コト、と小さく音が鳴って、それが終了の合図となった。は眉を寄せて唸ったが、逡巡ののちに頭を下げて投了した。
先ほどまでチェスを動かしていた細長い指が、優雅な仕草でティーカップを持ち上げた。はその様子をぼうっと見つめて、彼の指先が戦う者のそれだと気づく。貴族だなんだと語るヴィオールもまた、弓を持つ英雄だ。
「見惚れたかい?」
はっと息を呑んだときには、そのティーカップがソーサーに戻されていた。ヴィオールが満足気に笑んで、長い足を組む。つくづく思うが、彼らは総じてスタイルがいい。“英雄”に選ばれるほどだから、いくつも秀でていても当然かもしれない、とは頭の片隅で考える。
曖昧に笑って、もまた少し冷めた紅茶に口をつけた。
ヴィオールと何度かチェスで勝負しているが、残念ながらまだ一度も勝てたためしがない。自分よりも、彼に指揮を任せた方がいいのではないだろうか、とは薄々思い始めている。
ちら、と視線を向けると、にこりとヴィオールが微笑んだ。
「君は、私の知っている軍師と少し似ているね」
「え……」
「犠牲を払わない戦い方がね。ふふ……いずれは、君も私を打ち負かすのかな?」
は基盤に残る駒に視線を落とす。
──この駒は、ヴィオールたち英雄そのものだ。犠牲になんて、できない。
無意識に唇を噛みしめる。これはただのチェスだとわかっているのに、どうしても実際の戦いが頭を過ぎって、を焦らせる。彼らは死なないけれど痛みはあるのだと、アンナが言っていた。
それを聞いて、はぞっとしたのだ。自分の間違いが彼らを傷つける。それが怖い。
「私は好きだよ」
ヴィオールの言葉に、は顔を上げた。きょとんと瞳を瞬かせる。
「君のそういう戦い方が、好ましい。勿論、甘いと思うこともあるし、愚策も多い。けれどね、それこそが君の美徳なのだよ」
じっと見つめられて、は慌てて顔を伏せた。ヴィオールの美辞麗句は心臓にわるい。頬のほてりを感じていると、ふいにひやっとした手のひらが触れた。はその手を跳ね除けることもできずに、身体を強張らせて、そろりと視線を上げた。
「君にひとつ、忠告しておこう」
「忠告……」
「いかに貴族的で紳士だろうと、男は皆オオカミなのだよ」
「えっ? え? ど、どういう意味ですか?」
ヴィオールが目を細める。頬に触れる指先が輪郭をなぞって、唇に触れる。
「こんなに可愛らしい顔を、容易に見せてはいけないよ」
チェックメイト、との内心で声が響いた。