並ぶ文字列を指でなぞらえて、は小さくため息をついた。
お下がりとなってしまうのですが、と申し訳なさそうに眉尻を下げたルセアから譲り受けた魔道書は、確かに汚れていたり破れたところもあるがまだ使えうる。
なくしてはいけないものは多くあったはずだった。もしかしたら、奪われてしまったのかもしれないし、捨ててしまったのかもしれない。祈りの言葉がひどく無機質に聞こえる。命の尊さなんて語れるわけもない。助けてと縋る手を幾度となく振り払い、そうして恐ろしいほど冷静な頭で「ああもう、このひとは助からない」と考えるなんて、吐き気がする。
神様なんていない。
そう思ってしまった己には、シスターを名乗る資格などないとは思う。セーラの方がよほどシスターらしい。
人の命を救うことがこわい、他の誰かを救えないことがこわい、助けてと縋る目がこわい。すべてから目をそらして耳をふさいで、杖なんて投げ出してしまいたい。そうして、自分に価値がなくなることを恐れるから、は魔道書に手を伸ばす。
は自嘲に口元をゆがめた。なんて愚かしいのだろう。
「」
軽やかなボーイソプラノに顔をあげる。エルクが少しだけ神経質そうに眉をひそめて、綺麗な手がから魔道書を取り上げた。
はページをめくる細い指先を見つめる。
「どうしてこんなものを?」
呆れた声色はまるで責めるようで、は思わず目を逸らした。しかし、存外物言いはやわらかく決して冷たくはない。「きみには必要ないだろ」小さなため息とともに、静かに本が閉じられた。
、と名を呼ばれて視線をあげれば、エルクがセーラに説教をするときのような顔をしている。
魔道書がそっけなく返され、はなんとなしに破れた個所を指で撫ぜる。杖を掲げれば元通り、などとは決してゆかない。
「……」
「には、合わないと思うよ」
「え……」
はかすかに顔をゆがめ、エルクを見た。エルクがひどく静かな所作で椅子に腰かける。
「きみさ、人を殺したいのか?」
ずん、と胸が重くなった気がした。
は目を伏せ、ゆっくりと息を吐き出す。苦しくて呼吸がしづらい。膝の上でぎゅっとこぶしを握りしめる。
「わたしは、わたしが救った命の何倍ものひとを、見殺しにしてきたんです」
ねえ、とは小さくつぶやく。
「わたしがシスターだなんて、ゆるされると思いますか?」
思わず笑いがこみあげて、小さくふきだす。エルクが不愉快そうに眉をひそめるが、は笑みを崩さない。おかしくて堪らないのだ。
「神様を信じないシスターなんて、シスターじゃないでしょう?」
「……、」
「神様なんかいないんです。いないから、こんな戦争が起こるんです! 多くのひとが亡くなるんです!」
は音を立てて席を立つ。ばん、と両の手がテーブルを叩いて揺らした。じわりと視界が滲む。
唇をかみしめて、こみ上げる嗚咽を必死に飲み込む。
「そうでしょう、エルクさん。どれだけ祈ったって、どうにもならないんです」
一体どれだけの祈りを捧げただろう。一日も欠かしたことはなかったし、それを苦と思ったこともなかったが、この戦争が始まってからというもの祈りの無意味さに気づいてしまった。
神様がいるならば、それは犠牲を最小限にとどめる軍師だ。
「神様なんて、いません……!」
がたん、と椅子が倒れる。
頬を伝い落ちた涙が、ぽたぽたとエルクの肩口に沁みこまれていく。「もういい、わかったよ」やわらかい声が耳元に落ちる。
「エル、クさ……」
ぎゅう、ときつく抱きしめられて、息が詰まる。
「ごめん」
「どうして、エルクさんが謝るんですか」
「ひどいことを言ったろ」
「…いいえ、」
エルクとひどく近い位置で視線が交わる。細い指先がの涙をやさしく拭った。
「わがままなだけなんです。わたしは、ただ逃げ出しただけです」
自分一人だけが辛いわけではないことぐらいわかっている。皆が同じように苦悩し、それでも前に進んでいるのだと、理解している。
本当はきっと、魔道書で誰かの命を奪うことなんて、できやしないのだ。
「情けないですよね」
は自嘲の笑みを浮かべる。なんて弱いのだろう。
エルクの手のひらが左頬を包み込む。伝わる体温に、はそっと目を瞑った。
「きみは一人じゃない」
「……」
「きみの辛さも分け合えるはずだ、」
不意に、再びエルクに抱きすくめられる。囁くような声が耳に触れた。
「僕にきみを支えさせてくれないか?」
はエルクの匂いにぬくもりに包まれながら、小さくうなずいて、そうして彼の背へと手を回した。じんわりと胸が暖かくなって、鼓動がはやくなる。エルクの鼓動も同様に、はやいのかもれなかった。
「、僕はきみのことが──」
続いた言葉が頬をあつくさせて、は見られないようにとエルクの胸に顔をうずめた。「わたしもです」と返した言葉は小さすぎて、エルクの耳に届いたかわからない。