訓練場を出ると「慌てないで食べてね」と、呑気な声が聞こえた。聞き慣れたその声は、姿を確認しなくともだとわかって、フェリクスは足を止めるか否かを逡巡する。
 フェリクスは一瞥をくれて、しゃがみ込むの背を見つける。足元には一匹の猫が、茹でた鶏肉にかぶりついている。担任教師が犬猫と戯れる姿はよく目にするが、感化されたとでもいうのだろうか。
 フェリクスはため息を一つこぼして、のほうへと足を向けた。頼んでもいないのに、どうせ己の鍛錬が終わるのを待っていたのだ。

「あっ、フェリクス。お疲れさま」

 フェリクスが背後に立つと、声をかけるより早くが振り向いた。いつからここにいたのか知らないが、の鼻先が仄かに赤らんでいる。
 ファーガスに比べれば温暖といえるガルグ=マクも、さすがに冷える季節だ。いまの今まで剣を振るっていたフェリクスは暑いくらいだが、ただ猫とじゃれつくにとっては十分肌寒い気温である。「お前は阿呆か」と、フェリクスは手にしていた上着をの肩にかけてやる。

 きょとんと瞳を瞬いたが、上着の合わせ目を指で摘むとはにかむよう笑った。

「ありがとう、フェリクス」
「……フン」

 フェリクスがの足元を覗き込むように近づけば、揺れていた尻尾を途端に緊張させて猫が警戒するように態勢を低くした。
 フェリクスを睨む目つきは猫ながら、なかなかに鋭い。

 首を捻ったが「この子、フェリクスに似てると思わない?」と、小さく笑った。

「なんだと?」

 フェリクスは眉をひそめ、片膝をついた。猫をまじまじと見つめる。
 スラリとした体躯の猫だ。足と腹の辺りは真っ白だが、顔から尻尾にかけての背側は薄墨色をした短毛種で、色の境目に薄茶が滲むように混ざっている。野良にしては、艶のある毛並みのように見える。のように、上等な餌をやっている人間が他にもいるのかもしれなかった。
 鶏肉を取られるとでも思ったのか、猫がシャーっと威嚇する。

 威嚇というにはあまりにも可愛らしいそれに、フェリクスの口角が自然と上がる。視界の端でがくすりと笑みをこぼすのがわかって、慌てて唇を結んだ。

「ね?」
「何処がだ。ふざけるのも大概にしろ」
「だってこの子、フラルダリオリアスって言うんだよ?」
「フラル……なに?」

 フェリクスは小さな舌打ちと共に立ち上がる。そして、に向かって手を差し出した。
 不思議そうな顔が見上げてくる。

「浴室に行くぞ。俺は汗を流す、お前は冷えた身体を温めろ」

 重ねられたの手は、驚くほど冷えていた。フェリクスは包み込むように、ぎゅうとその手を握りしめた。

「フェリクスの手、あったかいね」

 が呟くように言って、身を寄せてくる。
 こつんと肩にの額がぶつかって「おい、くっつくな。離れろ」と、口にしながらもフェリクスは手を離すことをしなかった。




 浴室に入ると熱気が全身を包んだ。ファーガス出身者は、暑さが苦手である。フェリクスも例に漏れず、長居する気など毛頭ない。
 誰もいないことをいいことに、がフェリクスのすぐ隣に座った。
 肩が触れている。

「……近すぎる」

 フェリクスは腕を組み、唸るように告げた。しかし、がその程度で怯むわけもなく「えへへ」と、頬を緩ませるばかりだ。
 じんわりと温まる身体が、急に熱くなったように感じる。

「誰もいないからいいでしょ?」
「そういう問題か? おい、言ってるそばから……」

 肩口に猫のように擦り寄るが、目を細めて微笑む。まだ浴室に入って間もないというのに、の頬は紅潮して、まなじりが滲むように赤い。
 フェリクスはそれを目視してすぐに、視線を逸らした。

「少しは恥じらいを持て」

 はあ、とフェリクスの口から深いため息が漏れる。
 眉一つ動かさずに焼石に水をかける教師はいないのに、早々にのぼせ上がりそうだ。

「やだ、フェリクスったらセテス様みたいなこと言って」

 可笑しそうに笑いながら、がフェリクスの肩を叩いた。無言で睨みつければ、さすがにしょんぼりして「ご、ごめん」とが小さく言った。
 俯くのうなじを、小さな玉の汗が伝い落ちていく。無意識に見つめる自分に気がついて、フェリクスは舌打ちして、瞼を下ろした。

「先に出ろ」
「えっ、でもまだ入ったばかり……」

 の手が、フェリクスの腕を掴んだ。汗ばんだ肌をぬるりと指先が滑る。

 離せ、と凄むつもりで目を開けたフェリクスだが、眉尻を下げて不安げに見あげてくるに思わず怯む。「フェリクス、のぼせた?」と、の手がフェリクスの頬に伸びた。
 いちいち距離が近い。
 の瞳が、この暑さゆえかすこし潤んでいる。胸元が大きく開いているわけではないが、薄い服が汗ばんでくっつき、身体の形が嫌でもわかる。むき出しの腕や太ももが、ほんのりと赤く染まっているのだって、注視しなくたってわかる。

 触れた手はフェリクスの体温と大差ないようだったが、カッと燃えるように顔に熱が集まるのがわかった。フェリクスは堪らず、を振り払うようにして立ち上がる。

「あっ、フェリクス……」

 追いすがるような声に、フェリクスは足を止める。振り向くことはしなかった。

「えっと、わたしも出るね」
「……好きにしろ」

 の手が自然とフェリクスの手に絡む。くそっ、とフェリクスは内心で悪態をついた。


 自分らしくない、と思えば思うほど、苛立ちが募る。剣を振っていれば、それだけで満たされたし、くだらない鬱憤も昇華できた。
 しかし、近頃はそれだけでは難しい。

「あ、ごめんね、待たせちゃった?」

 支度を終えたが駆け寄ってきて、フェリクスの隣に並んだ。「気持ちよかったね」と、桃色の頬を緩ませる。
 その締まりのない顔を見ているほうが、何故だか気が晴れるような気がするのだ。フェリクスはちら、とを一瞥して、頷きを一つ返す。

「……そうだな」

 まだ身体がぽかぽかと温かい。フェリクスはわずかに口角を上げ、足を踏み出す。
 きゅ、とひどく控えめにの指先がフェリクスの服の裾を掴んだ。いつも思うが、直接手を掴まない理由はあまりに他愛ないもので、でなければ足も止める気にもならない。

「えっと、」

 が視線を伏せて、言い淀む。
 普段は遠慮がないくせに、と思いながら、フェリクスは辛抱強くの言葉を待つ。不思議と苛立ちはない。

 寧ろ、が慎重に言葉を選ぶ様は、微笑ましさささすら感じる。フェリクスは笑みを噛み殺し、の悩ましげな顔を見下ろす。

「あのね、」
「なんだ」
「実家からフェリクスの好きな茶葉が届いたの。あとで、わたしの部屋に来ない?」
「……」

 手を繋ぐことも躊躇わず、容易く肌を触れ合わせるくせに、いまだに理由をつけなければ部屋に誘うことも、訪ねることもできないらしい。

「ああ、構わん」

 フェリクスが頷けば、ぱっと花が咲くように笑って、飛びつくように腕を絡めてくる。服の裾を摘む慎ましさが嘘のようだ。
 腕に柔らかな感触を覚え、フェリクスはぎくりとする。

「だから近すぎると……!」

 を振り解こうと腕を上げたところで「フェリクス、のぼせたのか?」と、声がかけられた。

「えっ、うそっ、そんなはず」

 が慌てて顔を上げた。近い位置で視線が交わる。
 色素の薄いフェリクスの肌は、赤みが目立ちやすい。じっと見つめられ、ますます顔に熱が集まるのがわかる。フェリクスは顔を背けた。

「あれ? うーん、確かに顔が赤い……ような」
「気のせいだ」

 フェリクスは食い気味に断言したが、が疑わしげに顔を覗き込んでくる。その元凶を作った教師を、フェリクスはぎろりと睨んだ。
 不思議そうに瞬く瞳が見つめ返してくる。

「王国出身者は暑さに弱い。無理はしないように」

 労わるようにぽんとフェリクスの肩を叩いて、教師が機嫌良さそうに浴室へ消えていく。

「フェリクス、ほんとうに大丈夫? のぼせてない?」

 が腕をより絡ませて、さらに顔を近づけてくる。フェリクスは眉を寄せて、腕に当たる柔らかい感触を意識しないように努める。

「……まず離れろ、

 フェリクスが低く告げると、が慌てて身を離した。「フェリクス……」と、不安げに曇るの顔を、フェリクスは直視することができなかった。
 のぼせてなどいないのに、顔の赤みが引かない。

「嫌だった? ごめんね、フェリクスがベタベタされるの好きじゃないの、知ってるのに」
「そうじゃない」
「でも……だって、フェリクス、目も合わせてくれないくらい怒ってるんでしょう」
「違う。話を聞け、

 じり、と後ずさるの手首を掴む。今にも泣き出しそうに歪んだ顔が、フェリクスを見る。見て、怪訝そうに眉をひそめた。

「………顔、赤いよ?」
「知っている! チッ、誰のせいだとっ……」

 腕に胸が当たるせいとも、笑顔が可愛いからとも、ましてやふいに見せる消極的な面が愛しくてだなんて口が裂けても言えるわけがなかった。
 煩悩を斬り伏せてしまえたらどんなに楽か。フェリクスは「くそ!」と、思い切り悪態をついた。

「……え? もしかして、照れ」
「行くぞ」
「フェリク」
「さっさと来い」

 皆まで言わせず、フェリクスはの手を掴んで歩き出す。ご丁寧に指を絡めれば、口を噤んだが大人しくついてくる。

「……フラルダリウスに帰った時、ブルゼンを持たされた。あとでお前にやる」

 フェリクスは前を向いたまま、何気ないふうを装って言った。勿論、誰に無理強いされたわけでなく、のために買って帰ってきたのだ。
 斜め後ろについてきているが、「ありがとう。ブルゼン大好き」と小さく笑った。フンと鼻を鳴らすフェリクスは、耳が赤くなっていて、それをに見られているだなんて気がついちゃいないのだ。

(どれだけすげなく振舞っても)