いつも汚い仕事をするのは、忍である自分の仕事だと思っていた。戦意を失って逃げ惑う敵兵にクナイを突き立てることに、すこしも思うところがないとは言いきれないのは、のまだ忍として未熟な部分である。同情ややるせなさだとかを感じては心を痛める。戦時中において不必要な感情を、なかなか切り捨てられない。
 けれど、いつこの敵兵がその刃を再びこちらに向けるのかはわからない。だからこそ、主を守るために、は残敵掃討を行うのだ。

 同じように、なんの躊躇いもなく、表情一つ変えずに敵兵を一掃するジョーカーの姿を見つけては内心でぎょっとする。の記憶が正しければ、彼はカムイに仕えるバトラー──主への給仕が主な仕事──であるはずだ。戦場で目覚ましい活躍を見せるだけならまだしも、このような場にいるとは、には信じがたかった。

「おい、手が止まってるぞ」

 ジョーカーの視線がに向くことは、ちらりともなかった。
 しかし、冷たい声を投げられて動揺を隠せずに、の放ったクナイは敵兵の肩口を浅く切り裂くに終わった。悪戯に苦痛を与えることは本意ではない。一思いに急所を、とは素早く再びクナイを握る。

「あ……」

 ずいぶんと間の抜けた声が唇から漏れて、は慌てて口を結んだ。が動くよりも早く、ジョーカーが暗器を一閃させたのだ。中途半端にクナイを構えたを、ジョーカーが一瞥して「白夜の忍も大したことねぇな」と吐き捨てるようにつぶやく。
 はなにも言えずに、ただ身を強張らせた。

 情けないことに悔しさや怒りを覚えるより先に畏縮してしまい、は周囲の敵がほとんど片付いていることを確認すると、音も立てずに素早く姿を消した。





 小さな美しい歌声は、いつもの気持ちを落ち着かせてくれる。たとえば、サイゾウにこっぴどく叱られたとき、カゲロウとの実力差に落ち込んだとき、スズカゼにやさしく咎められたとき、ひとを殺めたとき、はいつも気配を消して主に寄り添い、その歌声に耳を澄ませる。
 ふいに歌声が止まる。「、いるの?」窓辺に寄るアクアの姿が見える。

 主の呼びかけだというのに、は返事をすることができなかった。ひどい顔をしているだろうし、まだ返り血を落としていない。は屋根の上で、膝を抱えてそこに顔を埋める。
 なにか言い返せればよかった。
 けれど、現実は尻尾を巻いて逃げてきたのだ。あとからあとから、自分の情けなさに腹立たしさが沸々と沸き起こり、泣いてしまいそうなほど大きく感情を揺らしてならない。はきゅっと唇を噛みしめる。忍失格だ、と情け容赦ないサイゾウならば言うだろう。

「……まだ帰っていないのかしら」

 アクアが呟きとともに、窓から離れていく。
 軽やかな鼻歌を聞きながら、は瞼を閉じて涙が込み上げるのを必死にこらえた。




 残敵清討の折に報告もなしに姿を消したことをサイゾウに叱られたは、木の上で身を丸めて息をひそめる。アクアの傍に、と思ったが平素のように振る舞う自信がなかった。寝癖の酷いアクアがひとりでそれと格闘したのかと思うと申し訳なくもあるが、はその場を動くことができなかった。

 戦争は、とても悲しく、途方もなくむなしい。
 余計なことを考えては刃も鈍る、とサイゾウに何度も口酸っぱく言われ、頭では理解している。主の盾となり矛となるのが忍である。は、アクアのためならなんでもする覚悟はあるつもりだ──そう、つもり、でしかないのかもしれない。

「猿の真似ごとか? だとしたら、上等だ」

 はそろりと視線を向けて、尚更身を縮こまらせる。「ジョーカーさん、」その名を口にするとき、喉がヒリヒリと焼き付くような感覚がした。

「てめえ、昨日はよくも逃げやがったな」

 ちっ、と舌打ちが聞こえて、は恐る恐る木から飛び降りた。ジョーカーが表情一つ変えずに、腕組みしたままその様子を見つめている。顔を合わせぬのは失礼、と思っての行動だったが、ジョーカーの怒りを感じて思わず逃げ出したくなってしまう。

「……すみません」
「おい、なんだその腑抜けた顔は。おまえ、本当にあのカゲロウと同じくノ一か?」
「え……」

 たしかに、カゲロウと比べれば自分はひよっこだ。なにか失敗してはすぐに泣いてしまう癖もなかなか治らず、アクアに至ってはをまるで忍らしくないと言う。

「そう、ですけど、」
「はあ? 声が小さくて聞こえねぇな」

 は思わず怯み、言葉に詰まる。忍だというのにあからさまに動揺して、視線を彷徨わせ、結局その視線を足元へと縫い付ける。
 泣きそうになっている自分に気がついて、は唇を噛みしめた。

「泣きべそか? 情けねぇ……おまえみたいなやつに、主人が守れるのか?」

 アクアのためなら──
 顔を上げたは、冷たいジョーカーの視線を受けて、再び顔をうつむかせる。なにか言わなくては、と思うのに、唇は震えるだけで声のひとつも出てこない。

「そんな様子じゃあ、さっさとくたばるのがオチだな」

 胸が痛むことはなかった。再三、同じようなことをサイゾウに言われている。他人から見てもそう見えるのか、とは呆然とその言葉を受け止めた。「カムイ様がお呼びだ」と、ジョーカーがため息交じりに告げる。すでに踵を返したジョーカーの背を見上げる。
 行きたくない、というのが正直な気持ちだった。
 アクアと立場を同じくする、暗夜王国に連れ去られた白夜の王女のことを、はあまりよく知らない。


「来てくれたんですね。よかった」

 ほっとしたように笑って出迎えてくれるカムイに対し、は視線を不自然に下げたまま、小さく会釈をする。

「どうぞ、座ってください」
「いえ、わたしはこのままで構いません」
「うーん……それじゃあ、とってもおかしくなってしまいます。ジョーカーさんが淹れてくれる紅茶は、美味しいですよ」

 カムイがにっこりと笑ったまま、椅子を引く。
 王族らしからぬその行動に、は思わずその手を掴んでいた。きょとんした瞳がを見つめる。その視線の真っすぐさに、は居たたまれないような気持ちになって、視線を足元へと縫い付けた。
 口を開くことができずにいれば、コンコンとノックの音がして、カムイが顔をドアへと向けた。

「ジョーカーです。カムイ様、紅茶をお持ちしました」
「あ、はい! 入ってください」

 ワゴンを押して、ジョーカーが部屋へと入ってくる。ははっとして、カムイから慌てて距離を取った。

「ありがとうございます。ジョーカーさん」
「カムイ様、私に礼など不要ですよ。さあ、座ってください」

 ジョーカーが自然な仕草で椅子を引いて、カムイを席へと導く。これが本来のあるべき姿だ。王族が、よりにもよって忍なんかにするべき行為ではない。ぼうっと突っ立っているままのを見て、ジョーカーが小さくため息を吐く。

「さっさと座れ」
「え……」
「カムイ様が、お茶をご所望だ」
「……」

 椅子を引いた姿勢のまま睨まれ、は躊躇いながらも腰を下ろす。
 紅茶を注ぐジョーカーの姿は、なるほど確かに執事らしい。彼の洗礼された優雅な仕草からは育ちの良さを感じるし、主に対する言葉遣いや立ち振る舞いは、隙がなく完璧としか言いようがない。は急に自分がみすぼらしく、ひどく場違いなように感じた。

 思わずうつむくと、視線の先に琥珀色の紅茶が差し出される。ふわりと香りが鼻腔をくすぐるが、には馴染みがないものだった。は怪訝に眉をひそめる。

さん」

 カムイの手がの頬に触れた。びくっ、と肩が跳ねて身体が強張る。
 跳ね除けて逃げなかったのは、見つめてくるカムイの宝石のような瞳が、一層やさしく細められたからだ。視線を彷徨わせた先で、ジョーカーが不機嫌そうな顔をしているのが見えた。

「っか、ムイさま……!」

 ふいに、むにゅっと頬を摘ままれる。「あはは」と、カムイが少しも悪びれる様子もなく、笑った。

「もっと笑ってください、さん」

 言いながら、もう一方の手も、反対の頬を引っ張る。不格好ながら、無理やり口角をあげる形になる。そうして、おもむろにカムイの手が離れていった。

「笑っている場合じゃないのかもしれません。でも、暗い顔ばかりしていたら、いけないと思うんです」
「……」
「それに……ほら、美味しいものを食べたり飲んだりすると、自然に顔がほころぶじゃないですか」

 カムイがお茶請けのクッキーを頬張り、「ね?」と小首をかしげた。

「ジョーカーさんのつくるクッキーは、とっても美味しいんです。勿論、紅茶もです」
「勿体ないお言葉です」







 なにを話したのかよく覚えていない。
 静かに閉められた扉の前で、はぼんやりとつま先を見つめた。カムイが触れた頬に指先を這わせる。心の底から笑ったのは、いつだっただろうか。

「おい、邪魔だ」

 ワゴンを押して、ジョーカーが部屋から出てくる。は思わずよろけて、たたらを踏んだ。
 振り向くことができなかった。腕を掴まれて、ようやくは顔を上げてジョーカーを見上げた。唇を噛みしめる。なにをどうしたら、表情を繕えるのか、わからなかった。ジョーカーが軽く目を見開く。

 こぼれそうな涙は、それでも落涙することはなかった。
 忍失格だなんてことは、自身が一番わかっているのだ。それでも、アクアのために、アクアのためなら、そう思っていたのに──ジョーカーを見ていると、その忠義すらもがまがい物に見えてしまう気がした。

「やめちまえ」

 噛みしめた唇に、ジョーカーの親指が押し当てられる。「てめえみたいな腰抜けが、戦場に立って何になる」言い返したかったが言葉は出ない。思わず、再び唇を噛みそうになるが、ジョーカーの指先は唇を押さえたままだ。

「……死ぬ前にさっさとやめろ」

 冷たい声音が告げた。血の気が引いていく。サイゾウのほうが余程厳しく叱責するというのに、なぜジョーカーの言葉にここまで打ちのめされてしまうのか、自身わからなかった。ジョーカーの指が離れても、唇は動いてくれなかった。
 うなだれるの頭上に、ため息交じりの声が落ちる。

「てめえに死なれると、俺が困る」

 滲んだ視界に、ただ己のつま先を映すだけのには、その言葉の真意など知らない。

 

  

(涙を拭ったその指が、)