その動きがあまりに素早かったので、ラガルトは止めるだとか咎めるだとか、なにもできないままただ呆然と見るほかなかった。掴みかかられたマシューが勢いを殺せないまま、仰向けに倒れる。馬乗りになったの振りかぶられた手は、マシューに向かうことなく、地面を叩きつけた。
 俯いたその顔に長い髪がかかっていて、ラガルトにはの表情が見えなかった。
 ただ、マシューの驚いた顔にぽたりと落ちた雫を見て、ラガルトはが泣いていることに気がついた。

「ったく……、なにやってんだい」

 ラガルトはの肩へと手を伸ばすが、触れる前にばしりと弾かれる。涙を浮かべた瞳がラガルトを睨みつける。ちっとも怖くない。ラガルトは軽く肩をすくめた。
 が再びうつむいて、その拍子にまた涙が落ちる。マシューが一瞬目を瞑った。

「あなただけが、つらいと思わないで」
「な……」
「自分のしていることが、どれだけ理不尽なことか、わかるでしょう」

 が吐き捨てるように言って、マシューの上から退いた。そうして、ラガルトを見ることなくそのままどこかへと行ってしまう。ラガルトは、声をかけることも腕を掴むこともできずに、その背を見送った。

 マシューが気まずそうな顔をしながら、身体を起こした。
 ラガルトは、ふっと口角を上げて、マシューの肩を軽く叩いた。「悪いねぇ。ちょいとガキっぽいんだよ、あいつは」マシューが苦虫を噛み潰したような顔をして、ラガルトの手を払う。不機嫌そうなままマシューが背を向けるが、不自然に足を止めるので、ラガルトはじっと言葉を待った。

「……おまえのために、泣いたんだろ」

 ラガルトはうんともすんとも言えず、ただちいさくため息をついた。マシューが一瞥をくれて、足早に去っていく。「参ったね」と、ラガルトはだれに言うでもなく呟いて、目元を手で覆った。
 ──泣いてくれなんてだれが頼んだというのだ。

 だいたい、どうしてまでもが自分と同じ道を選ぶのだろう。【黒い牙】を抜けるとき、なにがなんでもついてくるを振り切ればよかった。
 そうすれば、こんな、
 思わず、ラガルトの口から乾いた笑いが漏れる。こんな、胸を突くような、苦しい思いをしなくても済んだのかもしれない。くだらないとわかっていても、感情を容易く切り捨てることは困難だった。「ガキっぽいのは、どっちなんだか……」にまっすぐ見つめられると、すぐに視線を逸らしてしまう。に本音をぶつけられても、すぐにはぐらかして逃げてしまう。
 ラガルトは長い髪をかき上げた。






 この軍でのラガルトの立場は、あまりいいと言えたものではない。マシューのように明らかな敵意を向けてくる者もいる。もそう変わらないはずだが、どうしてかラガルトとは不思議なほど顔を合わせる機会がない。
 ぐす、と小さく鼻をすする音が聞こえて、ラガルトは足を止める。
 ついくせで気配を消して、様子をうかがう。

「だって、あなたはなにもわかっていない」

 の声だ。涙で震えたか細い声音だった。

「ラガルトは、あなたが思うような、非情なひとじゃないもの」

 自分の名が聞こえてどきりとする。
 と対峙するマシューが見えて、ラガルトはおやと思う。マシューの表情は困惑していた。自分に向ける冷たい顔ではないことが、面白くない。だって、立派な元・【黒い牙】だ。
 なおもが言い募ろうとしたところで、ラガルトはわざとらしく足音を立てて近づく。

「……それはどうかねぇ」
「……!」
の思い違いかもしれないぜ?」

 ふたりが驚くほど同時に振り向くものだから、ラガルトはくつくつと声を殺して笑った。マシューがさっと表情を変えてどこかへ行ってしまう。が、居たたまれないと言ったように、視線をつま先へと落とした。

「まさかとは思うが、わざわざそうやって言って回ってるわけじゃないな?」
「え……」
「ラガルトは悪いひとじゃないんですー、ってな」
「そんなこと、してない」

 がふてくされたような顔をして言う。あっそ、とラガルトはそっけなくつぶやいた。

「……マシューさんには、この間、悪いことしちゃったから謝ってただけ」

 ああ、勇ましく掴みかかってたもんな。ラガルトは心の中でつぶやく。
 の視線は伏せられたまま、ラガルトを見ることはない。「オレには悪いことをしたとは思わないのかい?」ラガルトは意地悪く唇の端を上げて、の顔を覗き込んだ。がすこしだけ赤くなった瞳を瞬いて、ラガルトのことを見つめる。

「勝手なことをされると、迷惑なんだがねえ」

 が結んだ唇に、ラガルトは親指を押し当てる。「マシューとの確執はオレの問題だ。口出ししないでくれるかい」がわずかに口を開いた。ぐ、と親指に力を入れれば、躊躇いがちにその唇は閉じられる。あ、と思ったときには、の瞳から涙がこぼれ落ちていた。

「ごめんなさい」

 その大粒の透明な雫が、なぜだかおいしそうに見えて、ラガルトは舌先で掬い上げた。当然ながら、しょっぱいだけである。
 の手が、ラガルトの外套をくしゃりと掴んだ。

「……ラガルト……」

 ただ、名前を呼ばれるだけなのに、どうしてこんなにも胸が苦しくなるのだろう。
 ラガルトは、抱きしめたくなる衝動を理性で抑え込む。
 このやさしい娘は、自分なんかはふさわしくない。いかに同じ元・【黒い牙】といえど、彼女の心は純粋でうつくしく、ラガルトは気後れするのだ。それは、ただのラガルトの思い違いかもしれないが、があまりにまっすぐであることは確かなのだ。

 すきだ、という思いが、ストレートに伝わってくる。
 ラガルトはそれを受け入れることも、突き放すこともできないまま、ここまで来てしまった。すん、と鼻をすすったが、ラガルトの胸へと顔を押し当てた。やわらかい身体の感触と、あまいような香りを感じる。



 ラガルトは掴んだ肩の細さに内心で驚く。すこしでも力を籠めれば、壊れてしまいそうだった。

「くだらない感情に流されるのはやめな。不幸になるだけだ」

 じっと見つめる瞳から、ラガルトは視線を逸らした。「くだらないのは、どっち」が吐き捨てるように言って、ラガルトの手を叩き落とした。

「ラガルトのいくじなし。わたしは、とっくに覚悟くらいできてる」

 憤慨するの背に、ラガルトは手を伸ばすことを躊躇う。
 そんなふうに簡単に言ってくれるな。ラガルトの思い描くとの幸せな未来は、【黒い牙】を抜けた時点で、黒く塗りつぶされてしまったのだ。



 ふう、と息をつきながらラガルトは長い髪をかき上げた。いつものことながら、しつこい連中だが、それほど骨はない。倒れた追っ手の数をざっと数えて、両手の指では足りなくなったところで、それもやめる。
 は、と視線を巡らせると、いまだに交戦している様子であった。
 手助けに向かおうとしたラガルトに向かって「手を出さないで!」と、が叫んだ。

 キン、と金属がぶつかり合う音がする。の実力をもってすれば、こんな連中にてこずることはないのだが、どうやら相手は知り合いらしい。すこしだけ息を弾ませたの攻撃は、いつにも増して鈍い。

、なんで裏切ったんだ……!」

 が相手の剣を弾き飛ばした。そして、ぴたりと喉元へと刃を突き付ける。

「あなたにもわかっているはず。あそこはもう、かつての【黒い牙】ではないもの。わたしのすきだった場所とはちがう」
「……!」

 ひゅ、と素早く切っ先が動いた。
 が剣をしまって、地面を踏み鳴らしてラガルトのほうへと近づいてくる。「嫌気がさすだろう?」ラガルトはふ、と嘲笑を含ませながら言った。中にはこうして知ってるやつに殺すか殺されるかの日々が、延々と続くのだ。
 が首をかしげる。

「どうして? 自分で選んだ道でしょう」
「……」

 あまりにあっけらかんとした答えに、ラガルトは言葉を失う。の手が、ラガルトの頬についた返り血を拭った。月明かりにうすぼんやりと照らされたが微笑んだ。

「わたしはなにも怖くない。だって、ラガルトがいてくれて、こうして触れることもできる」

 ラガルトは久しぶりに見るの笑みに、思わず見惚れてしまう。思えば、ここ最近は泣いたり怒ったり、そんな顔ばかりを見ていた気がする。

「ラガルトが、どんな気持ちでアイシャを手にかけたのか、すこしは理解できたかな」

 ラガルトはかつての相棒の最期を、一瞬だけ頭に過ぎらせた。

「ラガルトの苦しみを、すこしは知ることができたかな」

 が腕を広げる。そして、その腕で、ラガルトを包み込んだ。
 避けようと思えばいくらでも避けられたが、ラガルトは動かなかった。のやわらかな肢体からは、血と汗のにおいに混じって、あまい香りがした。


「くだらないなんて言うほうがくだらない。ごちゃごちゃ理由つけるなんて、馬鹿らしいでしょう。わたしは、悲しくても苦しくても、ラガルトがいればいい。生きていける」


 がまっすぐ、ラガルトを見上げた。「ラガルトはちがうの?」と、問いかける声に、ラガルトは答えられずにただその瞳を見つめ返した。
 がふてくされたように、頬を膨らませる。

「勝手に、不幸になるなんて決めつけないで。だって、いまわたしは、ラガルトの傍にいられて幸せを感じてる」

 いまの今まで、のらりくらりと交わしてきたはずなのに、ラガルトはどうやらさすがに逃げきれないことを悟った。はあ、と大きなため息をつくと、ラガルトはの肩へと顔を埋めた。ぎゅう、ときつく抱きしめ返す。

「なんつー殺し文句を言ってくれるんだか……」

 降参降参、とあえて茶化しながら言うが、ラガルトは頬が熱を帯びていくのを感じていた。いまが夜でなければ、情けなくも赤くなった顔をはっきりと見られていたことだろう。

、あんたってほんと、怖いくらいまっすぐだな」
「……?」
「いや、いい。あんたはそのままでいてくれよ」

 がとっくに覚悟を決めているというのならば。ラガルトは小さく笑う。

「わかった。ホントのこと教えてやるよ。オレも、あんたとおんなじ気持ちさ──つまり、」

 ぱき、と枝を踏む音が聞こえて、振り返る。「あ」と、あがった声はのものと、もうひとりのものだ。が懐から取り出した小さな小瓶を、すばらしいコントロールをもって投げつけた。

「いてっ。き、傷薬……」
「邪魔しないで、マシューさん!」
「いや、姿が見えないと思って、」
「いいから早くどこかに行って!」

 が再び懐を漁るので、ラガルトは笑いを押し殺しながらその手を止める。マシューがそそくさと逃げ帰っていく。まったく、タイミングの悪い不憫な男である。
 むっと口を尖らせたがラガルトを見る。「……つまり?」と、すこしだけそわそわとしながら、その先を促す顔がかわいくてたまらない。
 いたずらに、焦らしてからかってもよかったのだが、ラガルトは笑いながらの耳へと唇を寄せた。

「すきだ、。あんたと一緒にいられるなら、オレもこれ以上ないくらい、幸せだ」

 邪魔が入ったおかげで、ラガルトはずいぶんと余裕を取り戻していた。いつものように飄々として、なんでもないふうに取り繕いながら、に囁く。触れた耳があつい。なにげなく触れた頬はもっとあつかった。
 ラガルトはの顔を持ち上げて、視線を合わせる。

「あれだけの殺し文句を言うやつが、照れるかね」

 つられるように、ラガルトも頬に熱が再び集まるのを感じながら、顔を寄せる。口づけるその場に転がるのが、事切れたかつての仲間だなんて、元・【黒い牙】にはおあつらえ向きだ。追っ手がどこまでも来ようとも、逃げ切って見せる。ふたりならなんとかなるはずだ。
 その先に、きっとこれ以上ないくらい幸せな生活が待っているのだろう。

「ラガルト、だいすき……」

 口づけの合間に落ちるの言葉に、ラガルトの胸にあまい痺れが広がっていく。ほんとうに、くだらないのは手をこまねくばかりの自分だった、とラガルトは思った。

爪先まで

(いつだって、全身で愛してると伝えてる)