来エリスを守るべきアリティア騎士は、ここにはいない。
 の背後では、エリスと怪我を負ったシーダが身を寄せ合っている。「エリス様……ごめんなさい……」シーダの涙声が聞こえて、は手の震えを抑えるようにぎゅっときつく柄を握りしめた。

「子鹿のように震えて、可哀想に」

 対峙する兵士が、小馬鹿にした笑みを浮かべる。槍の穂先が素早くの喉元にひたと添えられる。 悲鳴すら上げられず、は身体を硬直させた。

「さて、どうする? 少しでも動けば、このまま喉を掻っ切られて、終わりだぜ」

 ひどく可笑しそうに、兵士の瞳が三日月のように細められた。は何も答えることができずに、ただその目を見つめる。
 慈悲など、欠片も見出せない。

「彼女を傷つけることは、許しません」

 エリスの声は、少しも震えておらず、凛と響いた。

「アリティア王女エリスの名において、全面降伏いたします」
「エリス様……!」

 いけません、とシーダが首を横に振る。しかし、エリスの意思を覆すことなど、もはや誰にもできなかった。
 エリスがの前に進み出て、槍を手で下ろさせる。

「私は何をされても構いません。ですからどうか、彼女たちには危害を加えないでいただきたいのです」

 あまりにも毅然とした背だった。その王族たる風格に、兵士が気圧されているのがわかった。
 どうするべきかわからずに、はただ握りしめた小刀はそのままに、エリスの背中を見つめる。喉が痞えたように、言葉が出てこなかった。

「王女を拘束しろ」

 兵士の後ろから、上官らしき男が告げた。

「拘束は必要ありません、あなた方に従います」

 エリスが跪き、両手を頭の後ろに組む。
 たちのために、御身を差し出そうと言うのだ。あってはならない。の身体がようやく動いてエリスに駆け寄ろうとするが、兵士に制される。

「エリス様っ」
「彼女たちを逃がしていただけますか」
「……いいだろう」
「エリス様!」

 はエリスに向かって叫ぶ。しかし、エリスが振り向くことはなく、いったいどんな表情をしているのか窺い知ることはできなかった。怖ろしいのはエリスも同様であるはずなのに、華奢な背は震えを見せない。

「シーダ、を連れてお逃げなさい」

 涙を拭ったシーダが立ち上がり、の腕を掴んだ。は引きずられるようにして、アリティア城を脱出した。




 怪我の手当てもそこそこにシーダが飛び続けてくれた甲斐あって、それほど長い時間を掛けずにマルスの元へ来ることができた。ホルム海岸に降り立ち、シーダが抱きつくようにマルスへ駆け寄る。

「マルス様!!」

 シーダの瞳から堪えていた涙が溢れ出す。彼女から少し遅れてペガサスから降りるに、近衛騎士になったばかりのクリスが手を差し出してくれる。支えがなければ、ふらついていたかもしれない。
 それほどに疲弊していたし、心もすり減っていた。

 マルスの不在を狙ったかのように、帝国軍はアリティアに攻め入った。
 そして、あっという間に城を陥落してしまった。

「エリス様はわたしを逃がすために、身代わりになって……」

 ひくっ、とシーダがしゃくりあげる。マルスがやさしくシーダの肩を抱いて、慰めと労わりの言葉を掛ける。
 そして、その青い瞳がに向いた。

「マルス様、申し訳ございません。エリス様のお傍にいながら、このようなことになってしまって、お詫びのしようもありません」
、君が気に病むことではない。危険な目に遭わせてしまってすまない」

 は力なく、かぶりを振った。その肩を、マルスの手がやさしく叩く。

「シーダと一緒に居てくれてありがとう。一人じゃないだけで、とても心強かっただろう」
「それは、わたしも同じです」
「うん、それでもお礼を言わせてほしい。ありがとう、
「勿体ないお言葉にございます」

 は深く腰を折る。涙が滲んで、すぐには顔を上げられなかった。マルスもそれをわかっていたからこそ、顔を上げるようには言わなかったのだろう。

「シーダ、シスターに怪我を見てもらおう。は大丈夫かい?」
「……はい」

 よかった、とほっと息を吐くマルスの声はとてもやさしかった。


 に戦うすべはなかったが、魔道の才があると知っていたマルスが計らってくれたおかげで、グルニアの幼い王子と王女と共に魔道を学ぶことができた。正直言ってあまり力になれている気はしなかったが、護身程度にならなりそうだ。もし、同じような場面に出くわしたら、今度こそエリスを守れるだろうか──
 いまだに慣れぬ魔道書を手にして、カダインの砂漠を踏みしめる。
 ここにマリクがいる、と思うと、足が砂に埋まってしまうような気がした。マリクにも、マルス同様、合わせる顔がなかった。

 けれど、が謝罪を口にするより先に「無事だったんだね」と、マリクが胸を撫で下ろした。の無事なんかよりも、エリスの無事を確かめたいはずなのに、そんな素振りを見せることもなく微笑むマリクに胸が痛んだ。
 涙が込み上げる。
 は、マリクにとってエリスがどんな存在であるか知っている。

「ごめんなさい」
?」
「わたし、何もできなくて、」

 あまりにみっともない泣き顔を見せられなくて、は俯く。はしたないとわかっているのに、鼻を啜って、手で涙を拭う。

「そんなに自分を責めないで。エリス様は、ぼくが必ずお救いする」

 決意に満ちたマリクのその言葉こそが、涙を溢れさせて止まないのだと、そんなことは自身しか知らない。
 うん、とは辛うじて答えたが、顔を上げることは叶わなかった。


 アリティア貴族のなかでも歳が近くて、とマリクは幼い頃をよく共に過ごした。つまり、マリクの幼馴染であるマルスは、の幼馴染でもある。の耳には入らなかったが、マルスの婚約者候補と実しやかに囁かれていたこともあった。
 にはもうずっと昔から、心に決めた人がいる。けれども、その彼にもまた、心には決まった人がいるのだと知ったのはいつのことだったか覚えていない。

 頁をめくる拍子に髪で指先を切ってしまい、は眉を顰めた。ぷくりと傷口から浮き出る鮮血を見つめる。

「ドジだね、

 魔道書に集中していたは近づく気配に気づかず、びくりと肩を震わせた。
 くすっと笑ったマリクが、その手を掴むと指先を口に含んだ。思わぬ行動に、は声も出せずに固まる。

 ぺろりと舌先で指を舐めながら、マリクが視線を上げる。挑発するような、揶揄いに満ちたその瞳を見て、はようやく我に返った。遅れて頬が熱くなる。

「ま、マリク! やめてっ」
「どうして? 唾をつけたら治るよ」
「じ、自分の唾をつけるわ」

 は慌ててマリクの手を振りほどいた。指先がひどく熱く感じて、気が動転する。それを悟られないように、は魔道書に視線を落とした。
 ふいに、昔の記憶が脳裏をよぎった。
 こんなふうに、顔を寄せ合って、魔道書を覗き込んで──

「……ごめんね、マリク」
「え?」
「わたしがもっと早く、魔道の勉強をしていたら、エリス様をお守りできたかもしれないのに」
「………」

 黙り込んだマリクの顔を見る勇気がなくて、は目を伏せたまま続ける。

「マリクと一緒に、カダインに行けばよかった。今さらだけどね」
、」
「……あの頃は、マリクを取られちゃったみたいで、魔道が嫌いだったの」

 ずっと一緒にアリティアにいると思っていたのに、マリクが突然カダインに行くことになってしまって、すごく寂しくて受け入れがたかったのだ。
 だから魔道の才能があると言われても、はちっとも嬉しくなかった。

……」

 名前を呼ばれて、はおもむろに顔を上げた。

「ぼくも、と離れたくなかったよ」

 マリクがじっと顔を覗き込み、の頬に手を這わせた。
 どきっと心臓が跳ねたのち、すぐにぎくりとする。は眉をひそめ、マリクの顔を見つめた。

「マリク、じゃない……」
「あ、ばれちゃった? 途中まではうまくいったのになぁ」

 マリクの姿がチェイニーへと変わり、少しも悪びれる様子もなく笑う。
 は一瞬でもどきりとした自分を恥じた。マリクの気持ちは痛いほど知っているのだから、今さら期待なんてしていないはずだ。
 悪趣味です、と苦言を呈しては足早に離れる。胸が痛いのだって今さらすぎる。





 マリクに声をかけられ、はつい顔を顰めた。どういう原理かは知らないが、チェイニーの変装は姿形だけならば本人と見分けがつかない。

「何ですか? もう揶揄うのはおやめになってください。マリクがそんなこと言うわけないってわかってるのに、いちいち動揺してしまう自分が嫌になります。本当は、今だって魔道は嫌い……」

 マリクが魔道を学ぶ理由を知っているから、どうしても好きになれなかった。
 捲し立ててから、マリクの戸惑う様子に気がつく。

「……チェイニーさん」
「ぼくはマリクだよ。彼に何かされた?」
「え……?」

 は訝しむが、その姿はいくら見つめてもマリクのままだ。
 マリク本人にとんでもないことを言ってしまったが、口から飛び出た言葉はもうどうしようもなかった。

、チェイニーに何をされたんだ?」

 マリクの手がの肩を掴み、やけに真剣な表情で顔を覗き込んでくる。あまりに真摯で、恐ろしささえ感じた。は思わず視線を彷徨わせる。

「あの、マリクの姿で、揶揄われただけ……」
「揶揄うって?」

 なおも追及され、は口を噤む。何をどう説明したらいいのかわからなかった。
 詳しく話すには、の想いを白状しなければならない。

 そうしたら、もう幼馴染ですらいられなくなる。

、泣かないで」

 マリクの手が頬を伝い落ちる涙を拭った。「君に泣かれると、ぼくは」と、マリクがきゅっと眉間に皺を刻む。

「心臓を掴まれているような心地がする。君を傷つけるすべてのものから、守ってあげたいと心から思うんだ」
「……大袈裟だわ」
「うん。自分でもそう思うけど、紛れもなくぼくの本心だよ」

 マリクがはにかむように苦笑を漏らす。
 それがただの幼馴染に対する思いやりなのか、にはよくわからない。そうっと両頬を包み込むように、マリクの手のひらが添えられる。

「ぼくにとって、エリス様は特別な人だ。だけど、その特別がどういう意味なのか、急にわからなくなった」

 は涙を拭うこともできず、ただ滲んだ視界でマリクを見つめる。

「アリティア城が落とされたと聞いて、エリス様より先に君の顔が思い浮かんだ」
「そんなわけ……」
「君が無事だとわかった時、エリス様のことはぼくの頭の中になかった」

 はマリクのことをずっと見てきた。見てきたからこそ、マリクのエリスへの深い愛情を知っているのだ。いつも、エリスを見るその眼差しはやさしかった。やわらかく笑っていた。
 すぐには信じられなくて、は探るような視線をマリクに向けてしまう。

も特別な人だよ。でも、エリス様とどう違うんだろう、って……クリスやリンダと話していたら、そう考えるようになった」

 ふわりと風が二人の間を通り抜けて行く。は唇を結んで、マリクの言葉の続きを待つ。

「エリス様のことは家族のように大事だ。たぶん、マルス様に対する気持ちと同じなんだと思う」

 涙でぼやけるマリクの顔は、エリスを見つめるときと同じように、とてもやさしいように見えた。
 ずっと、焦がれていた。

「でも、君は少し違う。うまく言えないけど……ぼくは君のことが、一人の女性として好きなんだと思う」

 次から次へと涙が溢れて、落ちる。「泣かないで」と、マリクが懇願するように言ったが、とてもじゃないが泣き止めそうになかった。

「わたしは、昔から、ずっとそうだったよ」
「……うん。気がつかなくて、ごめん」

 マリクの指が目尻に触れて、涙をそっと拭う。

「エリス様をお助けして、この戦いを終えたらぼくはカダインに戻る。必ず迎えに行くから、アリティアで待っていてくれるかい?」

 は目を閉じて、マリクの手のひらに頬をすり寄せる。
 報われないと知っていても、ずっと想い続けてきたのだ。待つことなんて少しも苦ではないし、むしろ確約されたその未来がたまらなく嬉しい。
 涙で声が詰まって言葉にならず、は頷きを返す。唇に柔らかい感触が触れた。

「……やっぱり、チェイニーさん?」

 ぱちりと瞳を瞬いて、思わず怪訝に見つめれば「信用ないなぁ」と、マリクが少しだけ眉尻を下げて笑った。もう一度、やさしく唇が触れ合う。
 そよ風がやさしく包むように吹いて、の髪を揺らした。

の魔法

(言葉ひとつで息の根を止められそうよ)