力はそれほどあるほうではないが、素早い身のこなしと流麗な剣捌きは、いつ見ても惚れ惚れする。しかし、それをのんびりと眺めている余裕などなく、フェリクスの剣撃をは必死に凌ぐ。
 キンっ、とぶつかり合った剣が甲高い金属音を鳴らした。

 いかにフェリクスが細身といえど、女性の身であるでは、力負けするのは目に見えている。切れ長の瞳が睨むようにを見据える。は、とが息を呑んだときには、手にしていた剣が弾かれて地面に転がった。
 よろけたの鼻先に、ピタリと訓練用の剣が添えられる。

「ま、負けました」
「……フン」

 フェリクスがつまらなそうに鼻を鳴らし、剣を鞘にしまう。
 剣を弾き飛ばされた衝撃で、手のひらがビリビリと痺れている。性別の差異がはっきりとしてきて、体格や筋肉量から実力差が開いてきているのを感じる。何度かには一本取れていたのに、最近ではは負けっぱなしだ。

 は弾んだ息を整えながら、落ちた剣を拾い上げる。
 フェリクスはといえば、息を切らしてもいないし、憎らしいほどに涼しい顔をしている。

「あっ、ドゥドゥーとの約束の時間だわ!」

 植物に詳しいドゥドゥーに、植物の育て方を教わる約束をしている。は慌てて剣を鞘に収める。

「ああっ、アッシュに借りてた本を返す予定だったの忘れてた……そ、そういえば、シルヴァンにお茶に誘われてたんだった!」
「お前という奴は」

 はあ、とフェリクスがため息をつく。
 乱れた髪を手のひらで撫でつけながら、フェリクスがを振り返る。「貸せ」と、言われてもはすぐには何を言われているのかわからなかった。

「本だ、お前のことだから持ち歩いているんだろう。俺がアッシュに返してやる」
「あ、うん……ありがとう」
「それから、シルヴァンには俺から断っておくがいいな?」
「う、うん。いいの?」

 は本を入れていた鞄を手渡しながら、窺うようにフェリクスを見上げる。

「構わん。稽古に付き合わせた礼だ」

 人付き合いは好まないというフェリクスだが、意外と面倒見がいいところがある。あまり良い相手が務まらなかったため、はなんだか申し訳ない気持ちになってしまう。

「ありがとう、フェリクス」
「フン。さっさと行け、約束の時間に遅れるぞ」
「うん、じゃあまた」

 はフェリクスに手を振って、訓練場を後にする。そして、温室で待つドゥドゥーが「急ぐ必要はない」と、息を切らすに言ったのだった。







「ちょ、ちょっと待って……!」

 思わずそう制止をかけるほど、気迫に溢れた猛攻だった。ギラリと光る剣身の向こう、フェリクスの眼光もまた鋭く光っている。
 一撃一撃が重い。剣撃を受け止めるたび、腕が痺れるような感覚がする。いつもは手加減してくれていたのだろう。の言葉など聞こえていないというように、フェリクスがなおも攻め立ててくる。

「……っ」

 は大きく飛び退いて距離を取った。情けないが、この細腕ではそう何度もフェリクスの剣を受けきれない。
 フェリクスが逃がさないとばかりに踏み込んでくる。初撃を何とか躱し、は反撃を繰り出す。

「甘い!」

 フェリクスが素早く体勢を整え、の剣を弾く。剣が飛んでいくことはなかったが、その衝撃には思わず尻餅をついた。

「ふぇ、フェリクス~……」

 痛むお尻を押さえながら、は涙目でフェリクスを見上げた。

「待って、って言ったのに」
「戦場でそんな言葉が通じるわけないだろう」

 フェリクスが呆れたように肩をすくめる。それでも手を差し出してくれるあたり、少しくらいは申し訳なく思ってくれているのかもしれない。は素直にその手を取って、立ち上がる。
 薄々思ってはいたのだが、べレト先生が来てからというものフェリクスの剣の腕はめきめきと上がっている。

「ここは戦場じゃないし、わたしたちは敵でもないでしょ」

 は唇を尖らせながら答える。フェリクスが眉を顰めた。

「チッ、口の減らん奴だ」
「舌打ちしないでよ」

 もまた眉を顰め、フェリクスを咎めるように見る。説教など不要だと言わんばかりに思い切り顔を背けられ、はむっとさらに眉根を寄せた。
 互いに背を向けたまま、剣をしまう。

 フェリクスのこの苛烈さの原因を、は知っている。
 ──ただ、知っているだけだ。
 先日、ロドリグの姿を大修道院で見かけた。フェリクスの実父だというのに、彼は顔を合わせようともしない上、自分は出かけたとべレト先生に伝えるように頼む始末である。

「……」

 ちら、と覗き見たフェリクスの顔は、いつもに増して不機嫌そうだ。
 苛立ちをぶつけられても、それを責めることも憚られ、言及することができない。同じ学級に所属しているとはいえ、とフェリクスは特別親しい間柄ではない。幼少期のことを知るわけでもない。ロドリグとフェリクスの確執の要因となった、彼の兄を知ってすらいない。

 幼馴染──フェリクスはその関係を煩わしがっているようだが、にとっては羨ましいことこの上ない。

 踏み込めないのは、臆病だからだ。フェリクスに嫌われたくないから、口を噤む他ないのだ。
 は目を伏せる。腕が痺れて痛んだ。

「おい、今日は用事とやらはないのか」

 そう言ってを見るフェリクスの瞳は、好戦的だ。「今日はもう無理よ」と、は慌てて首を横に振った。フェリクスがもう一度舌打ちする。

「今日っていうか、今後も無理かも……」
「なんだと?」
「だって、わたしなんかもう歯が立たないし、つまらないでしょ?」

 自分で言っておいて何だが、は悲しい気持ちになって苦笑をこぼす。

「じゃあ、俺の相手なんてどうだ? 剣の扱いはそれほど得意じゃなくてね、俺なんて丁度いいんじゃないか」

 とフェリクスはほぼ同時に声の方向を振り向いた。
 は眉尻を下げ、フェリクスが眉を跳ねあげた。

「クロードくん……」
「ずいぶん余所余所しいじゃないか、。ジュディットもよろしくしてくれ、って言ってただろ?」
「それは、あの、社交辞令っていうか」

 クロードに馴れ馴れしく肩を抱かれ、は身を強張らせる。

「勝手にしろ」

 は助けを求めるようにフェリクスを見るが、さっと視線を逸らされる。フン、と軽く鼻を鳴らして、フェリクスが踵を返した。
 追いすがるの視線など綺麗さっぱり無視されてしまった。

「あらら、行っちゃったな」
「も、もうっ、離れて!」
「はいはい」

 案外すんなりと身を離してくれたので、はほっと息を吐いた。「追いかけなくていいの?」と、ニヤニヤしながら聞いてくるあたり、人が悪い。

「フェリクスは、わたしのことなんてどうでもいいのよ」
「俺にはそうは見えなかったけどねぇ」

 クロードが軽く肩をすくめる。ではいったい、どう見えたというのだろう。
 は窺うようにクロードを見つめるが、彼の考えなど読めるわけがなかった。

「まあいいや。暇なとき、剣の相手してくれよ」
「わたし、あんまり暇じゃないわ」
「へえ? あいつとはしょっちゅう、一緒に訓練してるのに?」
「……だって、フェリクスだもの」

 ふいっとは顔を背けた。
 フェリクスに誘われたなら、無理に時間を作ってでも剣の相手をした。フェリクスの剣技をすぐそばで見られることが、幸せで堪らなかったのだ。

「つれないね。同じ諸侯同盟の生まれだろ? 仲良くしようぜ」
「諸侯同盟にいたときのことはほとんど覚えてないし、いまはファーガスの人間よ」

 はすげなく返すが、クロードがめげる様子はない。
 
「ダフネルの烈女に憧れて、女剣士になりたいんだってな。ジュディットの話、聞かせてやろうか?」
「……クロードくん、ずるいわ」
「いやいや、賢いと言ってほしいね。何なら、金鹿の学級にだって歓迎するよ」

 ファーガスは崇高な騎士の国だが、は騎士を目指してはいない。クロードの言う通り、ジュディットに憧れを抱いているとはいえ、に学級を移る気はさらさらない。
 首を横に振りながら、口を開きかけた瞬間に、訓練場の扉が勢いよく開け放たれる。
 驚いて、は口を半端に開いたまま、そちらを振り返った。つい先刻出て行ったばかりのフェリクスが、ツカツカと歩み寄ってくる。

「いつまでくだらん戯言に付き合うつもりだ」
「え?」

 フェリクスに腕を掴まれる。わけがわからないまま、そのまま腕を引かれて連れて行かれる。振り返ると、見送るクロードのやけににこやかな笑みが見えた。



 腕を掴むフェリクスの力が痛くて、は顔を歪める。おまけに、歩幅を少しも配慮してくれないせいで、は小走りになるし何度も躓きかけてしまう。
 目の前にある背中から、機嫌の悪さが滲み出ているようだった。

「フェリクス、」

 いくら声をかけても立ち止まらないし、フェリクスから返事は一つもない。

「どこに行くの? ねえ、フェリクス、ちょっと待って」

 ようやくフェリクスが足を止めた。
 安堵の息を吐く間もなく、ふいに視界がぶれて背中に衝撃が走る。壁際に追い詰められたは、まるで肉食獣を前にした小動物の気分だった。

 押しつけられた手首は、骨が軋むほどの強さで握られている気がするくらいに痛む。は涙目でフェリクスを見つめた。

「痛いわ……」

 フェリクスが鋭く息を呑んで、手の力を緩める。しかし、手首を解放することはなく、は壁に縫いつけられたままだ。フェリクスの眉間の皺は深い。しかし、不思議とその顔は怒っているようには見えなかった。
 まるで、よりもずっとフェリクスのほうが苦痛を感じているようだった。

「……学級を移るのか」

 絞り出すような声で、フェリクスが問う。「まさか」とは慌てて首を横に振った。

「えっ、もしかして、さっきの話聞こえて──

 ふつりと言葉が途切れる。
 フェリクスの腕が背に回って、の視界は彼の服で埋め尽くされる。「確かにお前は弱い。それでも、俺はお前を稽古に誘うぞ」ぼそりと耳元に声が落ちる。

「意味がわかるな」

 フェリクスに顔を覗き込まれるが、は視線を上げることができなかった。はあ、とため息を吐いたフェリクスが、指先で顎をすくった。

「気安く触らせてくれるな」

 フェリクスの手が、先程クロードが触れた肩を払った。「勝手にしろって言ったくせに」と、は小さく言って唇を尖らせる。

「フェリクスこそ、ちゃんとわたしのこと守ってくれなきゃ」

 か弱いんだから、と言えば、フェリクスが呆れたようにもう一度ため息を吐いた。

(それでもあなたに近づきたい)