眠っているマークスを起こさぬよう、慎重にベッドを抜け出したは、廊下に出て小さくため息を吐いた。とマークスでは、あまりに体力に差があり過ぎる。
 レオンを守れるように、血反吐をはいて鍛錬を積んできたつもりだった。けれど、いくらが努力しようとも、到底その差は埋まりそうもない。性別の差か、生まれ持った才能の差か、あるいはそのどちらもか──

 壁に凭れかかりながら、よろよろと歩く。
 まだ日が登りきっていなくてよかった、と窓の外を見ては胸を撫で下ろす。静まり返った廊下には、当然ながら人気がない。こんなところ、レオンに見られたらと想像するだけで背筋が寒くなる。いや、レオンでなくたって、誰にも見られたくはない。
 昨夜のことを思い出そうとするが、いまいちはっきりとしなかった。疲労のせいか、頭の中がぼんやりとする。
 最中だというのにぷつりと意識が途切れてしまったことは覚えていて、それはつまりマークスに激しく抱かれたことを意味している。

 俯いた視界に、いつの間にか見慣れぬ靴先があった。
 は、とは鋭く息を呑んで、顔をあげた。
 注意力が散漫だったとはいえ、気を抜いていたつもりはない。これだけ近づかれるなんて、相手が敵ならばもはやの命はないだろう。

「リョウマ王子、」

 思わず、ぽかんとその顔を見つめてしまったは、慌てて腰を折った。

「おはようございます」
「……レオン王子の臣下だったな」
「はい、と申します」

 顔を伏せたまま答える。「顔をあげろ」と、何かを押し殺したような声に、は従った。
 早朝の鍛錬を終えたのだろうリョウマは、汗を流してきた様子で、しとりと湿り気を帯びた髪の毛先が寝ていた。兜がないと、だいぶ印象が変わる。甲冑も纏っていないというのに、その立ち姿に隙は一切なかった。

 リョウマを見つめながら、は自分も早く湯に浸かりたいなと思う。
 人前に出れる程度に身を清めたとはいえ、拭いきれない情事の残り香が纏わりついているような気がするのだ。ぐ、とリョウマの眉間に皺が寄るのを見て、はさっと目を伏せた。

「…………い」
「え?」

 ぽつりと落とされた呟きを拾いきれずに、は瞳を瞬いた。リョウマの強い眼差しがを貫く。

「汚らわしい、と言ったのだ」
「……! も、申し訳ございませ……」

 顔色をなくしたの肩を、リョウマの手が掴んだ。悲鳴にすらなれずに、喉の奥が鋭く息を吸い込んだ。「マークス王子は何を考えている?」と、唸るような低い声がに迫る。

「わ、わたしには、お答えできかねます」
「……己を忠臣とでも?」
「そ、そんなつもりは毛頭ございません。わたしなどに、マークス様のお考えを代弁できるわけがありません」

 喘ぐように答えながら、は俯く。
 実際のところ、マークスが何を考えているかなど、にだってわからないのだ。を冷たく見下ろすリョウマが、瞳を閉ざして押し黙った。リョウマの手が離れると同時に、はふらついて膝をついた。どっと冷や汗が溢れてくる。

「お目汚しを、ご容赦ください」
「……お前の振る舞いは、風紀を乱す。それを自覚することだ」

 降ってくる声は、存外冷たいものではなかった。立ち上がることはおろか、顔をあげることさえできずにいれば、リョウマが膝をついたのがわかった。
 が口を開くより早く、リョウマの手が伸びる。
 子どもにするように、脇に両手を差し込んでリョウマがを立ち上がらせた。触れる手には、いやらしさが一切ないどころか、労りを感じられた。

「す、すみません……」

 恐縮するを一瞥して、リョウマが踵を返す。「早く戻れ。皆が起きてくる」と、振り向くことなくリョウマが告げた。
 見ていないと知りながら、は丁寧に頭を下げてから、言われた通りにその場を立ち去った。





 どこからともなく伸びてきた、浅黒い手がの髪留めに触れた。「昨夜は随分とお楽しみだったようだな?」と、ニヤニヤするゼロに対し、何かを言ってやろうという気にはなれなかった。

「リョウマ王子にお叱りを受けて、さぞ落ち込んでいるかと思えば……ちっ、ガッガリだ」

 曲がっていたらしい髪留めを直したその手が、の耳に触れる。わずかに強張った身体を誤魔化すために、はあえてゼロをきつく睨みつけた。払おうとした手を逆に掴まれて、色の濃い指が恋人の真似事のように絡んでくる。
 は顔をしかめかけるが、表情を変えずに黙してゼロを見つめた。嫌そうにしてはゼロを喜ばせるだけと知っているのだ。

「ふっ……空が白むまで、イイことをしてたのか?」

 ゼロの囁き声が吐息と共に耳穴に吹き込まれる。ぎゅ、と無意識に繋がった指先に力がこもる。

「レオン様も酷なことをする。この小さな身体に捩じ込まれていると思うと、滾っちまうな……なあ、たまにはオレも混ぜてくれよ」
「……レオン様は、」

 そんなつもりではなかったのだ、と言い切ることができずに、は唇を噛み締める。
 隻眼がつまらなそうにを見つめて、逸らされた。

「泥沼にハマっていくお前を見ていると、その顔を沈めてヤりたくなる」
「どうして」
「そりゃあ、“助けて、ゼロ”と泣いて縋りついて欲しいからさ」

 ゼロの顔からニヤついた笑みが消える。

「オレを頼れ、。お前はいつもそうだ、すべてを抱えて、しまいにゃ潰れそうになる」

 はゼロの真意を探るように、ひとつしかない眼を見つめた。怪訝な顔をした自分が写っている。
 答えることができなかった。
 ゼロを信用していないわけではない。むしろ、はレオンとジョーカーの次くらいには、ゼロを信じているし頼りにしているつもりだった。助けて、なんてその誰にだって、は言えそうにない。

「……相変わらず、強情なヤツだ。その頑固さが、お前の首を絞めるとわかっているくせに、イケナイ子だな」

 ゼロの唇が耳朶に触れる。「ほんとうにヤバそうなら、お前がナニを言おうとオレの好きにする」と、囁く声は真剣味を帯びていた。は驚いて、思わずゼロの顔を確かめる。
 そこには、いつも通りニヤニヤと笑う顔があった。

「惚れたか?」
「……冗談やめてよ」

 ふい、と顔を背けたは、そうしたまま小さく礼を言った。







 フェリシアが散らかしていったキッチンを片付けて、はふうと息を吐いた。
 おむすびひとつ作るのにも、キッチンは大惨事である。自分も片付ける、というフェリシアをなんとか説得して送り出したが、彼女がいれば倍は時間がかかっていただろう。今日に限って食堂を任されるとはついていない、とは苦笑をこぼした。

 フェリシアが作った、形の歪なおむすびに手を伸ばしたところで、食堂の入り口が開いた。はさっとその手を引っ込める。

「御入用でしょう、か……」

 の姿を認めて、刻まれていた眉間の皺がより一層深くなったような気がした。リョウマが口元を片手で押さえながら「お茶を頼む」と、小さく告げる。

「はい、ただ今お持ちします」
「…………」

 紅茶を淹れるのならばお手のものだが、白夜のお茶は緑茶である。
 ケトルを火にかけ、使い慣れたティーポットではなく、急須を用意する。茶葉をに手にしたところで、はリョウマの視線に気がついた。射抜くような強い眼差しだ。
 は顔をあげて、反射的にへらりと笑った。

「すぐにご用意いたします。お座りください、リョウマ王子」

 顔を合わせるのは、あの早朝以来だった。
 本音を言えば、怖いし、できることなら逃げ出してしまいたかった。は、それらすべての感情を押し殺す。これ以上、無様な姿を晒すわけにはいかない。

「お待たせしました」
「……ああ、ありがとう。いただこう」

 を一瞥して、リョウマが湯呑みに手を伸ばす。ほう、と息を吐いたリョウマが思わずといった様子で「うまい」と、呟いた。

「ほんとうですか? お口にあってよかったです。実は、緑茶の淹れ方をタクミ王子が教えてくださって」
「タクミが?」
「はい。あっ、フェリシアさんが白夜料理のおむすびを作られたのですが、よろしければいかがですか?」
「……! 待て」

 リョウマに素早く手首を掴まれて、浮かれた気持ちが瞬く間に萎んでいく。

「申し訳ございません。出過ぎた真似をいたしました」

 の声音が途端に強ばる。それを聞いたリョウマが、はっと息を呑んでその手を離した。はリョウマの顔が見られずに、俯いた。

「いや、そうでは……その、フェリシアのおむすびは口にするべきではない」
「……まさか」

 は恐る恐る顔をあげて、神妙な顔で頷くリョウマを見た。
 暗夜王国の方々と仲良くなるため、と確かにフェリシアは言っていたが、その相手がよもや王族とは夢にも思わなかった。はしばし、呆然とリョウマを見つめて「も、申し訳ございません!」と慌てて頭を下げた。

「フェリシアにはよく言って聞かせておきます。わたしも、きちんと見ておくべきでした」

 フェリシアと共にキッチンに立っただが、次から次へと起こるトラブルの対処に追われて、作るところまで手が回らなかったのだ。

「大丈夫だ。こうして口直しもできた」
「はい……」

 リョウマはやさしい。
 本来ならば言葉を交わすことはおろか、姿を拝むことさえ難しい下々にだって、対等に接してくれる。
 は、そんなリョウマを怒らせてしまった。それどころか軽蔑されてしまったのだ。

 ずずっ、と緑茶を飲み干したリョウマが、湯呑みを置いた。空になった湯呑みを見て、は反射的に急須に手を伸ばした。大きな手が、ぎゅうとの手を押さえつけた。
 は戸惑いを持って、リョウマを見つめた。
 リョウマの瞳に、迷子のように途方に暮れるの顔が映っている。

「お前とマークス王子が恋仲というのなら、口出しはしまい。だが、そうではないのならば、看過はするわけにはいかない」
「……そ、れは」
「レオン王子の命か? お前は、主人の命ならば誰にでも股を開くのか」
「レオン様はそのようなことおっしゃいません!」

 は半ば反射的に答えていた。ぐ、と包まれた手に力が込められる。

──王族だから逆らえないというのなら、俺にも同じことができるのか」

 細められた瞳には、温度が感じられなかった。まるで、喉元に刃を突きつけられたような感覚がする。
 はうんともすんとも言えぬまま、ただリョウマを見つめ返した。

「そこは、否定しないのだな」

 ふ、とリョウマが笑みを漏らす。それは嘲笑ではなく、何かを諦めたような、苦笑にも似たものだった。
 何故、そんなふうに笑うのだろう。
 思わず、は不躾な視線をぶつけてしまう。その視界がふいにぶれて、は目を瞑る。軽い衝撃が背中に走った。目を開いたときには、目の前にリョウマの顔が迫っていて、その背後に天井があった。

 を見つめる瞳は燃ゆるようで、そこにあるのは憤りなのだろうか。それを確かめようと見つめ返して、しかし、近づく瞳がぼやけて見えなくなる。
 あ、と思ったときには、唇が重なっていた。行き場のない手が湯呑みを弾いて、床に落ちたそれがけたたましい音を立てた。

 片付けなければ、と混乱した頭で考え起こしかけた身体は、リョウマの手によって制される。唇が離れて、リョウマがわずかに上体を起こした。
 はろくに抵抗できないまま、目を伏せる。

「情婦に成り下がるつもりか? 価値を落とすのはお前のみならず、レオン王子の名に傷をつけると考えはしないのか?」

 びくりと身体が震える。
 噛み締めた唇に、リョウマの指先が触れた。

「……お前のような者を、カムイの傍には置きたくない」
「…………」
「心外だというのなら、己が身を省みろ。

 リョウマに名を呼ばれたのは、これが初めてだった。は伏せていた瞳をリョウマへと向ける。距離は離れているはずなのに、視界がぼやけている。
 それが涙のせいだと気がついたのは、リョウマの指が目尻をなぞってからだった。
 触れるその手が──どうしてかやさしい。

「リョウマ王子、お痛が過ぎませんかね」

 いつの間にか、ゼロが傍に立っていた。リョウマが驚くことも焦ることなく、あっさりとを解放する。
 浅黒い手が苛立ちを隠さずに、を抱き起した。

をカムイ様の傍に置きたくない? ふ……では、ジョーカーはどうなんです? アレだって、カムイ様のためなら何だってする。清廉潔白なワケがない。ちゃんちゃらおかしいとは思いませんか?」
「ぜ、ゼロ、やめて」

 は慌ててゼロの腕を掴んだ。隻眼が、苛烈な色を孕みながらを見下ろす。

「……同じメイドでも、フェリシアとは雲泥の差だな」

 吐き捨てるように言って、リョウマが踵を返した。ばさりと流れる長い髪が、視線を断ち切るようだった。は何も言えずに、肩を落として俯く。割れた湯呑みが、物悲しげに床に散らばっていた。





 食堂を出たリョウマは、数歩歩いたところで足を止めて振り返った。
 言い過ぎた自覚はあるし、あんな真似をするつもりではなかった。彼女が、望んでマークスの元へ通っているわけではないと、知っていたはずだった。

 マークスの部屋から出るの姿を見たのは、先日が初めてのことではなかった。
 汚らわしいと思ったのは事実だ。
 けれど、早い時間にマークスの部屋を出るが、ほっと安堵のため息を漏らすところ見たときリョウマは己の思い違いに気づいた。

「ちゃんちゃらおかしい、か」

 ゼロの言う通りである。
 リョウマは唇に自嘲の笑みを乗せる。ふと、指先を唇に這わせて、リョウマはため息を吐いた。

 彼の振る舞いを、王族として、男として許し難いと思っていたはずなのに──これでは、マークスと何ら変わらない。
 とマークスの関係に、これほど強い憤りを覚えるのは、彼女をただの仲間として見られなくなっているからだ。リョウマはぐっと拳を握り締める。爪が食い込んで痛みが走るが、リョウマが与えたへの苦痛を思えばなんてことはなかった。

適温のわからない熱をぶつけて

(なおも胸を焦がし続ける)