そこは確かに戦場のはずであるが、あまりにのんびりとしたフォルデの姿を認め、は思わず瞳を瞬いた。先ほどまでの緊張感が嘘のように脱力してしまう。「お、か。ご苦労さん」と、その声までもが実にのんびりとしている。
は手にしていた槍をぎゅっと握りなおし、周囲を警戒しながらフォルデへと近づいた。
まるで家の庭でくつろぐかのように、フォルデが地に腰を下ろしている。もしこれが敵兵であったら、すぐに太刀打ちできるのだろうかと疑わしくなるくらいだ。勿論、騎士としての実力はよりも格上であるが、そう思うのも無理もない。
「なにをなさっているのですか?」
ほら、とフォルデが差し出したのは風景画だ。はまたしてもぱちくりと瞳を瞬く。
描き慣れているのだろうそれは、素人目に見ても上手である。けれど、忘れてはいけない。ここは戦場である。前線から離れているとはいえ、戦いの真っ最中なのだ。
の怪訝な視線に気づいてか、フォルデがやけにわざとらしく肩をすくめた。
「おっと、カイルに言いつけないでくれよな」
「そ、そんなことはしません」
「そうか? おまえ、あいつ程じゃないにしろ、真面目だからなあ」
一瞬、カイルの姿が頭を過ぎったのは確かである。は誤魔化すわけにもいかずに口ごもり、視線を手元へと落とした。「なかなか上手いもんだろ?」は素直に頷いて、汚してしまわぬよう丁寧にフォルデへと絵を返した。
「いい感じに肩の力が抜けたな」
ぽん、とフォルデの手が軽くの頭を叩いた。まだルネス騎士として未熟であるは、そこでようやく緊張や不安から身体に力が入りすぎていたことに気づかされた。
不真面目で怠けているように見えるが、わざとこういった姿を見せているのかもしれない。フォルデが笑って、くしゃくしゃと髪を乱すように頭を撫でる。
「あんまり力み過ぎるなよ。俺みたいになれ、とは言わないがねぇ」
「……はい」
「っと、悪い。木炭が──」
バサバサッ、と派手な音を立ててフォルデの絵が地面に投げ出される。「あ、」と思わず声を上げるのすぐ傍を、フォルデが素早く通り抜けた。
ワンテンポ遅れて振り向いたの視線の先で、フォルデが敵兵を斬り伏せている。
ぎくりと身体が強張る。そう、忘れてはいけない、ここは戦場なのだ。振り返ったフォルデの顔は相変わらず呑気な表情であったが、視線は鋭い。
「……!」
「ま、力は抜いても気は抜くな、ってことかね」
「あ、は、はい……」
は手のひらに滲む汗を感じながら、槍を握りしめる。ガチガチに固まるを見て、フォルデが眉尻を下げた。
「あー、うん、いや……これは俺が悪い」
「い、いえ、あの、わたし」
「怖い思いさせてごめんな。ほら、お詫びにこれやるよ」
「……」
やさしく髪を撫でつけたフォルデの手が、一枚の絵を手渡してくれる。のどかな風景。戦場を忘れさせるような、のびやかで美しい絵だ。
「こんなものしかなくてさ」
「いいえ、ありがとうございます。フォルデ様」
はそれを大事に受け取ると、フォルデが「そんな大事にするようなものでもないって」と、照れ臭そうに笑った。
あとで知ったことだが、フォルデのこの趣味は軍内では有名らしかった。
地面に寝転がるフォルデの姿を見つけて、は既視感を覚えた。ここは戦場である、というごく当たり前のことを再認識しながら、はフォルデへと近づいた。寝そべるフォルデの傍には絵描き道具と、数枚の絵が置いてある。
「フォルデ様……」
思わず、呆れた声が出てしまう。おもむろに開いた瞳がを捉える。
「。元気にやってるみたいだな」
「……戦場で、絵を描くだけではなく、居眠りですか?」
あまりに危険すぎる、と言いたかったのだが、フォルデにはそうは聞こえなかったようだ。フォルデがばつの悪そうな顔をして、身体を起こす。
「おいおい、そんな顔するなよ。ちょっと休憩してただけだって」
自分はどんな顔をしているだろう、とは頬に手を当てたが、いまいちわからなかった。
フォルデが素早くあたりを片付け、立ち上がる。傍らで膝をついていた馬が、主の動きに合わせて近づいてくる。
「あの、フォルデ様」
「ん?」
「……わたしを、描いてくれませんか?」
馬に荷物を仕舞っていたフォルデが動きを止める。
「フォルデ様?」
の呼びかけに、一呼吸おいてフォルデが振り向く。笑みはなく、真面目な顔をしていた。
どきりとする。槍を握る手の指先がしびれるように、冷たくなっていく。出過ぎたことを言ってしまった、と思うが口にしてしまった言葉を引っ込めることはできない。それに、自分を描いてほしい、と思ったのは紛れもない事実だ。
戦争を忘れさせてくれるあの絵の中に入りたい。なにより、絵を描くときのフォルデの真剣なまなざしを、向けてほしいと思ってしまった。
「……人物画は描かない」
先ほどまでとは人が変わったようだった。フォルデのにべもない返事に、は理由を問うこともできず、ただ立ち尽くす。
「さて、仕事するかね」
の顔を見ることなく、軽い蹄の音を立ててフォルデが遠ざかっていく。フォルデの後ろ髪が、馬の尾と同じように揺れていた。はその姿が見えなくなるまで、言葉もなく見つめていた。
「その……もし良かったら、今度、私を描いて下さいませんか?」
エイリークのはにかむような声が聞こえて、はふと視線を向けた。ひら、と揺れたスカートから伸びるおみ足に思わず目がいってしまう。主君たるエイリークの傍らには、ルネス騎士の先輩にあたるフォルデがいる。はその姿を認めて、そうっと距離を取る。フォルデの冷たいともいえる表情や声音が、脳裏にこびりつくように残っている──
「エイリーク様のお願いです。落ち着いたら、ぜひ描かせて頂きますよ」
そう言ってやさしく微笑んだのは、フォルデだ。
は目の前が暗くなるような気がした。同じ頼みであっても、人が違えばこうも態度が変わるのか。言い表せぬような醜い感情が、の胸の内で渦巻く。ぐっと槍を握りなおしたその刹那だった。
「っ!」
エイリークの悲鳴じみた声が聞こえた。そして、力を抜いても気を抜くなというフォルデの言葉を思い出しながら、振りかぶられた刃を見たのだった。
寝台に横たわったまま、は視線を巡らせて、傍にある己の鎧を見つける。騎士団に入団した際は、ピカピカだったはずのそれは、ここ最近でずいぶんと傷ついてしまった。それを誇りに思っていいはずなのに、いまはどうしてかとても悲しい気持ちになった。
小さくノックの音がして、静かに扉が開かれる。「フォルデさま、」喉になにかが痞えたようにうまく声が出なかった。
「身体の具合はどうだい?」
フォルデの表情も、声も、やわらかくやさしかった。それなのに、涙が込み上げてしまい、は顔を背けた。
「こんなもの大事に持ってるなんてなぁ」
お守りじゃないんだぜ、とフォルデが取り出したのは、血塗れになった小さく折りたたまれた紙だ。にはそれがなにかすぐにわかった。以前、フォルデにもらった風景画だ。
「……わたし、フォルデ様の描く絵がすきです」
「だからってなあ」
「絵を描く、フォルデ様もすきです」
「……」
フォルデが困ったように後ろ首を掻く。「やっぱ、聞いてた……よな」ひどいことを言ってしまいそうで、は唇を噛みしめる。
ぎし、と寝台がフォルデの重みで軋む。
「人物画を描かないのは本当だよ。だいぶ前に……亡くなった母上を描いて以来だ」
「……エイリーク様は、特別ですものね」
自分で言ったくせに、じくりと胸が痛んだ。こらえきれなかった涙が頬を伝う。
「フランツは……母上の顔を、俺が描いた絵でしか知らない。だからかな、人物画はもう会えない人のような気がしちまう」
それに、とフォルデが続ける。
「俺はさ、絵に描いた姿よりも、こうして動いている姿のほうが見たいと思うんだ」
フォルデの指が目尻に触れて、涙を拭った。「こんな顔だって、今この瞬間じゃないとみられないだろ?」と、顔を覗き込んでフォルデが笑う。
「お高くとまって澄ました絵より、ずっと魅力的さ」
「……どういう意味ですか」
「可愛くて、愛しくて仕方がないってこと」
フォルデが覆いかぶさるようにして、の額へと唇を落とした。
「あんな断り方するつもりじゃなかったんだけど、色々思い出してさ……ごめんな」
やさしく細められた碧眼にひどく近い位置で見下され、は恥ずかしさから目を伏せる。「ま、あーんな姿やこーんな姿を描いてもいいっていうなら話は別だけど」と、唇が触れ合う間際に、フォルデの笑いを含んだ声が囁いた。いつかの戦場以上にの身体が硬直していたことは、本人とフォルデしか知らない。