にとって三年という月日は長いものではない。いずれは風化してしまう程度の時間に過ぎないが、この三年間は決して忘れたくないと願う時間であった。それほど、グレイル傭兵団はあまりに居心地がよく、幸せだと思えるのだ。

 久しぶりに帰ってきた傭兵団の砦は埃っぽく、それでも自室は落ち着ける場所に違いない。は小さく息を吐いてベッドに腰を下ろした。じわりと手のひらに汗が滲んでいることに気づいて、シーツを握りしめる。
 自室にも関わらず気を張ってしまうのは、砦を訪ねてきた来客のせいだ。
 ふう、ともう一度息を吐いて、はゆっくりと目を閉じる。「三年、か」ぽつりと呟いたそれは、もう三年なのかまだ三年なのか、にもわからない。ただ、共に過ごした日々へと思いを馳せる。


 成長期を過ぎたの身体にほとんど変化がないのは、なんら不思議ではない。しかし、成長したアイクの屈強な肉体を見ると自分との違いを感じざるを得ない。五年、十年となれば更にその違いは顕著になっていくのだろう。
 はそれが怖いし、哀しい。

「……馬鹿だな、わたし」

 そう柔らかくもないベッドへと身体を投げ出すと、湿っぽいにおいと共に埃が舞った。不快に思いながらも、掃除をする気にもなれなくて、そのままごろりと横になる。
 いつまでも一緒にいられないことは、わかりきっていたのだ。




 ラグズがいる、ということだけで、はぎゅうと心臓を掴まれたような感覚を覚えてしまう。
 先のデイン=クリミア戦争において共に戦ったライやレテであっても、未だに上手く話すこともできない。しかし、ラグズ連合が組まれた以上、泣き言は言っていられないのが現実だ。せめて、それを悟られないように取り繕ってはいるが、恐らく気づかれているのだろう。ライたちの気遣いなどを感じると、は居たたまれなくなる。



 掛けられた声にはっとして振り返る。びく、と大袈裟なほどに跳ねた肩を誤魔化すことはできなくて、は苦く笑いをこぼした。無意識に首の付け根を押さえた右手が緊張で強張っている。背後を取られると、必要以上に警戒してしまう。
 不自然なの様子を気にする風もなく、アイクが近づいてくる。

 こういう気の置けないところが、傍にいてひどく心地いいのだ。
 互いを知りすぎることのない距離感は、にとって重要で有難いことだ。多少無神経なところもあるが悪気がないのはわかっているし、なによりアイクには嘘がない。
 その実直な性格は、には眩しく、そしてとても羨ましい。
 とはいえ、素性の知れないを傭兵団に入団させたのは、あまりに考えなしともいえるかもしれない。参謀たるセネリオの苦労を思うと同情を覚えざるを得ないが、にとっては幸運であった。

 隣に立つと、その大きさが顕著になるようだった。見上げたアイクの顔には、当然ながら少年らしい幼さはすでになく、青年の精悍さがあるのみだ。

「こんなところで油売っている暇があるの? アイク団長」

 は、胸の内にあるアイクの成長に対する戸惑いや焦燥感を誤魔化すためにも、わざとらしく笑みを作って見せた。「問題ない」と、アイクの馬鹿まじめな返答を受けて、は閉口して小さく肩をすくめた。彼には冗談や厭味がほとんど意味をなさない。

「……どうかした?」

 アイクが多忙なのは事実である。ラグズ連合におけるベオクのリーダーとして、やるべきことは多い。のように、ただ己の武器を手入れして開戦を待てばいいわけではないのだ。

 じっとアイクの言葉を待つが、その口はなかなか開かれない。
 もとより口数が多いわけではないが、言い淀むことも少ないアイクには、珍しい沈黙である。は不思議に首をかしげる。

「アイク?」
「どうかしたのか、と聞きたいのはこっちだ」
「えっ?」

 思わぬ言葉には瞳を瞬く。それと同時に、緊張に顔が強張るのを感じて、慌てて笑みを作った。

「わたしは、別に、どうもしてないけど」

 あまりに薄っぺらい台詞だった。ほとんど表情は変わらなかったが、アイクの眉間にわずかに力がこもるのがわかった。はアイクの顔を直視することができなくて、視線を落とした。
 じわり、と手のひらに汗が滲む。

「それにしては、ずいぶんと怖い顔をして、気を張っているようだが」
「それは、戦いの前だから……」
「砦にライが来たときからだ」
「え……」

 アイクに指摘され、は思わず言葉に詰まってしまう。
 いくらでも言い訳はできる。その場しのぎなど、これまでもいくらでもしてきた。けれど、アイクにまでそのような真似はしたくなかった。下手くそな笑みが崩れていくのがわかったが、は表情を取り繕うことができなかった。

 様々なことに鈍感なくせに、変なところは鋭い。


 この三年間、いい距離感を保ってきたはずだった。
 誰にだって踏みこまれたくない部分はある。決して知られたくないことや、あまり触れられたくないところ──にとってのその部分は、隠すにはあまりに大きすぎるのかもしれない。それでも、これまではうまくやってきた。



 ふいに持ち上げられたアイクの腕に、は反射的に逃げるように後ずさった。しかし、躊躇うことなく伸ばされた手に、手首を掴まれる。じ、とアイクに見つめられて、視線を逸らすことができない。
 なにか言わなくては、とは口を開くものの、言葉が見つからずに吐息だけが漏れる。
 はひとりで生きてきたし、きっとこれからもそうだ。
 ふらふらと気ままに傭兵稼業を続けていくだけだ。グレイル傭兵団は、そのなかでの仮宿に過ぎない。それは十分に理解している。

 ──剣を握る硬い手の感触。大丈夫か、と言って差し出されたこの手があまりにやさしかったから、離しがたくなってしまった。すこし縋ってみたくなっただけ、と何度も自分に言い聞かせては誤魔化していたけれど、それも難しくなってきていることには気づかないふりをしている。

「邪魔して悪いな、アイク」

 わざとらしい足音を立てて現れたライを見て、はようやくアイクから視線を逸らすことができた。「いや、構わん」と、未だにを見つめたままアイクが答える。

「ほら、アイク団長はお忙しいんでしょ」

 はおどけるように言って、笑う。しかし、上手く笑えた自信がなかった。
 おもむろにアイクの手が離れていく。すこし距離を保ったままのライが、申し訳なさそうな顔をして「本当に悪いな。の言う通り、アイクにはやってもらうべきことが多いんでね」と、アイクを急かす。近くまで来ないのは、彼なりの配慮であることが、には痛いほどわかる。

、話は終わってないぞ」

 アイクがそう釘を刺して、ライと共にその場を後にする。遠ざかる広い背中を見つめながら、はそっと息を吐いた。






 潮時だ、という思いと、それでもまだ、という思いがせめぎ合うなかで、は躊躇いながら荷をまとめる。元々少ない荷物ゆえに、ゆっくりと考えることもできないまま、すぐにまとまってしまう。
 は静かに目を閉じる。

 初めは、デイン兵に追われているアイクたちと出くわし、一時手を貸すだけのつもりだった。しかし、思わぬ怪我を負って世話になり、そのまま傭兵団の一員となった。
 グレイル傭兵団のみんなは、とてもやさしく温かいひとたちばかりだった。決して愛想はよくなかったアイクだけれど、背を預けられるほど信頼できたし、そして気がつけばいつも傍にいてくれた──できることなら、ずっと傍にいたかった。
 これまで生きてきたなかで、間違いなく一番安らげる時間だった。


「どこへ行くつもりだ? 話はまだ終わっていないと言ったはずだ」
「……アイク」

 天幕を出てすぐに、待ち構えるようにアイクがいた。は気まずさからさっと視線を逸らす。

「ごめん」
「謝ってほしいわけじゃない」
「……話せない」
「だからって、なにも言わずに出ていくのか」

 アイクの声に怒気が滲む。一歩、距離を詰められただけで、は怖気づいてしまう。逃げ腰のに気づいてか、アイクが素早く腕を伸ばした。びく、と震えた身体は容易く捕らわれる。
 手荒にねじ伏せるわけではなく、ただ抱擁するだけだった。分厚い胸板からアイクの体温と鼓動が伝わってくる。

「アイク、」

 その背に縋りつきそうになった手を、は冷静に抑制する。かぶりを振って、身をよじる。「放して」努めて静かに告げたつもりだったが、その声はかすかに震えていた。は泣いてしまいそうになる自分を、内心で叱責する。

「いい加減にしろ!」

 アイクの鋭い声を浴びて、びりびりと身体がしびれるような気がした。

「勝手すぎるだろう。俺たちはそんなに信用できないか。お前にとって、この三年はその程度のものだったのか」
「違う!」

 反射的に否定の言葉が口をついて出た。
 ちがう。そうじゃない。そんなわけがない。だけど。
 言いたいことは沢山あった。けれど、どれもこれも言葉にできずに、は深く息を吐き出して気持ちを落ち着ける。

「背後に立たれるのを嫌がる。いくら暑くても首元を覆っている。気づけばいつもうなじを手で押さえている」

「っ!」
「三年も一緒にいて、気づかないわけがないだろう」

 ぐっとアイクの手がタートルネックを引っ張る。首元にかかる髪の毛を払うその感触が、の身体をことさら緊張させて動きを鈍らせた。
 鋭く息をのんだときには、アイクの眼前にうなじが晒されていた。

「アイク!」

 は声を荒げてアイクの腕から逃れようともがくが、びくともしない。アイクの指先が、そこにある印をそうっと撫でた。

「この痣が原因か?」

 ただの痣じゃない、と叫び出したい気持ちを押さえて、は唇を噛む。力なくうなだれるの顔をアイクの手が持ち上げる。射貫くような視線を向けられるが、はせめてもの抵抗として目を伏せる。

 アイクにだけは知られたくなかった。
 だけど、同時に知ってほしくもあった。そのうえで受け入れてほしかったのだ。

 ふいに、ずいぶんとやさしい仕草で、アイクの指先が頬に触れた。

「すまん。泣かせるつもりじゃなかった」

 武骨な手が涙を拭う。滲んだ視界で見上げたアイクの顔は、申し訳なさそうに眉尻を下げるわけでもなく、すこしばかり神妙そうに見えるだけだ。

「なにも話したくないならそれでいい。ただ、黙っていなくなるなんて、勘弁してくれ」

 は頷くこともできず、ただただアイクを見つめる。

「いや、この際はっきり言おう」
「……」
「好きだ」
「……えっ?」

 青天の霹靂である。時間をかけてようやくその言葉を、脳が咀嚼する。

「好きだ、

 アイクからは照れや躊躇いは感じられない。
 なんの反応も返せずに棒立ちするの身体を、アイクの腕が包み込んだ。じんわりとアイクの胸元が涙で濡れていく。

「ずるいよ……」

 には到底口にできない言葉を、こんなにもあっさりと告げるなんて。“印付き”ゆえに蓋をして閉じ込めていた想いが溢れそうになる。は、わたしだって、と言いかける唇をぐっと噛みしめる。

「印付きとやらだろうと、俺の気持ちは変わらんぞ」
「……本当ずるいよ、アイク」

 そうやって、蓋をこじ開けるのだから。

「知ってたの?」
「ついさっきな。ライに聞いた」
「……そう」

 知っていてなお、好きだというのか──そう思うと胸が詰まる。が印付きである以上、ベオクと同じように歳を取って、同じだけの時間を過ごすことはできない。だからこそ流浪してきたのだ。けれど、それでもいいと思ってくれるのならば。
 はそろりとアイクの背へ手を回す。それに応えるように、アイクの抱擁が強まる。

「……アイクとずっと一緒にいたい」
「ああ、ずっと傍にいてくれ。そのつもりで傭兵団に誘ったんだ」

 「一目惚れだからな」と、やはり恥ずかしげもなくアイクが言うものだから、は涙しながらも小さく声を立てて笑った。

ベール

(秘密も心もすべて、暴かれる)