大樹の節を過ぎてなお、リンハルトにとっては昼寝日和が続いていた。ふあ、と大きな欠伸を一つこぼして、リンハルトは吸い寄せられるように長椅子に腰を下ろした。適度に日差しを遮るこの場所は、昼寝のために誂えたかのようだった。
リンハルトは人目を憚ることなく、もう一度欠伸を漏らす。目尻に涙が滲んだ。
昼寝の供である枕は手元になかったが、長椅子に背を預けると瞼が自然に重くなってくる。リンハルトは眠気に逆らわない。
瞼が落ちきる間際に、隣の長椅子に誰かが座るのが見えた気がした。
士官学校の生徒でも、修道士でもない──
ぱち、と次に目を開けたときには、陽が傾いていた。リンハルトは目を擦りながら、ぐっと腕を伸ばして身体の凝りをほぐす。
ふと隣の長椅子に視線を移して、「あれ?」と小さく呟く。眠る寸前に見た“誰か”が、まだそこに座っていた。制服でも修道服でもないが、町娘というようには見えない。
見覚えがあるような顔だったが、誰であるかなんてことには興味が湧かなかった。リンハルトは欠伸をしながら、俯きがちの横顔を不躾に見つめる。
伏せられた睫毛が目元に影を作っていた。
手元にある本に落ちた視線は、活字を追っている。時おりその視線が止まって、感心したように目を瞠ったり、不思議そうに瞬かれたりする様子をリンハルトは黙って見つめていた。熱心に読書に勤しんでいた瞳が、ふいにリンハルトのほうを向いた。
「あっ」
驚いたように小さな声を上げて、本を閉じて身体ごとこちらに向き直る。何気なく見やったその本は、リンハルトも読んだことのある紋章学に関するものだった。
「お目覚めになられたのですね。ガルグ=マクの敷地内とはいえ、あまり屋外で眠られるのは無防備が過ぎるのではないでしょうか」
「ええ? こんな気持ちのいい場所で、寝るなっていうほうが無理があると思うよ」
リンハルトは眉をひそめ、ため息を吐いた。
昼寝のみならず、朝寝も夕寝もするほど眠ることが好きなのだ。どこで寝ようと、迷惑をかけているわけじゃないのだから、放っておいて欲しい。
「……眠っているあなたに、何かする方がいるかもしれません」
「はあ。それは奇特な人だね」
「わたしは真面目に言っているのです。あなたは帝国の貴族ですし、才能もあって、見目麗しいのですから」
へえ、とリンハルトは気のない返事をした。大抵はこの辺りで呆れたり怒ったり、リンハルトに関わる気をなくすのだが、いまだ真剣な瞳が向けられている。
「リンさん」
「……僕はリンハルトだけど」
「す、すみません、以前リンくんと呼ばれていたのを耳にして……えっと、リンハルトさん」
リンくん、などと呼ぶのはドロテアに他ならない。他人にどう呼ばれようと、リンハルトはさして興味はないが、一応訂正しておく。リンさんと呼びかけられても、自分と認識できないだろう。
「わたしは、お昼寝をするなというわけではないのです。ただ、万が一あなたに何かあったらと、不安に思ってしまっただけで」
そう言って、申し訳なさそうに瞳を伏せる。睫毛が長いな、とリンハルトはその目元を見つめた。
そこで既視感を覚えたと同時に「あ」と、思わず声が漏れる。
「君、書庫の人だね」
「え? あ、そうです。申し遅れました。わたしは、トマシュさんの手伝いをしていると言います」
通りで見覚えがあるわけだ、とリンハルトは納得する。納得すると同時に満足してしまって「じゃあ、僕はこれで」と、すべての会話を断ち切って立ち上がる。
の瞳がきょとんとリンハルトを見上げた。ぱちぱちと瞬く動きに合わせて、長い睫毛が揺れる。
「またね、」
「あ、はい。また、書庫でお待ちしています」
が立ち上がって、深く頭を下げる。やけに洗礼された所作だったが、リンハルトはすぐにそう思ったことすらも忘れた。
いつの間にかなくしていた羽毛のつまった枕を、先生に届けてもらったおかげで安眠できそうである。口うるさい輩に見つからず、かつ寝心地の良い場所はどこだろうか、とリンハルトは考えながら、とりあえず書庫へ足を向ける。
ろくに前を見ていなかったせいで、曲がり角から出てきた人物と鉢合わせすることとなった。リンハルトに走った衝撃は大したものではなかった。
「きゃっ」
小さな悲鳴と衝撃の軽さから、相手が女性であるとわかった。跳ね飛ばされた身体が倒れぬように、リンハルトは咄嗟に手を伸ばす。
「あっ」
「あ、君は」
視線がぶつかって、ほとんど同時に声が上がった。そして、の抱えた本のうち、数冊が落ちたのも同時だった。
書庫番の手伝いをしているが、さっと顔色を変える。
「ああ、ごめん。大丈夫?」
それに気づいていながら、リンハルトはのんびりと言って、落ちた本を拾い上げた。
「はい。すみません、前方不注意でした」
「……お互い様だね」
まるで自分だけに非があるかのように、があまりに申し訳なさげに頭を下げるので、リンハルトは軽く肩を竦めた。手にした本の状態を見るが、特に傷はないようだった。
本を返す前に、の状態をよくよく見やる。細い腕が頼りなさげに本を抱えている。
「君には重すぎるんじゃない?」
「いえ、このくらいは平気です。それにすぐそこまでですから」
「すぐそこまでなら、手伝うよ」
「えっ」
の驚きように、リンハルトは眉をひそめた。
「そんなに驚かなくてもいいんじゃないかな。僕だって、たまには人助けだってするよ」
「すみません、そんなつもりでは……あの、でも、本当にすぐそこですよ? ハンネマン先生のお部屋ですから」
「いいから、ほら貸しなよ」
の手からさらに数冊の本を奪い取った。枕を小脇に抱えてなお、リンハルトのほうが余裕がある。
呆気にとられるを置いて、リンハルトはさっさと歩き出した。が慌てて後をついてくる。ちら、と背後に視線をやって、リンハルトはずいぶん低い位置にの頭があることに気づく。
リンハルトは歩幅の違いを考慮して、すこし歩く速度を緩めた。
「ありがとうございます、リンハルトさん」
たったそれだけのことなのに、律儀に礼を言って嬉しそうに笑みをこぼしたを見て、リンハルトは「君も大概変わってるよね」と小さく笑った。
「ああ、君か。いつもすまんね」
を快く迎え入れたハンネマンが「おや、リンハルト君も一緒かね?」と、リンハルトを見て首を傾げる。
「まあ、そこで会ったので」
あっけらかんと答えて、リンハルトは本を机に置いた。
ハンネマンの“いつも”という言葉が引っかかって、リンハルトは顎に手を当ててを振り返る。
「ねえ、もしかして君、紋章学に興味があるの?」
「え……」
「紋章学を通じて仲良くなったのだとばかり。何を隠そう、吾輩の話に付き合ってくれるのは君くらいなものなのだよ」
戸惑うを知ってか知らずか、ハンネマンが呵呵と笑う。
「ところでリンハルト君、その枕は一体……」
「寝るための枕です。ああ……昼寝の場所を探していたことを思い出したら、眠くなってきた」
ふわあ、と大きな欠伸が出て、涙が滲んだ。
とハンネマンが顔を見合わせる。「眠いんですよ。仕方ないでしょう」と、リンハルトは唇を尖らせた。
「ということで、僕はこれで」
「あっ……先生、今日はわたしも失礼します。また今度、お話を聞かせてください」
リンハルトを追うようにして退出したが「あの」と、躊躇いがちに口を開いた。
「お昼寝にぴったりな場所、お教えしましょうか?」
願ってもない申し出である。リンハルトは一も二もなく頷いた。
白薔薇が咲き誇るその場所は、すこし入り組んだところに位置しており、人気がなかった。適度に木が立ち並び、日差しがやわらかく降り注いでいる。
「こんなところがあったんだ」
「はい、わたしのとっておきの場所です」
が人差し指をそっと口元に立てて、微笑む。ほっそりとした指に綺麗に整えられた爪、戦いとは無縁の手には剣でなく羽筆によるたこができている。
「たまにツィリルさんがお手入れに来るくらいで、いつも閑散としているんです」
視線を落としたが、白い花弁をやさしく指先でなぞる。リンハルトは、長い睫毛が繊細に揺れる様をつぶさに見つめた。
リンハルトを捉えた瞳が、やさしく細まる。
「お昼寝の邪魔はしませんから、隣で本を読んでいてもよろしいですか?」
「座って」
が長椅子に腰を下ろす。背筋は伸びていて、足は揃えられている。いちいち綺麗すぎる所作だ。もしかしたら、貴族なのかもしれない。紋章学に興味があるということは、紋章を持っている可能性もある。
リンハルトはその隣に座ると、の肩へと凭れた。膝枕をするにはこの長椅子は狭すぎる。手にしていた枕をぎゅうと腕に抱きしめて、リンハルトは目を閉じる。
「リンハルトさん、」
「何? 昼寝の邪魔はしないんだよね?」
「……」
触れ合った肩からの緊張が伝わってくるが、案外寝心地は悪くなさそうだ。
ふと浮かんだ疑問が、眠気によってどこかへ消えてしまう。けれども、それで構わないだろう。次に目を開けたときにも、彼女は隣にいるのだから──ふ、とリンハルトは口元を緩ませる。心地よい微睡がすぐそこまできていた。