ずいぶんとぼんやりした顔をしているな、と思えば、案の定釣り糸に当たりがあることに気がついていない様子だった。「先生、引いてますよ!」と教えてあげると、ベレト先生はようやく竿を立てた。
 思った以上に引きが強かったのか、先生が脚を開いて腰を低く落とす。なかなか堂に入った釣り姿だったので、わたしはくすっと笑ってしまう。ちら、と先生の視線がこちらを見る。ぎくりとするが、それはわたしが笑ったことを咎めるものではないとすぐに気づく。

 わたしは慌てて先生に駆け寄って、竿を握りしめた。二人分の力でも魚は勢いよく暴れまわって、釣り上がる気配はない。この釣り池では何度も魚を釣っているが、ここまでの大物がいるなんて知らなかった。

 先生は何も言わずに、挑むように池の中を見つめている。
 ぐぐっと釣り竿がしなって、先生が竿を寝かせるようにして糸のテンションをゆるめた。その慣れた様子に内心で感心する。「今だ!」と、先生の声に合わせて、わたしは渾身の力で竿を引いた。
 大きな魚影が水面に揺らめく。

「あ、」

 思わず、間の抜けた声が漏れる。
 ぷつっと釣り糸が切れて、腕に感じていた荷重が急になくなる。ふわっと後ろに身体が傾くのがわかったが、受け身を取ることができそうになかった。わたしは目を瞑って、身を固くする。


「あれ……?」

 てっきり倒れるとばかり思っていたが、その衝撃はこなかった。わたしは恐る恐る目を開く。

「ベレト先生」

 わたしは先生の腕の中にいた。どうやら抱き止めてくれたらしい。
 先生もわたしと同じように、急に力の均衡が崩れたはずなのに、すぐに体勢を立ち直すだけでなく人一人を支えるなんてすごい体幹である。さすがは先生、と感動していると、固まったままのわたしの顔を先生が覗き込んでくる。その距離の近さにはっとする。

「あっ、大丈夫です! すみませんっ」

 慌てて先生から離れる。わたしはなんだか急に恥ずかしくなって、目を合わせることができなかった。
 釣り竿の先、切れた糸へと視線を向ける。

「残念でしたね。すごく大物みたいだったのに」

 力いっぱい竿を引いていたせいか、腕が痺れるような感覚がする。もっと筋肉をつけないといけないな、とどうでもいいことを考えて、ベレト先生から意識を反らす。

「それじゃあ先生、今度は必ず釣って、美味しいお魚を食べさせてくださいね」

 そそくさと釣り池を後にしようとしたのに、先生に手首を掴まれてそれ以上動けなくなる。先生の手が、手首から前腕へと移って、腕の張りを確かめるように触れる。「せ、せんせい」思わず声が上ずった。
 腕に落としていた視線が、わたしの顔に移る。どきっとして、言葉が出てこない。

「……痛むか?」
「い、いえ、あの……」

 すまない、と先生は少し目を伏せた。

「わたし、そんなにやわじゃないですよ」

 わたしは笑って力こぶを作って見せる。残念ながら、あまり筋肉の隆起はない。先生が瞳を瞬く。

「わたしの戦いっぷり、期待しててください」

 ふ、とベレト先生は目を細めて微笑むと、わたしの頭をぽんぽんと軽く叩いた。
 「ああ、期待している」先生のその言葉があれば、わたしは何だってできるようなそんな不思議な力が湧いてくるような気がした。

の午後

(先生が触れたところが熱い)