ふわ、と漂ってきた紅茶の香りに引き寄せられるように歩いたその先に、テーブルの上にティーセットを用意するディーアの姿があった。はその様子をしばし見つめて、執事としての教育が非常に行き届いていることを知った。
 さすがは執事長の息子さん、と感心を覚えたところで、は気づかれぬように踵を返した。
 はずだったが「おいアンタ」と声がかけられて、は足を止めて振り向いた。ディーアがじっとこちらを見つめている。テーブルには湯気の立つ紅茶と、見るからにおいしそうな焼き菓子が、美しく完璧に並べられている。

 は振り向いたままその光景を眺める。呆れたようにため息をひとつ吐いて、ディーアが近づいてくる。がし、と手首を掴まれ、は驚きに小さく肩を跳ね上げた。

「……ちょっと練習してたんだ。良かったら、飲む?」

 どこか照れくさそうにディーアが言う。「練習、」は呆然としたまま、オウム返しにその言葉を呟いて、テーブルを再び見る。

「必要あるのかな……」

 ともすれば、悔しいがよりも素晴らしいティーセットかもしれなかった。「ほら……紅茶がさめるだろ……」と、ディーアが急かすように言って椅子を引いてくれる。

「あ、えっと、ありがとう……ございます」

 年齢を考えれば、のほうがよほど年上なのだからフランクに話して問題ないはずだが、近くで感じた身丈の高さに気後れしてしまう。やや猫背気味だが、ずいぶんと背が高い。秘境というところは、もしかしたら発達を促すのかもしれない。
 そんなことを考えながら、紅茶に口をつける。

「おいしい」

 素直な感想が口をついて出る。思わず、は驚いてディーアを見たが、彼は満足そうな表情を浮かべて笑った。

 は、この世で一番おいしい紅茶はジョーカーが淹れたものだと信じて疑わなかったが、これは──「父さんが淹れるより、おいしいだろ?」の思考を読んだかのように、ディーアが言った。悪戯っぽく細められた瞳がを見ていた。
 は戸惑いながら、焼き菓子へ手を伸ばす。

「おいしい……」

 ディーアがうれしそうに笑った。はジョーカーとは異なる髪色をぼんやりと見つめた。


 ディーアが食器を手際よく片づけていく。カチャカチャと時おり聞こえる陶器の触れ合う音は、とても繊細で慎重な手つきを感じさせるほど小さい。手伝いを断られてしまったは、椅子に座ったままその様子を眺める。

「これ」

 不意に、ディーアが差し出したものを、は反射的に受け取った。小袋に入れられた焼き菓子。たしか、菓子がすごくすきな子がいたな、と頭の片隅で思う。

「……余ったし、アンタにあげる」

 視線を不自然に逸らして、ディーアがぼそぼそと告げる。照れているのか、とは妙に冷静に考えてしまうが、すぐに破顔した。

「ありがとうございます!」
「別に……アンタ、気に入ったみたいだし……」
「大事に食べますね」

 「だ、大事にって……」やら「いや、また作ってやってもいいし……」と、ディーアが恥ずかしそうになにやらぶつくさ言っている。はくすくすと笑った。

「ちなみに、わたしはアンタではなく、と言います。ディーアくんのお父さんには、とてもお世話になってます」

 ディーアが一瞬の沈黙の後に、「知ってる」とつぶやいた。はあははと笑って頬を掻く。

「そうですか。まあ、そうですよね」

 よろしくお願いします、と差し出したの手を、ディーアが躊躇いがちに握った。
 は不健康そうなその顔を見つめて、なんとなしにあまりジョーカーに似ていないな、と思った。そして、同じ従者として負けられない、とこっそり内心で気合を入れた。



 の手腕はすべてジョーカー仕込みだ。レオンに仕えるようになって、彼の好みに合わせるようになっていったが、基本はすべてジョーカーの教えに忠実だ。
 紅茶を淹れ終えて、はカップの琥珀色を睨むように見つめる。
 ディーアの淹れていた紅茶はもっと香り高かった。

 執事やメイドの仕事はお茶を入れるだけにとどまらないが、ディーアの紅茶はほんとうに舌を巻くほどの腕前だった。事実、もしかしたらジョーカーが淹れたものよりおいしいのでは、とさえ思ってしまったのだ。
 難しい顔で紅茶の湯気を見ていると、オーブンが焼き上がりの合図を告げた。
 クッキーをケーキクーラーの上に取り出す。甘い香りが立ち上って、無意識に頬が緩む。暗夜城にいたころはよくレオンにこうして菓子をつくってはお茶を淹れたが、年齢が上がるにつれて甘いものをあまり好まないようになってしまったため、クッキーを焼くのは久しぶりだった。

「レオン様、お元気かな」

 ふう、とため息をつきながらつぶやく。
 ゼロやオーディンをあしらいながら、レオンの世話を焼いた日々が懐かしい。ここではカムイをはじめとして、白夜のひとたちはとてもよくしてくれるが、疎外感や孤独感はどうしたって拭えない。
 ジョーカーに、カムイ以外の大切なひとができて──いつの間にかこの軍には夫婦が増えている。

「……これ、飲んでいいの……?」
「えっ! わ、びっくりした……ディーアくん?」

 ふっ、と影が落ちて、顔を上げるとディーアが紅茶を見つめている。ディーアにたいしたことのない紅茶を見られて、気恥ずかしさを覚えるが、は取り繕うように笑顔を浮かべた。

「こんなのでよければ、どうぞ。あ、でもクッキーは焼けたばっかりだから、まだ……」
「紅茶の淹れ方……父さんに、習ったの?」
「え? そうですけど……やっぱり、執事長にはまだまだ追いつけませんね」

 紅茶を一口飲んだディーアが「おいしいよ」と、にこりともせずに言う。

「……そのお世辞は、逆にすごく傷つきます……」

 は胸を抑えてつぶやく。ディーアなりに気を遣ってくれたのだろうが、嘘を吐くのが下手なようだ。え、と声を上げてディーアが狼狽える。

「……ごめん…………でも、ほんとに……おいしくないわけじゃ、ないし……」

 その様子は、たしかに年相応の子どもらしく見えて、はほっとする。
 早いうちから戦いに巻き込まれてしまった子どもたちは、皆どこか大人びてしまっている。昔、軍議に参加するようになって、レオンの幼さがすぐに影を潜めてしまったのと同じように。

「クッキー、食べますか? 久しぶりにつくったから、あんまり自信ないんですけど」
「……ねえ……なんで、敬語…………俺、アンタにしたら……子どもだろ……」
「そうですけど、なんとなく」

 あなたの態度も年上に対する者とは思えませんけどね、という言葉は飲み込む。

「……ディーアでいいし、敬語もいらない」

 ディーアが視線を逸らす。その頬はほんのりと赤い。
 はなぜか見てはいけないものを見たような気がして、慌てて目を伏せた。「わ、わかったよ、ディーア」答える声が早口になってしまう。


「……ん」

 満足そうなディーアの顔を見る。その髪色は、ジョーカーの銀とはまったく違う。
 ──どうしてだろう、ディーアの母親がだれだったか、思い出せずにいる。おかしいな、ちゃんと、おめでとうございますって言ったはずなのに。

「紅茶の淹れ方……教えてやるよ……」
「上から目線だね。言っておくけどわたし、メイドとしては、ベテランだからね!」

 は胸を張って言うが「でも、俺のほうが上手いし……」と言われては、ぐうの音も出ない。むっとするを見て、ディーアが笑いながらクッキーを食べた。

「……クッキーは、のほうが……おいしいかも……」
”さん”!」
「いいじゃん……ケチ……」
「け、ケチって」

 子どもたちは、子どもたち同士で仲良くなっていて、あまり親の世代には話しかけることはない。本来ならば、親子ほどの年齢差であるというのに、そう年が変わらないまでに成長してしまって戸惑いもあるのだろう。

 ディーアとの関わりは、おそらく従者であるという点が大きい。
 もっとも、の仕えるべき主人は、いまここにはいない。カムイの世話はすべてジョーカーがこなしてしまって、が入る隙はないし、白夜の王族に話しかけるなんて恐れ多すぎる。つまるところ、は手持無沙汰であり、暇そうに見えたのかもしれない。

 暗夜城に戻ったら、レオンがあっと驚くくらい、おいしい紅茶を淹れられるだろうか。
 はレオンの顔を思い描いて、目を細める。

「もう……仕方ないな、呼び捨てでもいいわ」

 はため息交じりに言って、クッキーへと手を伸ばす。ディーアの言う通り、うまくできているなら軍のみんなに配ろう。
 しかし、その手はクッキーに触れる前に、宙で止まった。

「ねえ……父さんの、どこがいいの……?」

 ディーアの小さな声は、に心臓をぎゅっとわしづかみするような感覚を与えた。はひどくぎこちない仕草でディーアを振り返る。仄暗い色をした瞳が、じっとを見ていた。

 すう、と全身から血の気が引くような気がした。指先が冷たくなって、しびれる。

「……知ってるよ。は……父さんのことが──

 その言葉を言わせまいと、は慌ててディーアの口を手のひらで押さえる。その拍子に手がティーカップをはじいて、派手な音を立てて床へ落ちた。

「ちがう!」

 咄嗟に叫んだ言葉は、悲鳴に似ていた。



「おい、またフェリシアの仕業じゃ……」

 聞きなれた声に振り向いて、は泣きそうになる。
 食堂のキッチンを覗き込んだジョーカーが、驚いた顔をして固まっている。

「執事長……」
「なにしてる? ディーア、

 呆れたような声には身を竦ませて、慌ててディーアから距離を取る。しかし、ディーアに素早く腕を掴まれて、無理やり手を水で冷やされる。そうしてはじめて、先ほどカップに触れたときにやけどしていたことに気がついた。

「……べつに、ちょっと話してただけだ……」
「ほう?」

 そっけないディーアの返答に、ジョーカーが目を細める。はジョーカーの視線を受けて、わざとらしく顔を俯かせた。

、てめぇに聞けば済むことだ。ここで、ふたりでなにしてた」

 は冷たい水に触れる手をじっと見つめる。ジョーカーに嘘など吐けない。ふ、と息を細く吐き出して、目を閉じる。

「ディーアくんに、紅茶の淹れ方を教わる約束をしてました」
「はあ? なんでディーアに……」
「すごくおいしいから、」
「……教わりたいなら、俺がまた一から教えてやる」

 腕を掴むディーアの手にわずかに力がこもった。はディーアを見上げる。

「……父さんより……俺のほうが、上手いからだよ……」
「なんだと?」

 ジョーカーが眉をひそめる。は焦るが、言うべき言葉が見つからずに、口を開いては閉じてを繰り返す。
 そうする間に、ディーアがの腕を引いた。「きゃっ!?」力に従って、の身体はディーアの胸に飛び込むことになった。意外と厚い胸板に顔がうまる。

「俺は……父さんみたいには、ならない」

 ディーアがまるで吐き捨てるように言う。はその言葉の意味がよくわからなかったが、ジョーカーには理解できたのか舌打ちをした。

「勝手にしろ」

 それだけ言って、ジョーカーがキッチンを後にする。
 はディーアの腕の中、遠ざかるジョーカーの背を見つめていた。


「あの、ディーアくん、そろそろ放してほしいんだけど」
「……やだ」

 の申し出を断って、ディーアが抱きしめる腕にさらに力を込めた。「ちょ、」の顔は胸板に押し付けられる。苦しい。もがくは、ふとディーアのやけに早い鼓動に気づいて、動きを止める。

「…………もうちょっと……だけ」

 そんな風に言われては、無下にできない。はディーアに身を預けると、その背に腕を回した。

「執事長は、わたしの憧れなの。わたしは、いまも昔も、執事長みたいになりたい」

 あれだけ主人を思える従者はそうそういない。
 本音を言えば、憧れ以外の感情もあったかもしれないが、いまとなっては詮無きことだ。──きっと、ジョーカーは知っていただろうが、もう口にすることもないそれはの胸にしまっておけばいい。

「……うん」

 ディーアの声は、どうしてか泣きそうに聞こえた。

「俺……父さんと違って、やさしく指導するから……」

 ジョーカーの厳しさを知っているは、小さく笑った。

「うん、よろしくね」
「……父さんなんか……越えよう」

 ディーアが至極まじめに言うものだから、はさらに笑ってしまう。腕の力が緩んで、ディーアに顔を覗き込まれる。はさすがに笑いをこらえた。

「やっぱ……かわいい……」

 ディーアがぼそりとつぶやいた言葉に、の思考が停止する。されるがまま、再びぎゅっと抱きしめられる。「……父さんが……アンタを選ばなくて、よかった……」耳元で、ディーアの声が聞こえる。
 はすでに色々なことを理解しようとすることを放棄していた。

 ディーア直伝、おいしく紅茶が淹れられるようになったころ、はようやく言葉の意味を考えることができた。「えっと、つまり、ディーアくんは」紅茶から漂う湯気の向こうで、すこしだけ頬を赤らめたディーアが口元をゆるめた。

のこと、ずっと昔から知ってるし……ずっと昔から……すきだった」

 じわじわと顔全体が熱を帯びていく。「そ、そうなんだ」と言いながら、はティーカップを見つめて、そのまま視線を上げられなくなる。ディーアの手が伸びて、の手に重なった。

「……俺……本気だから…………」

 は恐る恐る顔を上げる。
 あれだけ考えてもわからなかったはずなのに、もうとっくにディーアの母親の名前も姿も思い出すことができているのだから、不思議だ。母親と同じ色の髪が風にそよいだ。

「……子どもだなんて、思わないでよ」

 ディーアにそう言われて頷くことも、首を横に振ることもできなかったが、には答えはすでに決まっているような気がしていた。

ちょっとだけジ・エンド

(だって、もうあなたに惹かれてる)