砂漠、という過酷な環境で育ったわたしは、なかなかに我慢強い性格に育ったと思う。浴びるほどの水が欲しいと思ったのは、ほんの幼い頃の一時だけだ。
わたしはジャハナが嫌いじゃない。むしろ好きだ、誇りを持っている。
──死ぬなら、この砂の元に還りたい。
振り上げられた剣先が肩を抉る。
焼け付くような痛みに、歯を食いしばって耐える。こんな下賎な輩に跪くのだけはごめんだった。ぼたぼたと流れる血を手で押さえる。
足元にできた血溜まりに気を失いそうになる、けれどそんな真似は出来ない。身体の震えを必死に押さえ込み、わたしは目前の下卑た男を睨みつけた。わたしに戦う力があったなら、守れるのに。
どうして、奪うの。どうして、壊すの。どうして、ねえ、わたしたちの平穏で幸せな日々を、返して!
「おいおい、俺はいたぶるのは趣味じゃないんだぜ?」
「何を今更……! その剣で、数多の命を奪ったのでしょう!」
むせ返るような血の匂いが、城内に漂う。
同じ侍女仲間の顔が浮かんで消える。ああ、女王は無事なのかしら。もし、死なせてしまったら、彼に申し訳が立たない。
ひひっ、と男が下品に笑い、誰かに手を振るのと同じように剣を振るった。ひゅんと風を切った銀の煌きは、わたしのスカートを切り裂いて太ももをあらわにさせた。
男が舌なめずりをする。気持ちが悪い。
数歩あとずさると、背が壁についた。逃げ場がなくなってしまい、どうしようもない焦りを感じる。
じわじわと男が距離を詰める。わき上がる恐怖心に顔の筋肉が引きつって、足は支えを失ったかのように崩れ落ちてしまいそう。ああなんて無力なんだろう。
「俺だって可愛い顔に傷つけたくないんだ、大人しくしな」
ぞっと背筋が凍る。こんな男に嬲られるくらいなら、死んだ方がましだ。
別に、白馬に乗った王子様じゃなくたっていいのよ。
のらりくらりと十年前に姿を消してしまった、どこにいるかもわからない彼の姿を瞼の裏に思い描く。どうしようもない放蕩王子、だけどそれは紛れもなく、わたしにとっては王子様なのだ。
──ヨシュア。
「……っ、やっぱり死ねない!」
きつく瞑った目を開けて、男を睨みつける。意のままになると思っていた男は怯んで、その隙にわたしは駆け出した。ちっ、と盛大な舌打ちが後ろから聞こえて、一足遅れて追いかけてくる。
「まちやがれ、このアマ!」
廊下に響く罵声に、誰が待つものですかと胸中で返した。
そうよ、死ねない。彼に会う前に死ねるものですか。
だいたいわたし、助けを待つか弱いお姫様じゃないもの。
放蕩王子が帰ってきたら、引っぱたいてやらなきゃいけない。それから、ずっとずっと言いたかったことだって、ある。
追いかけてくる足音がだんだん近づいてくるのがわかって、焦燥に駆られる。もっと速く、そう思うのに身体は重い。
「きゃあ!」
足がもつれる。転んでしまう、ときつく目を瞑ったけれど、衝撃は来なかった。
わたしを受け止めてくれた腕があった。それがもしかすると敵かもしれないと思うと、目を開けるのが怖かった。
でも、
「!?」
え、と顔を上げる。一気に身体の力が抜けて、涙腺が緩んだ。
「ヨシュ、ア……」
十年前の最後に見た日より大人びた彼が、わたしを支えてくれていた。イシュメア様と同じ色の鮮やかな紅い髪は、わたしの髪より長く伸びている。
引っぱたいてやろうと思っていたのに、わたしの腕は持ち上がらなかった。震える手はすがるようにヨシュアにしがみついて離れない。
「、大丈夫だ」
少し低くなった声が耳たぶに触れる。
わたしを他の誰かに任せると、ヨシュアはわたしを追っていた男を一閃した。動きに合わせて長い髪が揺れる。
ぼやけた視界の中で、ただひたすらに彼の姿を見つめる。
背が伸びた。それから、ずいぶん俗っぽくなったように思う。その方がヨシュアらしいといえばらしいのだけれど、王宮での彼しか知らないわたしには、少し新鮮だ。
目深にかぶる帽子は、いつか彼に作ったものだ。ややくたびれた感じは、使い込んでくれたからだろうか。
「ナターシャ! こいつの怪我を頼む」
「はい」
ナターシャさんという方が、心配そうにわたしの傷を見た。まるで女神のように綺麗な彼女が杖を掲げると、あっという間に傷が癒えてしまった。焼け付くような痛みが消える。
大丈夫ですかと問う声に、わたしは頷いた。
シスターってすごい。わたしにも、剣じゃなくてもなにか力になれることがあればよかったのに。
「……母上は?」
「わからない。でも、早くしないと」
「ああ、わかってる」
はここにいろ、とヨシュアが真摯な視線でわたしを射抜く。いやだなんて、そんなわがまま言えるはずがなかった。ついていっても、どうせわたしは足手まといなのだ。
震える両手を握りしめて、頷く。
でも、そんなわたしの意志と反して涙が溢れて、ヨシュアが困ったような顔をした。
「必ず、戻ってくるから」
「……そんなこと言って、十年だったじゃない」
十年間、わたしは。
「手紙も、なにも、」
なにも、あなたはくれなかったから。残してくれたものも、なにもなかったから、わたしは思い出だけに縋り付いて生きてきた。
そうやって、あなたを待ってきた。
言葉を詰まらせたわたしの頭に、何かが乗せられる。帽子だった。
顔を上げる。苦笑したヨシュアが、わたしを見つめていた。
「無事で待ってろ、絶対戻ってくるから」
「……うん」
部屋に押し込まれる。適当に近くにあった部屋は、十年前ヨシュアが使っていた部屋だった。毎日、いつ帰って来るともわからない彼のために、わたしが掃除をしていた部屋だ。
わたしはヨシュアが託してくれた帽子を握りしめて、床にへたり込んだ。
「ヨシュア、……」
涙がこぼれたのは、安堵のためか。
突然訪れた静寂に、急に不安になる。どうしたのかと、外についてくれている兵士に尋ねようと腰を上げるが、すぐに騒々しくなった様子に竦んでしまう。
不意に荒々しくドアが開かれた。わたしは驚いて、ぎゅっと帽子を握りしめた。
「!」
「ヨシュア? どうし」
「逃げるぞ!」
素早く手をとられ、走り出す。
廊下に出ると、焦げた匂いが鼻を衝いた。煙が辺りに漂っている。
城が燃えている。
「な、に」
「ばか、立ち止まるな!」
ヨシュアに叱咤されたけれど、足が床にくっついたように動かない。思考も固まってしまって動かない。
そんなわたしに苛立ったように舌打ちすると、ヨシュアはわたしの身体を抱え上げた。顔を胸に押さえつけられる。
「、煙を吸うなよ」
ヨシュアの冷静な声がやけに耳に響く。
わたしはわけもわからぬまま、ヨシュアの言葉を理解しているのかさえ怪しいまま、ただ小さく頷いてヨシュアにしがみつく。
これが現実なのか、それとも悪い夢なのか、もうわたしにはわからなかった。
「大丈夫か?」
気がつくと、視界に映る景色は城内ではなく、炎が上がる城の外観だった。
ああ、これは本当に。ようやく思考が冴えてゆく。これは紛れもない現実なのだ。ヨシュアが帰ってきた、城が陥落した、イシュメア様の姿はなく、さらに迫る敵兵。
眩暈がしそうだ。
「……ヨシュアこそ、大丈夫なの?」
「ん?」
「だって、大変なのはヨシュアでしょう? わたしのことなんて、気遣わないで……」
「」
ヨシュアは、この十年でずいぶんと大人になってしまったようだ。わたしの知らないヨシュアの表情が、すぐそこにあった。
「行きなよ。ほら、みんな集まってる」
わたしは、きっとヨシュアがいなくったって生きていける。だって、十年間を生きてこれたんだから、この先だってずっと生きていけるはずだ。わたしにとってヨシュアは大きな存在だけど、でも大丈夫。
この城がなくなっても、わたしは生きていけるわ。
ジャハナを愛しているもの。
「なあ、賭けをしないか」
こんなときになにを言っているのだろう。
わたしは責めるようにヨシュアを見たけれど、彼は涼しい顔でピンとコインを巧みに弾く。
「裏と表、どっちだと思う?」
「どうして、」
「いいから早く答えな。俺が勝ったら、一緒に来てもらうぜ」
「え……」
早く、と再び急かされて、わたしは表と答えた。まったくわけがわからない。
ヨシュアがまるで悪戯を思いついたような、そんな笑みを浮かべた。コインを押さえていた手のひらをどける。
「残念、裏だ。一緒に来てもらおうか」
「で、でも、ヨシュア」
「俺が守ってやる。もう、待たせたりしない」
「……」
「後悔したくないんだ、俺はガキくさい反抗心で城を出て、母上を守れなかった」
真摯な視線がわたしを見つめる。
「──…… まで、失いたくない」
存在を確かめるかのように、強く抱きしめられる。背丈は変わっても、抱きしめる腕のぬくもりはちっとも変わっていなかった。そして、わたしを包み込むにおいも。
おかげで引っぱたいてやる、なんて思い、どこかに行っちゃったわ。
「好きよ、愛してる、ヨシュア。ずっと言いたかったのに、あなたはいないんだもの」
離さないで、そう言うようにわたしはヨシュアの背に手を回した。