まだ太陽が顔を出さぬほど早い時間、執事であるジョーカーの一日が始まる。
 の特技は、目覚めがよいことである。軍で一番早起き、だなんてまるでお年寄りのようですこし不名誉に思っていたが、それはもう過去のことである。にとってこの特技はなくてはならないものになっていたし、この朝の時間はとても貴重で至福となっていた。

 一見完璧のように見えるジョーカーだが、実は軍で一番朝が苦手だと言う。そのため、朝が苦手なジョーカーに代わって、このときばかりは多くのことができる。ジョーカーのために苦めのコーヒーを淹れて、寝ぼけ眼を新聞に向けるジョーカーの銀髪をまとめる。
 はそれほど器用ではないため、髪を結いあげる頃には、コーヒーは飲みきっているしジョーカーの目もすっかり覚めている。

「おはよう」

 ジョーカーの落ち着いた低い声がの耳を打つ。新聞を畳んでテーブルに置いたジョーカーの手がの腰に絡みついた。そのまま引き寄せられ、椅子に腰かけたままのジョーカーの上に跨るように導かれる。はすこしの恥ずかしさを覚えながら、ジョーカーと向きあう形で彼の上に座った。
 この忠実すぎる執事はほとんどカムイのことばかり考えており、カムイのために行動するし、カムイの傍に常に控えている。そのため、このようにシャツを羽織っただけのラフなジョーカーの姿や、眠気をすこしも隠しもしない無防備な姿はあまり見ることは叶わない。これは、恋人である自分の特権だ、とは考えている。

 コーヒーの苦みをほんのりと残した唇が重なり、すこしずつ口づけが深くなっていく。はきゅっとジョーカーのシャツを握りしめた。

「……ん、……っふ……」

 とろり、との思考が溶けていく。
 しかし、唇を離したジョーカーにキスの名残りなどなく、すぐに立ちあがって鏡へと向き直る。「ジョーカー……」は追いすがり、その背に身体をぴたりとくっつける。
 ジョーカーがそれを振り払うことはないが、ちらりとも視線を向けることもない。

 手早くタイが結ばれる様を鏡越しに見つめていれば、ジョーカーが振り向いた。ちゅ、と一瞬だけ掠めるようにキスをして、ジョーカーの手がベストを掴んだ。あっという間にいつもの執事の姿になってしまう。

「もう行くの?」
「ああ」

 実に簡潔でそっけない返事である。いちいちそれに傷ついていてはキリがないので、慣れたものであるにしろ、はしゅんと肩を落とした。朝の時間はもう終わりである。


「……うん」
「なるべく早く帰る、だからそんな顔をするな」
「……ん、」

 やさしい口づけが降ってきて、は目を閉じる。「行ってくる」と、耳たぶに唇を触れて、低く囁かれる。はわずかに顔を赤らめて、うなずく。

「いってらっしゃい」

 たとえ、ジョーカーにとっての一番が自分ではなくカムイだとしても、こうして愛情を向けてもらえるならば十分だ。ジョーカーの一日の始まりとともに、の一日もまた始まる。




 ちいさな物音がして、はふと目を覚ました。
 眠っていたことに気がつき、時間を確かめようと時計を探したところで「ただいま」と、聞き慣れた声が聞こえた。そして、置時計に伸ばしかけていた手に、大きな手が重ねられる。
 部屋の中は薄暗く、日が沈んでからずいぶん時間が立っていることがわかった。なるべく早く帰る、というのはただの決まり文句のようなものである。日付が変わりそうなほどの時間であっても、ジョーカーが遅くなって悪い、などと言うことはない。

「……おかえり、」

 起き抜けのの声はすこしだけ掠れていた。ふ、と笑う気配があって、やさしく身体を起こされる。

「ごめん、寝ちゃってたみたい」
「気にするな」

 ん、と返事ともつかない声を漏らして、はジョーカーに身を寄せた。そこでは、ジョーカーがまだ執事姿であることに気づいて、窺うように見上げる。執事として身なりを整えているジョーカーには隙がないため、どうにも気後れしてしまう。

「紅茶でも淹れるか?」
「あ、……う、うん」

 の答えを聞いて、ジョーカーがさっと身を離して準備に取り掛かる。
 なにをやらせても優秀で、がジョーカーより優位に立てるのは、あの朝の時間くらいのものである。悔しいことに、家事も完ぺきなので手を挟む隙もない。また、紅茶や珈琲を淹れるのは、ジョーカーの本来の仕事のひとつなので、は見つめるほかない。

 この空間は、ふたりだけのものだ。
 星界の城はカムイによって皆が住みやすいように整えられており、戦いの中で絆を深めた者たちにには、こうしてふたりで過ごせる環境を作ってくれている。
 中には子を成した者も──ぼんやりと見つめていると「紅茶が入ったぞ」と声がかかり、気がつけばジョーカーがテーブルにティーセットを並べているところだった。

「ありがとう」

 ふわ、と紅茶の香りが鼻腔をくすぐる。「あれ、今日はいつもと茶葉がちがうね」は席に着きながら、首をかしげる。伊達にいつもジョーカーの紅茶を飲んではいない。香りと色の変化に気づける程度に鼻も目も成長しているようだ。
 ジョーカーの作る料理はなんでも美味しいため、舌も肥えたことだろう。どうか身体まで肥えてしまわぬことを願うが、並べられた焼き菓子にもつい手が伸びてしまう。なにせジョーカーの用意するお茶請けは、紅茶との食べ合わせが抜群で、茶と菓子のバランスが考え抜かれた組み合わせなのだ。

「ああ、珍しい茶葉が手に入ったからな」

 同じく、椅子に腰を下ろしたジョーカーに、は視線を向ける。そういったものは、カムイへと献上するのが常で、悲しいことにはいつも二の次だ。「わたしが飲んでもいいの?」との疑問が沸き起こるのも、致し方ない。
 ジョーカーが怪訝そうに眉をひそめる。

「お前のために用意した茶葉だぞ」
「えっ、わたし?」
「ああ。少量しか手に入らなかったからな。カムイ様にも飲ませられん」
「え!」

 は目を丸くする。まさか、カムイよりも自分を優先してくれる日がくるとは。そんな心の中の声が伝わったのか、ジョーカーがやわらかく目を細め、笑みを浮かべた。

「恋人のために特別なにかしたいと思うのは当然だろう。ほら、紅茶が冷める前に飲め」
「い、いただきます」

 促されるまま紅茶を一口飲む。じっ、とジョーカーに見つめられ、はなんだか緊張で味もわからなくなってしまう。美味しいのは美味しいのだが、細かな情報が脳まで入ってこない。

 カムイ様以外はどうでもいい、と公言するジョーカーである。恋人となったに対しても、やはりカムイとは天と地ほどの差をつけた態度で接するし、すげなくされることも多く、あまり甘い言葉もない。だからこそ、ストレートな言葉はひどく胸に響き、滅多にない事態に動揺してしまう。
 思わず、カップを持つ指先が震える。

「……わかりやすいな。顔が真っ赤だぞ」
「う」
「この際だ、はっきり言っておく」

 ジョーカーが立ち上がり、に近づく。身を強張らせたの手からカップをとり、静かな動作でソーサーへと置いた。陶器のぶつかる音はすこしも立たなかった。
 ジョーカーの指先がの頬を撫でる。うつむきかけた顔をくいと持ち上げられ、は仕方なくジョーカーを見つめた。カムイに向ける視線をすこしでもこちらに向けてほしい、と願ってやまなかったジョーカーの瞳はいま、の情けない顔を映している。

「俺はカムイ様に生涯お仕えする心づもりだ。カムイ様を最優先に何事も考える。だが、お前のことを大事に思っていることは事実だ」
「ジョーカー……」
「いつもは照れくさくて言えないが……愛している……」

 そう囁くジョーカーの頬がうっすらと赤みを帯びていることには気づいて、ますます恥ずかしくなってしまう。なにか答えなくては、と焦って開いた口は、口づけによって言葉を紡ぐことは叶わなかった。

「……さあ、今度こそ紅茶を味わってもらおうか」

 にっこり、とジョーカーが笑顔で言うが、はうなずくことはできずにうつむいて紅茶を見つめた。わたしも愛している、と伝えるにはまだ時間がかかりそうだった。

その紅茶はきっとお砂糖多め

(だってこんなに甘いんだもの)