思えば、いつも手の届く位置にオスティア侯弟がいた。
好都合だと思っていたが、その采配は軍師の意図的なものであったのかもしれない、とレイヴァンはようやく思い至った。すべて見透かされていたのかもしれない。どうせなにもできないと馬鹿にされているような気がして、カっと頭に血がのぼるのがわかった。しかし、反して思考は冴えていくようだった。
ヘクトルの傍に控える重鎮、影のように寄り添う密偵。なにより、ヘクトル自身の腕が立つ。近づくのは容易くとも、命を奪うのは容易ではない。仲間であるという立場を利用したならば、あるいは油断させることができるだろうか。
たとえ、刺し違えてでも──
レイヴァンはぐっと剣の柄を握りしめた。ルセアとプリシラの顔が脳裏を過る。
「……!」
ふいに、レイヴァンの緊張した腕に、そっと指が添えられる。振り向けばのひどく静かな瞳と視線が交わった。がなにかを言うことはなかった。首を横に振るでも縦に振るでもなく、ただじっとレイヴァンを見つめる。
この軍師は、ほんとうにすべてをわかっているのだ。
レイヴァンはおもむろに脱力する。
「……放せ」
冷たく言い放つくせに、レイヴァンはその手を振り払えなかった。
「ルセアに頼まれたのか。それとも、プリシラに泣きつかれたか」
どちらにせよ、もはやレイヴァンにはヘクトルの命を奪う気は消え失せた。己の愚かさを認めるほかないのだ。
これまでのヘクトルの様子を見ていれば、その人となりは十分すぎるほどに知ることができた。屈託のない笑みを向けられるたびに、自分の中の復讐心が揺らぐのをレイヴァンは感じていた。
がゆるりとかぶりを振った。ぎゅ、と腕を掴まれ、レイヴァンは困惑する。
俯きがちのその顔は、泣きそうに歪んでいた。「だれにも何も言われていません。だって、あなたは殺気を隠そうともしなかったから」が囁くように言った。小さな声は風にかき消されてしまいそうだった。
「わたしは、あなたを信じていたわけじゃない」
「……」
「万が一なにかあっても、大事ないように備えていました」
最低です、とが呟いて自嘲の笑みを浮かべた。
「あなたも、仲間のひとりであることには、変わりがないのに」
の手が離れていく。その指先がひどく冷えていたことに、遅まきながらレイヴァンは気がついた。
自分とそう歳は変わらないにもかかわらず、彼女は軍師として皆を導いている。この軍は、リキア同盟のみならず、敵対していた組織に属していた者もいるなどひどく複雑だ。危険因子を多く孕んでいるが、それも上手くがコントロールしている。決して、エリウッドやヘクトルの人望やカリスマ性だけで成り立っているわけではない。
「それがお前の仕事だろう」
レイヴァンの言葉に、が曖昧な笑みを返した。
オスティア侯ウーゼル自らが赴くとは、以前のレイヴァンであればこれ以上ない好機と思っていただろう。敵を退けた砦には静寂が訪れている。オスティア侯がいる、という安心感からか、軍内の雰囲気もどこか和やかだ。
だというのに、我らが軍師はいつもよりも険しい表情で砦内を歩いている。見回りなど兵士に任せておけばいいものを、自らの目で確認したいというのだから、難儀な性格である。レイヴァンに気づいて足を止めたが、ランタンの火をこちらへ向けた。
「……ずいぶん、難しい顔をしているな」
人のことを言えた義理ではない、ということをレイヴァンはわかっている。案の定、目を丸くしたが、すぐにふっと笑みをこぼした。そして、やけにわざとらしい仕草で人差し指で眉間に触れる。
「オスティア侯がいるのに、なおも心配事でもあるのか」
がランタンを下げ、ゆっくりとした足取りで近づいてくる。灯りがぼんやりとレイヴァンの顔を照らす。
「それとも……俺のように、オスティアに恨みのある奴でもいるのか?」
ふっ、との動揺が灯りの揺らめきに表れる。
薄明りのもと、が戸惑った表情を浮かべているのがわかる。意地の悪い言い方をしてしまったが、レイヴァンにはを責める気持ちは毛頭ない。ただ──信じていたわけではないと率直に告げられたことは、存外心を傷つけられたのかもしれなかった。
「冗談だ」
レイヴァンの言葉にが表情を変えることはなかった。「笑えないですよ」と、吐息のような声が答えて、が細いため息を吐いた。
「レイヴァン、あなたに言っていないことがあります」
そう言って、レイヴァンを見上げたの瞳には、どこか迷いがあるようだった。躊躇いがちに開かれた唇からは、すぐに言葉は発せられなかった。が一度視線を足元へと落とす。そして、すう、と緊張した様子で小さく息を吸う。
「実は、」
おもむろにが顔を上げた。揺らぐ瞳には、いつもと変わらず、ウィル曰く怖い顔をした自分の姿が映っている。
「言わなくていい」
「え?」
「言わなくていいと言ったんだ。聞こえなかったか?」
「……」
が再び目を伏せる。ほっとしたようにも、納得がいかないようにも見えた。
レイヴァンは小さくため息を吐くと、の手からランタンを取った。
「もう休め。見回りなら、俺がやっておく」
「レイヴァン」
静かな声が、冷えた廊下にやけに響いた気がした。
「ありがとうございます」
眉尻を下げて、が微笑む。泣き笑いのように見えたのは、レイヴァンの気のせいかもしれない。「部屋まで送る」と、レイヴァンは素っ気なく告げて歩き出す。がゆったりとした足取りで付いてくる。
もっと、気の利いた言葉を言えればよかった。もっと、やさしい顔をしてやれたらよかった。
──大体、礼を言うのはこちらのほうだ。恨みつらみの気持ちにケリをつけることができたのは、紛れもなくのおかげである。
レイヴァンはちらりとを盗み見る。俯きがちに歩くの表情は浮かばない。
「」
はい、とすぐに返事がある。レイヴァンは立ち止まり、自分よりもずいぶんと小さい姿を見下ろす。
「レイヴァン?」
「……あまり、気負い過ぎるな」
がきょとんと瞳を瞬いた。そうして、はい、と先ほどと同じ言葉が返ってくるが、その響きはよほど柔らかい。灯りに浮かび上がるの顔には、穏やかな笑みが浮かんでいる。
「そうやって、もっと笑っていろ」
ぽん、との頭に手を乗せる。気難しい顔は、自分のほうが似合っている。
ふいに、の手がレイヴァンの頬に触れた。思わず身体が硬直したのは、驚きと緊張のせいだ。細い指先はひんやりとしている。
「あなたも笑ってください」
それは、懇願のようにも、祈りのようにも見えた。
柔らかく細められたの目尻に涙が滲んでいて、レイヴァンは戸惑う。言葉を探しているうちに、溢れた涙がの頬を伝った。レイヴァンは、反射的にその涙を指で掬い上げた。
「な、泣くな」
もっと他に相応しい言葉はなかったのか、とレイヴァンは己の無口な性格に辟易した。
「我ながら、自分の狡猾さに嫌気がさします。あなたにやさしくされると、どうしたらいいのかわからなくなる。仕事だから、なんて言い訳にもならない。人の心を弄ぶような真似ばかり」
がいつかと同じように、自嘲の笑みを浮かべて「最低です」と、吐き捨てる。
優秀な軍師であることには違いなかった。皆に厚い信頼を寄せられている。誰も彼女を卑怯だと罵ることなどしない──けれど、人知れずには葛藤があったのだ、とレイヴァンはいま初めて知った。
レイヴァンは、己の手に落ちる涙を見つめる。
「……お前に、難しい顔をさせているのは、俺か」
がきゅっと唇を結ぶ。の潤んだ瞳の中に、より怖ろしい顔をした自分がいる。
「レイヴァン。いいえ、レイモンド」
「……!」
「わたし、……わたし、は」
繊細に思えるような小さな涙の粒を、レイヴァンは武骨な指先で、それでもひどく優しい仕草をもって目尻の涙を拭った。「言わなくていい」なるだけ優しく言ったつもりだが、柔和に微笑むことはできなかった。
「やさしすぎますよ…」
が困ったように呟いて、涙交じりに苦笑を漏らした。いくら頼まれようとも、レイヴァンにはにすげなく接することはできなさそうだ。
頼りなげに揺らめくランタンの灯りが、重なった二人の影を映し出していた。