焼けつくような痛みを感じていたはずなのに、今ではもうよくわからなかった。戦いの喧騒が遠い。視界がぼやける。地面に横たわっているのか、壁に背を預けているのか、もはやラズワルドにはそれを知る感覚が残っていなかった。
握りしめていたはずの剣がどこにあるのか、探ることすらできない。
──もう、戻れない。
そうと気づいても、どうすることもできないのだ。瞼が重く、閉じていく。
「……」
ごめん、と言ったつもりだったけれど、それは声にならなかった。
一緒にここへ来たふたりへ、本来己がいるべき場所で待つ仲間へ、そして守ることができなかった主君へ対する謝罪だった。
縁もゆかりもないはずの主君だったのに、気がつけば心を砕いて、命を賭していた。馬鹿だな、心の中で苦く笑う。けれども、仕方がないのだ。ここにいるのは、アズールではなくて、暗夜王国第一王子の臣下たるラズワルドなのだから。
閉じた瞼の裏に浮かんだのは、はにかむ母親の顔だった。
「アズール……!」
その名を聞くのは、久しぶりだった。
視界に飛び込んできたのは、泣きそうに顔を歪めたオーディンだった。ラズワルドは状況を把握できないまま、むくりと身体を起こす。右手を握っては開く、を繰り返してみるが、思い通りに身体は動く。
「あれ? 生きてる……」
ラズワルドは呆然としたまま、呟いた。「そうだよ、生きてるよ!」と、オーディンが叫ぶように言って、片手で目元を覆った。肩が震えている。
泣き出したオーディンにぎょっとするが、ラズワルドは自身の有り様を見て、納得する。
肩当はひび割れているし、腹部が見えるほど服が裂けていて至る所が血まみれだった。しかし、傷跡はどこにも見当たらない。死の感覚は夢や幻ではなかった。ぞっと背筋に冷たいものが走る。
「マークス様は……!」
血だまりの中に倒れるエリーゼの姿が脳裏を過る。ラズワルドははっとして、オーディンの肩を掴んだ。静かに首が横に振られて、ラズワルドは項垂れた。
「マークス様……ごめんなさい………」
命令に背いた挙句、守ることすらできなかった。己の不甲斐なさに、ラズワルドは歯噛みする。
しかし、なぜ自分はこうして生きているのだろうか。ラズワルドは傷があったはずの肌を指先で確かめる。致命傷はまぬかれなかったはずだ。
「……のおかげだ」
「?」
ラズワルドは不思議に瞳を瞬く。
レオンの専属メイドたる彼女は、主君と袂を分かちカムイに味方した──カムイの傍に控えていた、不安げな顔をしたの姿が思い浮かぶ。
ラズワルドとは、特に親しいわけではなかった。ただ、以前に仕事で身体を重ねたことがあるだけだ。一夜限りの関係だったし、同じ王城にいても顔を合わせることもほとんどなかった。たまに、カムイのいる城塞で会うこともあったが、あいさつ程度にしか会話はなかった。
あの夜のことがちらつくのはお互い様だったようで、何だか気まずく、照れ臭くて話せなかったというのもある。いつも、彼女は恥ずかしそうに顔を伏せていたが、ラズワルドもの顔を真っすぐには見られなかった。
「なあ……お前ら、仲良かったっけ?」
ラズワルドは「どうかな」と、小さく苦笑を漏らす。オーディンが訝しげに眉をひそめる。
「まあ、オーディンよりは仲良しだったかな」
おどけるように片目を瞑って見せれば、呆れたようにオーディンがため息を吐いた。嘘を言ったつもりはない。
帰りを待っている人たちがいるから、いずれはそこに戻らなければいけない。
ベッドの中で、そんな話をした。だからこそ、敵対したというのに、こうして命を救ってくれたのかもしれない。
与えられた使命を果たすことはできなかった。けれども、仲間の元に帰るという約束は守ることが出来そうだ。願った結末とは違っているが、この戦いは恐らく、もうすぐ終わりを迎える。
「にお礼を言わないとね」
元の世界に戻る前に、とラズワルドは微笑んだ。
なぜ、対峙しなければならないのだろう。カムイの選んだ道が間違っているなどとは思わないけれども、途方もなく悲しく虚しくなる。血の繋がりがなくても、カムイたちは確かに御きょうだいだった。
マークスに仇なす者として、敵意をもって剣先を向けたラズワルドに対しても、は複雑な感情を覚えた。彼はとてもやさしい。だから、主のためにこうして剣を持っているのだ。「刃向うつもりなら、容赦はしないよ」と、穏やかで柔和だった彼からは想像もできない殺気が放たれる。
たちもまた、カムイのために剣を取るほかないのだ。
ラズワルドの身体が傾いて、地に伏す。剥き出しになった腹部から、おびただしい量の鮮血が流れ出ている。見るからに致命傷を負っているのがわかった。
は手にしていた暗器を杖に変え、ラズワルドに駆け寄った。
虚ろな瞳を閉じて、ラズワルドがわずかに唇を動かした。何を言おうとしたのかはわからなかった。
「ラズワルドさん、こんなところで倒れちゃだめです……!」
ぎゅう、と杖を握りしめる。
ちらっとこちらを一瞥したジョーカーが舌打ちしたようだが、の周囲の敵を実に鮮やかな手さばきで一掃してくれる。はそのまま杖を掲げ続けた。
「あなたの帰りを待っている人がいるって、おっしゃっていたじゃないですか」
「……」
「お願い、ラズワルドさん、目を覚まして……!」
光に包まれた傷口が塞がっていく。ひどい深手だった。失血の分だけ、顔色が悪い。
ラズワルドの冷たい指先がぴくりと動く。
「おい、そいつを連れてさっさと後退しろ」
「執事長」
「足手まといになるくらいなら、引っ込んでろ」
ジョーカーの物言いは冷たかったが、そこには気遣いが存在していた。「すみません、ありがとうございます」と、頭を下げてから、はぐったりと意識のないラズワルドの身体を肩に担ぐ。重みにたたらを踏めば、ジョーカーがちっ、と舌を打った。
「俺が連れて行く」
「えっ、あ……」
ラズワルドをひったくるようにして、ジョーカーが代わりに背負ってくれる。「重い」とひどく不機嫌そうだったが、それでもそのまま後方まで運んでくれるのだから、は恐縮する。
「す、すみません」
「……俺は前線に戻る」
「わたしも、」
ジョーカーの視線が、の抱きかかえるラズワルドに向いた。腰を上げかけたが、は座りなおして「す、すぐに行きます」と答えた。ジョーカーが踵を返す。
ラズワルドが目を覚ます気配はなかった。
は青白い顔を見つめ、首筋に指を這わせる。弱弱しくも、確かな脈動を感じる。ほっと息を吐き、ボロボロになった肩当てに触れる。
「、」
戸惑いに満ちた声に名を呼ばれ、は顔を上げた。
「……オーディン?」
「アズ……ラズワルド、やられたのか」
オーディンが膝をつき、ラズワルドの顔を覗き込んだ。
同時期に暗夜王城に召し仕えられた者同士、親しかったのだろうか。オーディンの強張ったその顔は、心なしか青ざめている。
「もう大丈夫だと思う。でも、しばらく意識は戻らないかもしれないわ」
「……」
「オーディン、あなたに任せてもいい? わたし、戻らないと」
オーディンが頷くのを確かめて、はラズワルドを預けて立ち上がる。「」と、ふいに手首を掴まれて、は振り返った。
「ラズワルドを助けてくれてありがとう」
その飾り気のない言葉は、どこまでも真摯だった。
「オーディンこそ、レオン様をお守りしてくれてありがとう。あなたが居てくれてよかった」
は今度こそ、戦場へと駆けだした。