顎先から首筋へと幾筋もの汗が伝い落ちていく。はあはあと肩を上下させて大きく息をしても、苦しいばかりだった。動悸は治まらず、わき腹が引きつるように痛い。
崩れるように床に座り込んで、はタオルで汗を拭う。
運動は得意ではない。かと言って、誇れるほど勉強ができたわけでもなかった。
すこし走っただけでこの有り様である。体力をつけたほうがいい、と助言をくれて同じ距離を走ってくれたギュンターの額には滲む程度の汗しかなく、息に至っては一つも切れていない。
思わず、ギュンターの年齢詐称を疑ったが、きちんと年を重ねた証拠として肌には皺が刻まれている。
「大丈夫ですかな?」
ようやく呼吸が落ち着いてきた頃合いで、ギュンターが声をかけてくれる。
英雄と呼ばれる彼らは、その名に驕ることなく、日々切磋琢磨している。この老練の騎士もまた、訓練を怠らずに、今なお一線で斧を振るっているのだ。
「は、はい。みっともないところを見せてしまって、すみません」
「思った以上に体力のないお方だ。だが、こうして走りきったことはお見事ですぞ」
を立ち上がらせてくれる手のひらは、大きくて分厚い。「久しぶりにこんなに走りました」と、眉毛を下げて言えば、ギュンターが目尻の皺を深めて笑った。
目元から顎にかけて大きな傷跡が走るその顔は貫禄に溢れており、ともすれば恐縮してしまいそうになるのだが、その眼差しは子や孫を見るようにやさしいことをは知っている。幼い頃より面倒を見てきたという主に対して語るとき、その眼差しはより一層やさしく、愛情に満ちる。
もしかしたら、ここにはいないその主とを、重ねて見ているのかもしれなかった。戦いとは縁遠く育ってきたという点は、すくなくとも同じである。
「でも、ギュンターさんのおかげでいい気分転換になりました」
最近は書庫に籠ってばかりで、身体を動かすことはおろか、陽の光に当たることすらも忘れてしまっていたようだった。ぐっと腕を伸ばして背を反らすと、久しぶりに筋肉が伸びてほぐれていくような心地がする。
「それは良かった。たまには老いぼれの言葉にも耳に貸していただけると嬉しいですな」
「お、老いぼれだなんて!」
はぎょっとする。
むしろ、その経験豊富さに助けられているのだ。ギュンターを尊敬こそすれ、年寄りと軽んじることなどないは、慌ててその言葉を否定する。
「殿は一生懸命が過ぎますな。己の未熟さを知ることはよいことです。だが、そればかりに囚われてはいけませんぞ」
諭すような言葉は、確かな重みをもっていた。きっとどれだけ繕ったとしても、の弱い部分などお見通しなのだ。気が急いてばかりいるということに、は気づいていながらもどうすることもできなかった。エンブラ帝国との戦いは、どれだけ願っても止まってはくれない。
よりもずっと長く生きている彼は、何度も苦汁をなめてきたに違いない。そして、と同じような経験をしたことも、もしくはそのように焦るばかりの若者を見たこともあるだろう。
ふ、とやさしく目尻を細めて、ギュンターが笑む。
「さあ、このギュンターめが紅茶でも用意しましょう。今日はきっとよく寝られるに違いませんな」
はっとして、はいつぞや誰かにも指摘された隈を、指先で隠す。
彼が淹れる紅茶は鋼の味がするのだろうと予想がついたが、それでもはギュンターの厚意を無下にすることなどできなかった。