その背がずいぶんと華奢であることに気づいたのはいつだっただろう。セネリオに咎められようとも、ライに呆れられようとも、いつも最前線をゆくアイクに怯むことなくが先陣を切るように付いてきていた。年齢はさほど変わらずとも、傭兵団でアイクよりも一足早く仕事をこなし、その腕前も一段上手だった。
 頼れる仲間だと尊敬していた。しかし、に抱く感情は、今はそれだけではない。

 アイクと同じように指に剣蛸を作るその手は、白くて小さい。背丈はもうずっと前に追い越してしまった。怪我をした際に抱き上げたその身体は、驚くほどに軽くて、柔らかかった──その感触を思い出し、アイクははっとしてかぶりを振った。何を考えているのだ、と己を諌める。
 何故かアイクには、頼れるはずのの姿が、あまりに頼りなげに見えてしまう。
 それを素直に伝えれば、が心外だと怒るのは目に見えていた。思ったことを口にしてしまうほうであったが、さすがにアイクも言い淀んでしまう。

「将軍」

 聞き慣れた声だったが、耳に馴染まぬ呼び名だった。アイクは顔を上げる。
 気安い仕草で天幕を開けて、がひょいと顔を覗かせる。「入るね」と、がアイクを見て顔を綻ばせ、返事も待たずに中へ入ってくる。こうやって気軽に接するくせに、将軍などと呼んでは少しばかり態度を変える。それがアイクには理解しがたく、時おりとても苛立たしかった。

「この前はごめんね。それで、いつになったら前線に立たせてくれるの?」

 アイクは眉をひそめた。
 この前が、いつを指すのかわからなかったわけでも、の言葉が癇に障ったわけでもない。ただ、つい先刻思い出していたことを悟られぬように、と気を張り詰めた結果だった。この前、怪我を負って動けなくなったを、アイクは抱えて後方まで下がった。確かにそれから、にはシスターたちの守りを任せて前線から遠ざけている。それが不満なのだろう。

 がとても優秀な剣士であることは、アイクもよく知っているし、これまでずいぶんと頼りにしては助けられてきた。参謀であるセネリオにも同じようなことを言われたばかりである。
 だめだ、と言いたい気持ちがあることに、アイクは気づいている。しかし、その明確な理由は自分でもよくわかっていなかった。アイクをじっと見つめるが不安そうに顔を曇らせた。どきりとする。何か言わなくては、とアイクは珍しく焦りを覚えた。

「俺は」

 アイクは一度口を結ぶ。が何も言わずに、ただアイクの言葉を待っている。

「……俺は、お前を失いたくない」

 の瞳が丸く見開かれる。
 アイクは自分で言ったにも関わらず「ん?」と顎に指をあてて首を傾げた。それから、遅れてようやく納得する。

「そうか、俺は恐れていたのか」

 そして、失うことを恐れる理由は、至極単純であると思い至る。アイクはいまだ驚きに固まっているの身体を抱きしめる。やはり、ひどく華奢でやわらかい。おまけに、いいにおいがする。

「ちょ……この、馬鹿アイク!」

 将軍になってからというもの、久しい怒り文句だった。さすがというべきか、その細腕で驚くほど綺麗に背負い投げられ、アイクは思い切り地面に叩きつけられる。組み手ではいつも負かされていたことを、アイクは思い出しながらを見上げた。
 しかし、その顔を見る間もなく「馬鹿!」と叫んでが天幕を飛び出していく。

「馬鹿馬鹿ひどいな」

 アイクは身を起こし、ぽりぽりと後頭部を掻く。けれど、こうして手痛い仕返しがある方が、変に畏まったり遠慮したりして、距離を置かれるよりよほど良い。
 久々にアイクと呼ばれたことも相まって、背中が痛むもののどうしても口元が緩んでしまう。

 土を払いながら立ち上がれば「アイク、大丈夫ですか?」と、セネリオが顔を覗かせた。ため息を吐きながら、背についた土埃を払ってくれる。恐らく、一部始終を見ていたのだろう。

「アイク、あなたはこの軍のリーダーです。軽率な発言は慎んでください。それに、このようなみっともない姿を見られては、軍の士気が下がる恐れがあります」
「……ああ、すまん」

 この参謀はやや気真面目すぎる。耳が痛い。「セネリオ、悪いが説教はまた今度にしてくれ」と、アイクはさっさと天幕を出た。大きなため息が聞こえた気がしたが、気のせいではないだろう。



 天幕を出てほどなくして、その姿は見つかった。
 アイクは声をかけずに、その小さいとすら思える背中に近づき、腕を回した。びくり、と強張った身体が背負い投げようと動いたが、アイクはぎゅっと抱きしめることで動きを抑え込んだ。

「アイク」

 将軍と呼ばれなかったことに、アイクは内心で安堵する。観念したように、の手がそっとアイクの腕へと触れる。触れることを躊躇うようだった指先は、果たして縋るようにアイクの腕へと絡みついた。

「……わたしだって、アイクのこと、失いたくないよ」

 それは、ひどく切ない響きを持っていた。
 互いに大事に思っていることはわかりきっていることだ。傭兵団の仲間たちは家族同然なのだから当然である。ただ、それがほかの団員とは少し違っていたことに、アイクは気づいていなかっただけのこと。

 アイクは急にがどんな表情をしているのか気になって、その身体を反転させた。「あっ」と、小さく声を上げたの顔は赤みを帯びていたが、さらにじわじわと赤く染まっていく。耳や首元まで赤く染め上げたが、さっと顔をうつむかせた。しかし、アイクは逃がさないとばかりにその顔を覗き込む。
 馬鹿、とが小さくつぶやいた。「やめてよ」が両手で顔を隠そうとするので、アイクはその手首を捕らえて阻止する。

、もっと顔を良く見せてくれ」
「ど、どうして」
「……? 可愛いからに決まっている」
「ば、」

 馬鹿、と紡がれる前に素早く唇を奪う。勢いを失ったものの「馬鹿アイク……」と、が真っ赤な顔で憎まれ口を叩くので、アイクは小さく笑った。そういえば、気持ちを伝えていなければ、確認もしていないことに今さら気がついた。

「好きだ、。お前はどうなんだ」

 アイクは真面目な顔をして告げる。言葉を詰まらせたが、狼狽えるように視線を彷徨わせたのち、触れるだけのキスをくれた。

「だいすき」

 恥ずかしそうに言う姿は、この上なく可愛かった。




 華奢な背中と背を合わせる。何も言わなくても、動くタイミングがわかる。まるで、自分の半身のように、考えがわかるし伝わっているようだった。ちら、と視線をやれば瞳だけでが笑った。
 失いたくない。
 その思いに変わりはないが、こうして前線に立ち続けるのは、もはや性分のようなものだ。それに、これほど近くにいるのならば、すぐ手が届く。守ることができる。

「数が多いね」

 がわずかに息を弾ませながら言う。

「ああ、だがやれるな?」
「もちろん」

 見くびるなと言わんばかりに返され、アイクはふっと笑い、剣を握りしめる。アイクの後ろでが呼吸を整え、地面を蹴る。敵兵の懐へ飛び込んだが一閃する。アイクもまた、敵兵を薙ぎ払う。

「アイク、前に出すぎです!」

 セネリオの怒声が飛んで、アイクとは視線を交わした。すぐさま魔法で支援してくれ、大分敵兵の姿も減ったようだ。「怒られちゃったね」と、おどけたように言いながらもが敵兵を斬り捨てる。二人ならば怖いものなど何もない。そう思えるほど、アイクは安心して背を預けられた。


 セネリオの小言を早々に切り上げたアイクは、の姿を探すために天幕を出た。あれ、と声が聞こえて、足を止める。

「セネリオの話終わったの? 長くなりそうだったのに」

 が首をかしげてアイクを見上げている。「ああ」と返事ともつかない言葉を返して、アイクはその身体を抱きしめる。緊張に強張った身体からだんだんと力が抜けて、そろりと背に手が回される。

「アイク、わたし、逃げたりしないよ」
「知ってる」
「アイク、少しは人目を憚ろうね」

 が身じろぐ。アイクは周囲を見やったが、冷やかす視線など気にせずに、腕に力を込めた。

「気にするな」
「むしろ気にしてよ……」

 腕の中のの顔を覗き込めば、いつぞやのように真っ赤である。「じゃあ、天幕に行こう」と、アイクはの手を引いて歩きだす。

「そ、そういう問題じゃ」
「……? どういう問題なんだ?」

 アイクは訳がわからずに首をひねり、を見た。うー、とか、あー、とか何やらもごもごとつぶやくが首を横に振った。アイクの馬鹿、と言ったようだったが、その声はあまりに小さく不明瞭だった。

 天幕の中に入ってもなお、恥ずかしそうに顔をうつむかせるの顎を掴んで、無理やり上を向かせる。アイク、と頼りなげに動いた唇を、アイクは奪うように口づけた。びく、と大袈裟とも思えるほどに震えたが、ぎゅうとアイクの服を掴む。
 思ったままに「可愛い」と口づけの合間に告げれば、が身じろぎした。

「アイク……」

 は、とが吐息を漏らす。
 その瞳がキラキラと輝いているのは、潤んでいるからだとアイクは気づく。親指で目尻に触れれば、が目を閉じて、手のひらに頬を摺り寄せた。

「……きっと、不安だったのは、わたしのほう」
?」
「アイクが手の届かない存在になっちゃうんじゃないかって」
「そんなわけないだろう」

 うん、とが頷く。

「それに、エリンシア様みたいに綺麗でいい子が傍にいたら、もしかしたらって思っちゃうでしょう」
「……どういう意味だ?」

 アイクはじっとの顔を覗き込んだ。アイクを見上げたが、ふふと小さく笑う。

「わからないなら、それでいいの。アイクらしい」

 言って、がもう一度声を上げて笑った。
 アイクは不可解だと眉をひそめるが「気にしないで。変なこと言ってごめんね」とが言うので、気に留めないことにする。どうせ、詳しく聞いたとしてもあまり理解できないだろう。

「やっぱり、アイクの傍で戦うの、すごく安心する」
「俺もだ」

 それきりの口は開かれず、窺うようにアイクを見上げた瞳が、そっと閉じられる。引き寄せられるようにアイクは唇を寄せて、触れる間際に小さく囁く。の伏せられた睫毛が細かく震えた。

「好きだ、

 そうして華奢な身体は、アイクの身体が被さって覆いつくされるのだった。

距離はないに

(唇が触れ合うほど近くに、)