唇を噛みしめる。じわりと鉄の味が口内に広がって、さらに惨めさを増しただけだった。
 支柱に後ろ手を括りつけられてろくに身動きができないが、それがなくともあまり変わらなかっただろう。手当てを施されているが、それでも身体中が軋むように痛む。天幕の中は薄暗く、いまが昼か夜かもには判断がつかなかった。

 はデイン兵である。クリミア軍に敗北し、捕虜となったこの身は、驚くほど価値がない。もはやデインに戻ることが許されるわけもない。

 ふいに光が差し込んで、は目を瞑った。
 近づく気配にただ身体を強張らせる。ぐい、と顎を掴まれる。無理やり顔を上げさせられるが、その手を振り払うこともできないまま、は薄っすらと目を開けた。

「あーあ、ほら、新しく傷つくってやがる」

 誰とも知らぬ親指の腹が、の唇に触れた。
 を覗き込む顔は、ずいぶんと幼く見えた。は目を凝らす。そして、彼の背にあるものを見て、愕然とした。震えた声が、震えた唇から漏れる。

「半獣、」

 にとって、忌むべきものであり、排除すべきものである。それが蔑称であるということすらは知らない。


 すっ、と目の前の瞳が細められる。屈めていた背を伸ばして「おっ、いいねぇ! その減らず口」と、軽口を叩いて笑うその姿から、は目を逸らした。ひらりと羽根が舞い落ちる。

「こりゃ、まだ死にそうにもないな」

 愉快そうな声が降ってくる。は気力を振り絞って、睨みつけた。

「気の強い女は嫌いじゃない」
「馬鹿にするな! 汚らわしい半獣め……!」
「その半獣様に、媚びへつらわなくていいのか? 自分の立場を考えたほうがいいぜ」
「ふざけるな! そんな真似をするわけがないだろう!」

 声を張り上げるたび、身体が悲鳴を上げるようだった。はあっ、と大きく肩で息をして、はそれでも睨みつけるのを忘れない。
 「へえ?」と、にやつきながら喉元に手が伸ばされる。
 は反射的に、ぎゅっと目を瞑って身体を強張らせた。唇に、湿った感触を感じる。

「勝手に怪我すんじゃねえよ」

 ぺろ、と赤い舌先が見えた。それこそが唇を舐めあげたのだと気づいて、カっと頭に血がのぼる。

「どうした?」

 再び、天幕の入り口が開いて、明るくなる。入って来たその顔には見覚えがあった。
 怒りがすうっと引いていく。それだけでなく、血の気が引いていく感覚がした。「お、ベオクの大将」と、呼ばれた通りクリミア軍を率いるアイク将軍である。の命を握るのは、彼だ。

「あんたはたしか、だったな?」
「……」

 捕虜と視線を合わせるために、膝をつくような将軍がいるだろうか。「アイク」と、参謀が咎めるように名を呼ぶが、気に留めることもない。

「殺せ。わたしを生かしても、意味はない」
「悪いが、あんたに選択権はない」

 その通りである。ひどい屈辱だった。

「ヤナフ、あまり興奮させるな。身体に障る」

 へいへい、と肩をすくめるヤナフを横目に、アイクがさっさと天幕を後にする。「捕虜に手を出すような真似はしないでくださいよ」と、参謀の冷たい声が去り際に響く。
 何故、そんなふうに気にかけるのだろう。は力なくうなだれ、目を閉じる。

「ベオクの大将は悪い奴じゃない。そうカリカリすんなよ」

 ヤナフの手が頭を軽く叩いたのがわかったが、何かを言う気にもなれなかった。







 辺りはしんと静まり返っていた。灯りもともさぬ暗い天幕で、は立てた膝に顔を埋める。ひどい孤独感だった。つんと鼻の奥が痛む。
 こんな敵地で涙を流すなんて──
 きつく唇を結ぶが、小さな嗚咽が漏れた。泣いてもどうにもならないことはわかりきっている。

 強がっていても、威勢よく噛みついてみても、所詮は無力な小娘である。いつまで、軍人の皮を被っていられるのか、にはわからなかった。
 ほんとうは、半獣がすごくこわい。には誰かを憎み続けられるような気概もなかった。


 こうして震えるうちに、また夜は明ける。


「いい加減、食え。何も入っちゃいねぇよ」

 そう言って、すこし硬いパンを無理やり口に押し込んできたのは、短い間だったがの部下としてデイン軍にいたシノンだった。その頃から口の利き方がなっていない、と思っていたが、いまではすでに敬語のけの字もなければ、扱いもぞんざいである。
 元はクリミアの人間だ。加えて、金で雇われた傭兵だった。裏切られたなんて思っていない。

 パンを咀嚼して飲み込めば、これまたスープを掬ったスプーンをねじ込むようにして、乱暴に口にさせる。は咽そうになりながらそれを飲み込み、シノンを睨んだ。

「……んだよ、文句あんのかよ」
「自分で食べれる」
「あ? てめーが食わねぇから、わざわざオレが……」
「食べれる!」

 支柱には申し分程度に片手が繋がれるだけだ。誰の手を借りずとも、その気があれば食べることができる。はシノンの手からスプーンをひったくった。

「……なあ、」

 の食べる様子を見ていたシノンが、ふいに口を開いた。

「いつまで、意地張ってるつもりだ?」

 つまらないプライドで、と言われているような気がした。
 必死に被っている軍人の皮が、剥がされていく。そこにいる怯えるばかりの小娘には、何をどうしたらいいのか、ひとつもわからないのだ。

「今のあなたは敵。気安くしないで」

 努めて冷たい声で告げる。情けなくも、それはかすかに震えていた。

「お? やっと食べたか」

 捕虜になってから、聞き慣れた声がした。彼に危害を加えられたことはないのに、ぞわりと背筋を悪寒が駆けのぼる。デインで生まれ育ったにとって、ラグズは半獣でしかない。

「おい若造、ちったあ気を遣え」

 ヤナフが犬猫を追い払うような仕草をする。ケッ、と悪態をついてシノンが天幕を出て行ってしまう。
 いくら半獣と罵ろうとも、飽きもせず足を運ぶヤナフが何を考えているのか、には到底わからない。しゃがみ込んだヤナフが顔を覗き込んでくる。少年のような顔立ちと頬の傷、そして背中の羽根にも見慣れてしまったのに、恐怖は消えない。



 何度も何度も名前を呼ぶ。はふいと視線を逸らした。

「おれが怖いか?」
「怖く、なんて──

 反射的に睨みつけるが、はすぐに視線を落とした。
 身体の震えが押さえられない。ヤナフの手が伸びてきて、は身を竦ませる。ぎゅっと噛みしめた唇に、そうっとヤナフの指が触れた。

「また傷がつくだろ」

 ヤナフの声はいつもやさしかった。触れる手も、慎重さを持っていた。
 じっとヤナフを見上げたの瞳から、堪えきれなかった涙が溢れて落ちた。

「やっと泣いた顔が見れた。流石のおれも、夜目は利かないからな」

 夜中に泣いていたことを知っている口ぶりで、ひどくやさしい手つきでヤナフの指先が涙を拭った。
 鷹の民。空から迫る鋭く大きな爪が、この身を抉ったことが、まるでつい先刻の出来事のように思い出された。怖いに決まっている。だけれども、不思議なことに身体の震えは次第に治まっていった。



 名前を紡いだ唇が、そうっと目尻に押し当てられる。

「おれはおまえに惚れてんだ。勝手に傷を増やされちゃ困るぜ」

 何を言うべきかわからずに、それでも口が小さく動いた。震えたの吐息を呑み込むように、ヤナフが唇を重ねた。びくりと跳ねた身体が強張る。けれど、それは恐怖ではなく緊張だった。
 ごちそうさん、とヤナフが揶揄って、小さく舌先を覗かせる。

「……わたし、あなたが思うような気の強い女じゃない」
「知ってるぜ。のこと、ずっと見てたからな」
「……あなたが怖い。それに、これからどうすればいいのかもわからなくて、怖い」

 ぽろぽろと涙をこぼして、子どものように泣きじゃくっても、ヤナフが呆れた顔をすることはなかった。相変わらずやさしい声で、慎重な手先で、ただただを慰めた。

「おれに任せりゃ大丈夫だ」

 少年のように幼い顔立ちなのに、自身に満ちたその笑みは、をひどく安心させた。




「アイク将軍、この度は多大なる恩情を」
「堅苦しいことはいい」

 の言葉を遮ったアイクが、小さく肩をすくめる。将軍らしからぬと思っていたが、の知る軍の総大将とはだいぶ違っていた。

「あんたのことはシノンからも聞いてる。これからよろしく頼む」

 ぽん、と気安く肩を叩かれて、は「は、はあ」と思わず曖昧な返事をしてしまう。
 捕虜として捕らえられていたことが、まるで夢のようである。狐につままれたような心地で、は首をひねる。これでいいのか、クリミア軍。

「おれの言った通りだろ? ベオクの大将は悪い奴じゃないって」

 ヤナフが肩に手を回して、したり顔で言ってのける。
 彼の手が触れる瞬間に身体が震えたが、ヤナフがそれを気にした様子はなかった。デイン人として染み付いたものがすぐに消えるわけではない。しかし、半獣とは二度と口にできそうもなかった。

「ヤナフ」

 その名前を呼ぶのは初めてだった。

「……ありがとう」

 驚いた顔をしたヤナフが、すぐに破顔一笑する。無邪気さすらうかがえるような笑顔は、より一層彼を幼く見せた。

「ま、惚れた女のためだからな」

 口から出る言葉は、到底子どもらしさの欠片もないのだから、可笑しいものだ。

(もう過ごさなくてもいい)