積み上げていた戦術書が崩れ落ちて、は慌てた。静かな書庫にはほとんど人気がないとわかっていても、派手な音を立ててしまって恥ずかしい気持ちになる。そして、借り物の本に傷がついてはいないかと動揺しながら、は分厚い本を拾い上げた。
ふいにすらりと長い指先が伸びて、素早く本を拾う。机に重ねられた本はすこしのズレもなく、きっちりと完璧に整えられている。対して、が拾って机に置いたほうはあまりに乱雑だった。
「ツバキさん、いらっしゃったんですか?」
は気後れしたような気持ちで、綺麗な手の持ち主を見上げた。
まるでクリーニングからおろし立てのような服の襟元を、ひとつも痛んだところなどない艶やかな髪がさらりと滑る。手と同じようにすべてが美しく手入れされているツバキが、何気なく乱雑に散らばる本を整頓してくれる。
「うん。時間があるときは、調べ物させてもらってるんだー。まだ俺の知らないことは沢山あるみたいだしね」
サクラ様がいつ来てもいいように、とツバキが柔らかく目を細める。
自他共に認める完璧さは、紛れもなくこの惜しみない努力によって培われているのだ。
「は、結構ここに籠ってるよねー」
「え? あ、そう……かもしれません。だって、もっと勉強しないと」
「でもさ、根詰めすぎてないー?」
距離を詰めて顔を覗き込まれ、は身を強張らせた。端正な顔立ちが間近に迫り、途端に緊張してしまう。
すい、とツバキの指先がの目元をなぞる。
「隈ができてる」
ぽつり、と落ちたツバキの声は、明るさを潜めていてどこか悲しげだった。
身だしなみや健康にも気を遣っているツバキから見て、もしや自分はあまりにみすぼらしいのではないか。ははっとして、慌てて身を引く。ガタガタと椅子にぶつかって、本を落としたときよりもずっとけたたましく音を立ててしまう。
ツバキに触れられた目元に指を添えてみるも、どれほどひどい隈なのかは見当もつかなかった。
「は頑張っているよね。いつも見回りをして英雄を気にかけて、寝る間も惜しんで勉強に励んで、それに──」
ツバキが口を閉じて、瞼を中ほどまで下ろした。長い睫毛が瞳を隠す。
それに、の続きを、は固唾を飲んで待つ。
おもむろに再び距離を詰められて、ツバキの手がの肩に置かれる。掴むほどの力はこもっていなかった。ただ撫でるような優しさをもって、肩に重みとぬくもりを感じる。
この綺麗な手は、ひとたび戦場に出れば槍を握る。の何もできないような、やわな手とは違う。
「……君は、戦うことを恐れて誰かが傷つくことに怯えて、震えながらも戦場に立ってる」
はツバキを見上げていた視線を足元に落とした。逃れるように、慄くように、足が半歩後ろに下がるけれど、肩に置かれた手がの動きを制した。
「君は、完璧でなくたっていいんだからね。俺みたいにしてると、きっと疲れちゃうからさ」
「だめです!」
は反射的に声を荒げていた。思わず、肩に触れる手を乱暴に払う。
「だって、あなたたちは、命を失わなくたって痛みを感じるじゃないですか……!」
は自分が未熟であることを知っている。完璧には程遠い。これまで何度も悪手を取ってしまったり、迷ったり躊躇ったり、その度に英雄たちは怪我をして──
じわ、と涙が滲んで、は顔を伏せる。
「わたしは、失敗ばかりで……」
「」
名を呼ばれても顔を上げることができず、は睨むように自分のつま先を見つめる。
「もっと肩の力を抜いてほしいと思っただけなんだよー。ごめんねー、泣かないで」
ふにゃりと力が抜けたような、いつもの間延びした口調がツバキに戻ってくる。
自然な仕草で目元に伸びた指が、そうっと涙を拭った。
それでも顔を上げられずにいれば、ツバキの手が両頬を包んで、の顔を持ち上げた。先ほどよりも近い距離で顔を覗き込まれるが、不思議と今度は緊張を覚えなかった。
「大丈夫だよー。もし失敗しても、みんなで支え合えばいいんだから。はひとりで戦っているんじゃないでしょー?」
涙で滲んだ視界の向こう、ツバキが晴れやかに笑った。
「俺もいるんだから、ちゃんと頼りにしてよ」