昔話をしようか、とゼロが言ったのは、イズモ公国でカムイと会いまみえてからというもの、レオンの見ていないところでずいぶんと気落ちするの姿を見かねてだった。が不思議そうな顔でゼロを見上げる。

「ちょっとした退屈しのぎに、ね。もっとべつのイイコトがお望みなら……」

 そう囁いて、ゼロはの顎に指をかけるが、にべもなく振り払われる。「つれないねぇ」と、いつもの決まり文句を言って、ゼロは低く笑った。不愉快そうに眉をひそめたが、ちいさくため息をついた。一瞬だけ、ひどく傷ついたような顔をして、すぐにが眉尻を下げて笑った。

「じゃあ、お茶でも淹れるね。今日は特別よ」

 の紅茶や珈琲は、普段はレオンのためにしか淹れられない。ゼロは気を良くして、勝手知ったるの部屋へと向かう。「オーディンも誘う?」というすこしだけ楽し気な声を、ゼロは黙殺した。
 一介のメイドであるだが、専属としてレオンの部屋のちかくに一室を与えられている。

 相変わらず、綺麗に片づけられている。ゼロは軽く室内を見回してから、椅子へと腰を下ろした。ほどなくして、がワゴンを押して部屋に入ってくる。

「お待たせ」
「ああ。それにしても、相変わらずつまらん部屋だな。俺色に染めてやろうか?」
「遠慮するわ」

 が小さく首をすくめる。慣れた手つきで紅茶を淹れて、ゼロにカップを差し出してくれる。ご丁寧にも、茶菓子も用意している。

「それで、昔話って?」

 が首をかしげてゼロを見た。丸い瞳にゼロの姿が映っている。いつも、レオンばかりを見つめる瞳に、自分の姿が映りこんでいることがゼロに愉悦を与えた。「そう、急かすなよ……」ゼロは、淹れたての紅茶に息を吹きかけ、一口含む。
 がじっとその様子を見ているので、「いつもながらうまい」と感想を告げる。が顔をほころばせた。

 ゼロはなんともなしに、その頬に指で触れた。が警戒して身体を強張らせたのがわかった。する、と輪郭をなぞるように指を添わせる

「俺がどんなところで育ってきたかは知っているな?」

 がすこしだけ表情を強張らせる。言葉はなく、ただ頷きがひとつ返ってくる。
 自ら進んで話したわけではない。ゼロがオーディンにしたように、も素性の知れない奴について調べただけかもしれないし、レオンの口から何かを聞いているのかもしれないが、いまはそんなことはどうでもいい。対して覚えてもいなければ、思い出したくもない過去について語るつもりなどない。

「フ……そんな顔をされると、たまらないな。おっと」

 重くなりかけた雰囲気を消散させるためにも軽口を叩けば、がゼロの手を乱暴に振り払った。ゼロは軽く首をすくめておどけて見せる。

「まあ、そんなことはどうでもいい」
「……」
「レオン様との出会いがあんまり強烈で……いま思い出しても、身体が震えちまうね」

 の訝しむ視線をものともせず、ゼロはうっとりと目を閉じた。その当時の光景を思い起こせば、もちろんそこにはの姿もある──





 周囲にはなんの気配も感じられなかった。
 ゼロはすぐにその状況を理解したが、どうすることもできなかった。月明かりもないインクで塗りつぶされたような暗闇の中、薄ぼんやりとした橙色がゼロの姿を浮かび上がらせた。逃げなくては、と考える自分と、もう無駄だと諦める自分が、そのときのゼロにはいた。

 ランタンを持って現れたのが年若いメイドだと知り、ゼロは無意識に安堵していた。
 メイド程度ならばなんとかなるかもしれない。そう思ったからだが、そのメイドにはすこしも隙がなかった。足音をほとんど立てずに近づいてくるメイドが、ただのメイドではないと悟るのにそう時間はかからなかった。のちに、ゼロは暗夜王国に仕えるメイドや執事が、本来の仕事の枠を超えた戦闘および斥候能力を有していることを知るのだが、この頃はなにも知る由もなかった。

 王城に入り込んだ賊にすこしも物怖じしていなければ、まっすぐと見据えて近づいてくるメイドに、違和感を覚えないほうがおかしい。その手にランタンだけではなく暗器が握られていることに気づいて、ゼロは目を瞠った。

「おひとりですか?」

 メイドが首をかしげる。
 まるで、カフェかどこかで客の人数を確認するような、緊張感に欠けた声音だった。ゼロは唖然として、ただメイドを見つめる。子どもと言っても差し支えないような、ずいぶんと幼い顔立ちだ。

、いたのか」

 ふいに、静かなボーイソプラノが響いた。メイドが振り向く。

「レオン様。どうやら、囮にされてしまったようです」
「ふぅん……」

 さほど興味がないと言ったようなつぶやきとともに、メイドの背後から少年が現れる。そして、その冷たい目でゼロを見下ろす。ぞくぞくするほど冷ややかな視線だった。ゼロはうなだれたまま、視線だけで少年を見やった。「ふん、王城に忍び込むなんてね。塵になるがいい」と、どこまでも冷たい声で告げた少年は本を開いたようだった。
 ぽう、と開いた本から光が漏れ出て、それが魔導書であるとゼロは思い至った。

 しかし、ゼロにはすでに逃げようだなんて考えは、とっくのとうに消え失せていた。「レオン様……」と、すこしだけ不安そうなメイドの声が聞こえたが、顔を上げる気にもならなかった。


「……なぜ抵抗しない?」

 少年が不思議そうにつぶやいた。
 ゼロはうつむかせていた顔を上げ、しっかりと少年の顔を見た。ずいぶんと小奇麗な顔をしている。そして、身なりは上等そうだ。常であれば、御託をべらべらと並べ立てたかもしれないが、ゼロは唇を結んだまま少年を見つめる。

 育ってきた環境も住んでいるところも、あまりに違いすぎる。そして、少年には絶対に裏切らないだろう存在が、傍にいる。それを羨む気持ちが、ゼロの心の奥で首をもたげるようだった。

「レオン様、彼には敵意が感じられません」

 痛ましそうな顔をして、メイドがゼロをかばうようにして目の前に立った。少年がため息をついて、魔導書を閉じた。光が消える。

「命乞いしない人間なんて、はじめて見たよ。おまえ、名前はなんていうんだ?」
「…………」

 ゼロははじめ、少年が自分に話しかけているとは夢にも思わなかった。まして、いまにも塵にせんとしていたやつが、名前を尋ねてくるなどとは考えようもない。

「盗賊、お前の名は?」

 少年が口角を上げる。ゼロははっとして「ゼロ、です」と答えた。
 メイドと二、三言葉を交わして、少年が踵を返した。高貴な身分であるのは目に見えて明らかだったが、その少年が暗夜王国の第二王子レオンだと知り、ゼロはいまさら緊張だとかで気分を高揚させた。

「レオン様があなたを召し仕えたいそうですよ」

 メイドの言葉に、鳩が豆鉄砲を食ったように、ゼロは目を開いて固まる。「なんでまた、」とこぼれ落ちたつぶやきを拾って、メイドが微笑んだ。「レオン様は、お優しい方ですから」と、そう言うメイドの顔は、主へ絶対の信頼を寄せていることをゼロに確信させた。
 メイドの名前は──ランタンの橙色に浮かび上がるその微笑みはどこか神秘的で、まるで女神のようにゼロの目に映ったのだった。



「そういや、出会った頃のおまえは……少年のようだったな。レオン様のほうがよっぽど女みたい……おっと、レオン様に聞かれたら大目玉だ」

 がはっと小さく息をのんで、気まずそうに目を逸らした。その反応を見て、ゼロはにやと唇を歪めた。
 ぽつりぽつりと話すうちに、すっかり紅茶はぬるくなっていた。ゼロの話に耳を傾けていたが、紅茶を淹れようとしてくれるが、ゼロはそれを断った。

「眠れなくなったら、困るだろう? まあ、俺は夜通しといてもいいんだが……」

 すい、と顎をすくい上げて、目を合わせる。珍しく、がされるがままになっており、手痛い仕返しはないようだ。ゼロは拍子抜けして、目を瞬く。

「……ゼロ、」

 おもむろに動くの唇を、ゼロは見つめる。薄桃色に色づくぷくりとした唇は、厚すぎず薄すぎず、魅惑的である。

「わたしの昔話もしようか」

 ゼロは反射的に眉をひそめる。レオンの臣下として共に過ごした時間は長いが、もゼロも互いのことを話すような性質ではない。加えて、新たな臣下であるオーディンも自身についてははぐらかしてばかりであり、同じレオンの臣下でありながら自分たちはあまり相手を知っていない。
 もっとも、ゼロには語れるような過去は持ち合わせていないのだが──と考えたところで、が唇を震わせて細く息を吐きだした。

「別に、知りたくないね」

 咄嗟に言葉が口をついて出る。言いたくないのなら、言わずとも構わない。
 ゼロはすでにを信頼している。レオンを裏切るような真似などしないことを知っている。それだけで十分だ、どういった過去をもつかは、もう重要ではなくなっている。

 が力なく微笑んだ。「ゼロは、やさしいね」そう言うにはきっと、ゼロがあえてこうして話をする時間を作ったのだとバレている。

「そういうところ、ほんと、……」

 きゅっと切なげに眉根が寄せられる。ゼロは自分から視線を合わせたのにもかかわらず、目を逸らしてしまった。

「知り尽くしたらつまらないだろう? 女は、秘密が多いほうが魅力的だぜ」

 取り繕うように言葉を並べるが、どうにも陳腐に響いてならない。
 ゼロは無造作に髪を掻いた。「、あまりいやらしい顔をされると、ほんとうに今夜は寝かせないぜ?」ゼロはからかい半分、本音半分で、に囁いた。しかし、の反応が鈍いので、さらに調子が狂ってしまう。

 ゼロはちいさくため息をついて、の顔を覗き込んだ。すこしだけ伏し目がちの瞳に、長い睫毛がかかっている。薄い膜が張るように、の瞳に涙がにじんでいることにゼロは気づいた。

「……レオン様に言えないことがあるなら、俺が聞いてやろうか」

 の瞳が揺れる。ゼロは不自然にならないように気をつけながら、をそっと抱きしめた。いつもならば、すぐに突き飛ばしたり、あげくに鳩尾に蹴りだの肘鉄砲だのを食らわせたりするだが、頼りなくゼロの外套を掴んだだけだった。
 ゼロはにそういったことはしないと決めている。
 同僚に手を出すほど落ちぶれていない、とゼロは思っているが、それもいつまでもつかこのときばかりは不安になった。己の腕の中で大人しいに対して、くすぶる感情が燃え上がりそうだ。

「わたし、昔、半年ほどカムイ様にお仕えしていたの」

 回した腕に力を込めそうになったところで、がポツリと口を開いた。

「……心のどこかで、カムイ様を信じてる自分がいる。レオン様のお気持ちをわかっているのに、カムイ様を裏切り者と憎めない。いまのわたしの主は、レオン様なのに、わたしは…………」

 じんわりと胸があたたかく湿ってくるのをゼロは感じた。「ジョーカー様みたいになりたいのに」と、ちいさく、自分を責めるようにがつぶやいた。ジョーカー、という名に、ゼロはあまりピンとこなかった。
 ゼロはぽん、との頭を軽く叩く。

「ゼロ、ごめん。すこしだけ、こうしていて……」

 がゼロの胸に顔を押しつける。なにも言わぬまま、ゼロはの髪をやさしく梳いて、背中を撫でてやる。
 詳しい話を聞かなくとも、が貴族の出であることはその振る舞いなどからわかる。それでも、ゼロのことを貶したり、嘲ることもない。なんの苦労も知らないのだろう、と思って嫌味や嫌がらせのような真似をしたこともあったが、もうそのような関係ではない。の苦しむ顔を見たって、胸が躍るようなことはないのだ。

「ゼロ、ありがとう」

 こうやって、信頼に満ちた響きをもった言葉をもらうほうが、よほど悦びに胸が打ち震えるというものだ。ゼロは褒美とばかりにのこめかみに口づけるが、今日ばかりはやはり大人しいようで、腕の中のはすこし身じろぎするだけだ。
 ふ、とゼロは満足に笑いを漏らした。

「今夜のことは、俺とだけの秘密だぜ……」

 がちいさく笑って頷いた。

ひそやかなひめごと

(レオン様にさえ秘密、っていうのが最高だ)