「暗器の扱いがお上手ですね」
軽く目を見開いて、感心したように言われたが、ちっともうれしくなかった。おそらく、そう褒める彼のほうこそ、よほど暗器の扱いに長けていることを知っているからだろう。はあいまいに笑って、そんな心の内を悟られぬように軽く会釈をするのみに留める。
白夜王国の忍であるスズカゼのことを、は実は苦手に思っていた。
ジョーカーやフェリシアと同じく、カムイを主として忠誠を誓うスズカゼだが、なぜそう至ったのかは詳しく知らない。ただ、リンカとともにガロンに殺されかけたところにカムイが情けをかけたこと、そしての主であるレオンが機転を利かせてその命を救ったことは、その目で見て知っている。
なおも、スズカゼが動く気配がないことに気がついて、は居心地の悪さにたじろいでしまう。的に見立てた木に暗器を放っていたが、はちいさく息を吐いて手を下ろす。
「あの、」
「はい、なんでしょう」
「そんなに見ても面白くないと思います。それに、スズカゼさんにしてみれば、だいぶ拙いですよね」
は自分で言っていて、情けないような切ないような気持ちになってくる。幹に突き刺さった暗器を抜いて、仕舞う。振り返って見たスズカゼの顔は、いつもと変わらぬ真面目な表情で、なにを考えているのかよくわからない。
思いのほか、深く刺さってしまった暗器が上手く抜けずに苦戦していると、気配なく近づいてきたスズカゼが容易く抜いて手渡してくれる。は思わず、礼を言うことも忘れてスズカゼの顔を見上げた。
ひやりとしたつめたいものが背筋を伝うような、そんな感覚を覚えてしまった。
スズカゼのことを信頼していない、などというわけではない。しかし、自分よりも手練れの者が、気配なく背後に立ったとなれば、身の危険を覚えても仕方がないことである。
「すみません、驚かせてしまいましたか?」
その端正な顔が申し訳なさそうに歪んだとき、はようやくはっとする。
「あ……い、いいえ、すみません。ありがとうございます」
は慌てて頭を下げる。
すべての暗器をその身に収め、は改めてスズカゼに向き直った。涼やかな目元は、やわらかな光を宿すようなやさしさをもって、を見つめている。近くで視線を合わせて初めて、その瞳が髪色と同じく、萌黄のような新緑色をしていることに気づいた。
「拙い、と言えばそうかもしれませんが、戦いはあなたの本来の仕事ではないでしょう」
メイドが白夜における女中という認識であれば、それは間違いではない。しかし、ジョーカー然りフェリシア然り、暗夜の使用人は炊事や洗濯などに留まらず主人に仕えるのだ。は先にしたように、あいまいに笑った。こればかりはなんと答えていいのかわからない。
「私はあなたがこうして努力する姿を見ていましたが、その度になんて似つかわしくない、と思っていました」
「え……?」
「ジョーカーさんの指導を受ける姿など、あまりに手酷く……」
スズカゼが痛ましそうに顔を歪めた。たしかに、ジョーカーの稽古はすこしの容赦もなく、はいつも倒れそうなほどの疲労を覚えるし怪我も多い。
「み、見ていたんですか」
そうとはすこしも知らなかったは、見られていたこと自体とそのことに気づいていなかったことに、恥ずかしさを覚える。気まずさから目を逸らし、わずかに熱を持った頬を人差し指で掻く。
す、と自然な仕草でスズカゼの手が、の手に重なった。
は逸らしていた視線をぎこちなく、スズカゼの顔へと戻す。「あなたのこの手は、温かな家庭を築くのに相応しい」と、スズカゼが囁くような声量で独り言のようにぽつりと漏らす。温かな家庭、その言葉をゆっくりと脳内で咀嚼して、はそれまでと比にならないほどに顔を赤く染めた。
「な……!」
果たしてそれは遠回しのプロポーズなのだろうか、と一瞬考えて、そんなわけがないと慌ててかぶりを振る。
「作る料理はとても美味しいし、どんな汚れも真っ白に洗い上げ、埃ひとつなく掃除する──さんの手は、まるで魔法の手のようです」
スズカゼがくすりと笑う。
純粋に、家事の能力を褒めてくれているのだろうか。は窺うようにスズカゼを見上げた。やさしいまなざしに見返され、は視線をつま先へ落した。
「……わたしは、スズカゼさんが思っているような、家庭的な女ではありませんよ」
「そうでしょうか」
スズカゼが間髪入れずに問いかける。はつま先を見つめたまま、ふ、と口元をゆるめた。
暗夜王国は、その名のとおり、とても暗い。きっと、白夜王国とは天と地ほどの差があるのだろう。貧しい土地、心の荒んだ国民、奪い合いが日常のような──
はもうすでに、戦いの中に身を置きすぎている。今さら、どうやって温かな家庭を築けるのか、にはわからない。掃除をして洗濯をして、料理を作って夫の帰りを待つ。そんな自分はどうやったって想像できそうにもなかった。
「わたしはレオン様をお守りできればそれでいいんです。すこし、似てますよね。白夜の忍と」
「主に対する忠義は似ているかもしれませんね」
「それだけですか? わたしたちは、斥候だって、苦手ではありませんよ」
「……」
重ねられたままの手に、すこしだけ力が籠る。は苦笑いのように、下手くそな笑みを浮かべて、スズカゼを見やった。思いがけず高揚してしまった気持ちは、すでに治まっている。
「スズカゼさんはやさしいですね。こんなわたしのことも、気にかけてくれて……びっくりしました」
これはモテるはずだ。は内心で舌を巻く。
スズカゼがよく女性に声をかけられていたり、またよく女性たちが黄色い声をあげたりしていることを、は小耳にはさんだことがある。当の本人は、困惑しているとのことだが実際はどうなのだろう。自らの行いが呼んだ事態であるのは疑いようがない。
はそっとスズカゼの手をほどいて、ぎゅっとエプロンの裾を掴む。
「わたし、もう行きますね。そろそろレオン様が軍議からお戻りに……」
「さん」
「は、はい」
の言葉を遮るように名を呼ばれ、は思わず背筋を伸ばして返事をしてしまう。スズカゼの静かな声は、どうしてか耳に心地よい。
スズカゼが気配なく動く。はぎくりと身体を強張らせた。
耳に唇が触れて、そっと動くのがわかった。あまりにちいさな声はほとんど不明瞭だったが、吐息が吹き込まれる。
「……っ」
はぱっと身を離すと、耳を押さえてスズカゼを見た。「な、なに……」再び頬に熱が集まる。それは、頬だけにとどまらず、全身までもが熱くなったような気がした。
ふ、とスズカゼの唇が弧を描く。
その顔を見て、瞬きをした次には、スズカゼの姿はいなくなっていた。
「え……!」
は慌てふためきながら周囲を見回すが、さすがに忍が本気で気配を殺しては、見つけられない。真っ赤な顔のまま、は途方に暮れてため息をつく。
「なんだったの……?」
耳に残る唇と吐息の感触を振り払うべく、はぶんぶんとかぶりを振った。
レオンのために、いつものように紅茶を用意する。ふと、先日のスズカゼの言葉が思い出されて、は無意識のうちに眉をひそめた。「ああ、ありがとう」と、いつものようにレオンの言葉が返ってきて、ははっとする。
「レオン様」
「ん? なんだい」
「わたしは家庭的でしょうか?」
優雅な仕草でカップを手にしたレオンが、はたと動きを止める。「家庭的?」レオンの形の良い唇が、の言葉をオウム返しに呟く。
「まあ、そうだとは思うよ」
「……では、わたしに温かい家庭が築けると思いますか?」
レオンの柳眉が訝しげにひそめられる。絵になる仕草はそのままに、レオンがソーサーへカップを戻した。
じ、とレオンの瞳に見つめられ、は逃げ出したくなるような居心地の悪さを覚えるが、身じろぎせずにその視線を受ける。「ふーん」と、レオンが呟いて、口角を上げた。
「なに、結婚でもするの?」
「えっ!?」
「違うの? ま、相手もよるけど、が結婚するなら祝福するけど」
「し、しませんよ、結婚なんて!」
そんなふうにとられるとは予想外で、は慌てて首を横に振る。「そうなの? へえ」とレオンが興味を失ったように、視線をカップへと落としたので、は内心でほっとする。
「ならいい奥さんになれるんじゃない。少なくとも、僕はそう思うよ」
「……そ、そうでしょうか」
レオンがふいに視線を上げた。は思わず瞠目して、慌てて目を逸らしてしまう。
「も年頃だからね。そういう相手がいるなら、家庭に入ってもいいんじゃないか。なにも永遠に僕の世話をしろとは言わないよ」
は生涯レオンに仕える心づもりである。だからこそ、レオンの言葉には見限られてしまったような絶望と、それと同時に自分を気遣ってくれているという歓喜の心が胸中で渦巻いた。
「ええ! そんなことおっしゃらずに、お世話させてください……」
「……まあ、がしたいなら別にいいけど」
でも、とレオンが続ける。は首をかしげてレオンを見つめた。
「がなにを悩んでるのか知らないけど……結婚したって、僕の臣下であることには変わりないしね」
レオンの美しいかんばせが笑みに彩られる。
はその身に雷が落ちたような衝撃を覚え、心の中にかかっていた靄が晴れ渡っていく気がした。思わず感動で瞳を潤ませると「なに泣いてるのさ」と、すかさずレオンが冷ややかな視線をくれる。
「い、いいえ、ずっとレオン様の臣下でいさせてくださいね」
はごまかすように笑って、レオンに紅茶を勧めた。
気配が読めないということはこんなにも厄介なことなのか。
ふいに触れた体温に驚く間もなく、手のひらで塞がれた唇からは悲鳴の名残りとして声になりきれなかった吐息が、その長い指の隙間を縫って漏れる。「すみません」と低く落ちた声はたしかに謝罪の言葉であるというのに、すこしも反省の色を持たずに、後ろから回された腕にわずかな力が籠る。
わざとこうして気配を殺して現れ、わざと後ろから抱きつき、わざと耳元で囁くのか。はすこしだけ首を巡らせる。近い位置でスズカゼの瞳を見つけて、は慌てて顔をうつむかせた。
「さん……」
甘い響きをもって、耳穴に吹き込まれた吐息と己の名に、は思わず握っていた暗器を落としてしまう。あ、と思う間もなくスズカゼに身体を抱き上げられ、暗器が離れた位置で地面に落ちるのが見えた。
「危ないですよ」
「だ、だれのせいですかっ」
スズカゼが涼しい顔で咎めるので、は思わず声を荒げる。を横抱きにしたまま、スズカゼがくすりと笑う。
「あの、下ろしてください」
「……嫌だと言ったら?」
「怒ります」
それは困りますね、と言いながらを下ろしたスズカゼの顔も声音も、ちっとも困ったふうではなかった。それが憎らしく、はあえて憮然とした表情を浮かべる。
「スズカゼさん、どうしてわたしに構うんですか?」
「その理由は、先日伝えたつもりですが……聞こえませんでしたか」
どういう意味だ、と眉をひそめたのは一瞬で、は素早く耳を押さえた。その顔は真っ赤である。
憮然とした表情を作る余裕などなく、ただ羞恥に顔を歪める。す、と伸ばされた手をかわしきれずに、はスズカゼに抱き寄せられる。
「好きな女性を気にかけるのは当然です」
実に明瞭な声量にて耳元で囁かれる。「ひっ」わざとらしく吐息を吹きかけられ、はびくりと肩を跳ね上げる。
「あなたの主は寛大ですね」
は転げるようにしてスズカゼの腕から逃れる。追いすがることはせず、容易く腕による拘束を解いたスズカゼがやさしい笑みを浮かべながら告げる。レオンとの会話も聞かれていたとは、とは呆然とスズカゼを見上げた。
ぎゅっと拳を作って振りかぶるが、スズカゼは風のように姿を消してしまう。
「スズカゼさん! もうっ、わたし怒りましたからね!」
「なぜですか? さんの言う通り、すぐに下ろして差し上げましたが」と、姿は見えないままに、声だけが聞こえてくる。は周囲に視線を巡らせるが、やはり気配のひとつも感じない。
「スズカゼさんがからかうからです!」
の張り上げる声だけが、辺りにむなしく響く。握った拳を下ろした刹那、ふっ、と影が落ちる。顔を上げる間もなく、温かな体温に包まれる。スズカゼの存在を感じて、は安堵を覚える自分に気がついて、言うべき言葉もなくして口ごもる。
「からかうなんてとんでもない。私は真剣です」
どこがですか、と憎まれ口さえも叩けない。