は舞踏会には慣れているが、得意なわけでも苦手でもない。別段踊りが好きということもない。学級内には、我こそはという生徒さえもいたというのに、ベレトは白鷺杯にを選んだ。
何故、という疑問に対し「剣が得意だから」と、ベレトは首を傾げながら告げた。剣ならフェリクスのほうが得意だけど、という言葉を飲み込んだのは、いくら追求しようともそれ以上の言葉が出てきそうになかったからだ。理由らしい理由らしいなど、待ち合わせていないのかもしれない。そう思うくらい、ベレトはぼんやりした顔をしていた。
まさか、士官学校にきてまで踊りの練習をしなければならないとは思わなかった。しかし、出場したがっていたアネットとメルセデスの手前、ため息ばかり吐いてはいられない。
「いやぁ、ベレト先生様様だな。おかげで可愛い女の子と、こうして踊れるんだから感謝しないと」
シルヴァンがへらへらと笑う。
本心こそ知らないが、ディミトリやフェリクスと比べれば、練習相手にはうってつけの相手なのは間違いない。
は「それはどうも」と微笑むと、差し出された手を取った。背筋を伸ばすと、シルヴァンのもう一方手が腰に添えられる。
「どうしてわたしなのかしら……」
「いやいや、俺は妥当な選択だと思うけどね。なら、ドロテアちゃんにだって引けをとらないさ」
シルヴァンの軽口は当てにしていない。
だって、ベレトが選んでくれたのだから、期待には応えたい。ただ、黒鷺の学級代表はあの歌姫ドロテアで、金鹿の学級代表は愛嬌溢れるヒルダである。もし負けたとしても、相手が悪かったのだと思ってもらいたいところだ。
幼い頃から叩き込まれた動きだ。自然と足が動く。けれど、それだけでは優勝などできはしない。
「……、注目されてるぜ」
ふいに、シルヴァンが耳元で囁いた。
毎日のように、放課後は中庭で踊っているのだから、注視されるのも仕方のないことだ。
「あら、あなたを見ているのかも知れないわよ。あなたって、こうしていると普段の素行が嘘のように、立派な貴族令息だもの」
「はは、相変わらず手厳しいことで」
苦笑を漏らしたシルヴァンが、不測の動きをする。周囲に気を取られていたは、思わずよろめいた。
「おっと」
ぐい、とシルヴァンがを抱き寄せる。はすぐに態勢を整え、シルヴァンの胸を押し返した。
「シルヴァン!」
「悪い悪い。大丈夫か?」
まったく悪びれる様子のないシルヴァンを睨み、は足を軽く踏みつけてやる。
おそらくシルヴァンは、が周囲に気を取られていたことだって、もっと言えば気を取られた理由だってお見通しなのだ。わかっていて仕掛けてきたのだから、足を踏まれて当然だ。
「殿下! 舞踏会で恥かかないように、練習しておいたらどうです?」
シルヴァンが手を振った。「シルヴァン」と、は眉をひそめて嗜める。
やはり、シルヴァンはが何を見ていたのか気づいている。苦笑したディミトリが、ドゥドゥーを伴って近づいてくる。シルヴァンの不敬に腹を立てているのか、ドゥドゥーの眉間には皺が刻まれているようにも見える。
「……まあ、確かにお前の言うことも一理あるかもしれないな」
「ご冗談を! ディミトリ様に限って、そんな心配いりません。シルヴァン、幼なじみとはいえ失礼が過ぎるわよ」
は言いながら、ぐっと踵でシルヴァンの足を踏んだ。今度はさすがに痛かったのだろう、シルヴァンの笑みが引きつる。
「いや、練習がてらお相手願おう」
まるで試合を申し込むかのような物言いだ。す、と差し出されたディミトリの手を、取らないわけにはいかない。
はちら、とドゥドゥーを窺う。一際背の高く肌の色も異なるドゥドゥーは、どこにいたって目につきやすい。踊りながらだって、周囲を見やればすぐに彼の存在に気づくというものだ。
ドゥドゥーが一礼し、邪魔にならぬよう距離をとって控える。
「……失礼します」
は断りを入れて、ディミトリの手のひらに指先を乗せた。
ディミトリの足運びは型通りで、どこか堅さを感じるが、舞踏会で踊るには何の支障もないだろう。さら、と動きに合わせて切り揃えられた金の髪が揺れる。
「どうだ? おかしくはないだろうか」
「おかしなところなんてひとつもありませんよ」
「そうか。案外、身体が覚えているものだな……」
ディミトリがしみじみと呟く。
「いやあ、絵になりますねぇ」
はシルヴァンを一瞥し、それからドゥドゥーへ視線を移した。腕組みをして、唇を結んだ姿はそれだけで威圧するような雰囲気がある。眉間の皺が先ほどよりも深いような気がした。
ディミトリが足を止めたので、は顔をあげる。
自然な仕草で片足を引くと、ディミトリが膝をついた。はあまりの驚きに言葉をなくし、思わず立ち尽くす。ディミトリが、の手を持ち上げて唇を寄せた。
「白鷺杯を楽しみにしている」
ふ、とディミトリが笑うと、周囲から黄色い声が上がった。
「な、何だ? 変なことを言っただろうか」
「……シルヴァンに、何か吹き込まれましたね?」
「誤解だ、! 俺はただ、踊ったあとは女の子を褒め称えるよう教えただけでだな……」
「殿下、参りましょう」
色めき立つ女生徒の視線を、ドゥドゥーが遮った。一瞬、あたりが静まり返る。
「ああ。、練習はほどほどに。お前なら優勝できるさ」
ディミトリがぽんとの肩を叩いて踵を返す。ドゥドゥーの視線が一瞬を捉えたが、すぐにディミトリの後ろについていく。
「あー……ほんっと、無自覚って性質が悪いよなあ」
まるで他人事のように呟くシルヴァンの足を、は無言で踏んづけた。
「さすがだな」
ディミトリが満足げに微笑む。はディミトリに対して恋愛感情を抱いたことはないが、至近距離で見るにはあまりに眩しい。は目を伏せて「恐縮です」と、小さく答える。
練習の甲斐あって、は白鷺杯で優勝した。だからこそ、我が級長の最初の踊り手に選ばれたのだ。
黒鷲の学級の級長とすれ違う瞬間、少しだけディミトリの手に力が篭った。舞踏会においても級長として、対抗意識のようなものがあるのだろうか。ふわ、と背中を長い銀の髪が掠めていく。
「……あら、ベレト先生」
金鹿の学級級長に手を引かれ、ベレトが踊り場に現れる。どうやら戸惑っているようだ。クロードが、何故かこちらに向かって手招きしている。
「行ってやれ。先生を助けると思って」
ディミトリに背を押され、はベレトに歩み寄る。ベレトがにこりともせずに、に向かって手を差し出す。
「お願いします、先生」
「こちらこそ」
ベレトの平坦な声が答えた。
白鷺杯で優勝したせいなのか、ベレトと踊り終えたあともなかなか解放されず、は疲れたからと断りを入れてようやく一息つくことができた。
舞踏会は慣れている。剣を振るうだけあって、体力もある。けれど、愛想笑いのしすぎで、頬が引きつるような気がした。体力的に疲れたと言うよりは、気疲れと言ったほうが正しい。
──結局、踊りたかったひととは、踊ることができなかった。
ふう、と息を吐いて、杯に口をつける。胸を流れていく飲み物が冷たく心地よいのは、身体が火照っているからだろうか。
「あの! さん、少しお時間……」
は緩慢な仕草で顔をあげる。
ソワソワと落ち着かない男子生徒の背後に、ぬっと壁のように現れたのはドゥドゥーだった。は目を丸くし、ドゥドゥーに気づいた男子生徒は小さく悲鳴を上げて走り去っていく。
「すまない。邪魔をしてしまっただろうか」
「いいのよ。断る手間が省けたわ」
そう言っては笑う。しかし、ドゥドゥーの顔を見て逃げ出すなんて、失礼な男である。
ドゥドゥーが申し訳なさそうな顔をしながら、近づいてくる。は近くの卓に杯を置き、ドゥドゥーを見あげた。ディミトリやシルヴァンも長身だが、ドゥドゥーはなかでも群を抜いている。
「……きれいだった」
ドゥドゥーの低く小さな声は、あたりの喧騒にかき消されてしまいそうだった。けれど、の耳はそれを拾いこぼすことはなかった。ドゥドゥーの言葉が、身体に染み渡るような気がした。
「ふふ、ありがとう」
熱を帯びた頬が、思わず緩む。
伸ばされかけたドゥドゥーの手は、ぐっと握られて引っ込んでしまう。言いあぐねる様子のドゥドゥーを、はじっと見つめた。
もっと言葉がほしいと思うのは、わがままだろうか。
「ねぇ、少し外で涼んでもいいかしら」
「……ああ、付き合おう」
ドゥドゥーがどこかほっとしたように頷いた。
中庭に出ると、大広間の賑やかさが遠のく。星辰の節ともなれば、ファーガスのように雪は降らずとも日が暮れると随分と寒い。
「寒くはないか」
「ええ、平気。でもあまり外にいると、冷えてしまいそうね」
はくるりと回って、ドゥドゥーを振り返る。暗がりで、ドゥドゥーの表情ははっきりとは見えない。恐らく、ドゥドゥーにもの頬の赤みは見えていないだろう。
きれいだと、誰に言われるよりも嬉しくてたまらない。
「ドゥドゥーは、誰かと踊った?」
緊張で、思わず声が上ずった。踊りっぱなしだったは、それなりに周囲を見ていたけれど、相手から視線を外してばかりもいられない。もしかしたら、の知らぬ間にドゥドゥーが女性の手を取っていた可能性だって、なくはない。
ダスカー人だから、とドゥドゥーを忌避する者は確かにいる。けれど、大樹の節からこうして一緒に過ごしたのならば、ドゥドゥーが心優しいことなどわかって当たり前だ。
「まさか」
ドゥドゥーの声音には驚きと戸惑いがあった。
「おれと踊りたい物好きはいないだろう。そもそもおれは……」
殿下やシルヴァンのようには、とドゥドゥーがゆるくかぶりを振った。
「踊り方もわからず、舞踏会で何をしたらいいのかと戸惑うばかりだ」
「ディミトリ様やシルヴァンみたいに踊りたかった? それとも、彼らのように踊れたなら、わたしに手を差し出してくれたのかしら?」
は、小首を傾げてドゥドゥーを見やる。
意地悪のつもりはない。舞踏会といえど、士官学校の生徒には平民も多くいて、慣れないながらも踊りや食事を楽しんでいた。ドゥドゥーはずっと、場違いだと思ってあの場にいたのだろうか。
「…………そう、なんだろうな」
ドゥドゥーが声を絞り出すようにして、言った。
ひゅう、と吹き抜けた風は冷たかった。ドゥドゥーが後ろに回り、の肩に自分の上着をかけてくれる。
「あ、ありがとう。でもドゥドゥーが寒いでしょう」
「おれは大丈夫だ」
肩に乗ったドゥドゥーの手が離れていかない。は首を捻って、振り向いた。
「おれは、おまえとは踊れない」
「そんなこと……」
「踊るおまえを見て、おれとは住む世界がちがうと思い知らされるようだった。おまえと踊る奴らを、殿下でさえも羨ましく思ってしまった」
肩に置かれていた手が、を包んだ。「浅ましいな」と、呟く声がの後頭部に落ちる。
「おまえの身体が冷えていくのがわかっても、できることならこのまま中に戻したくない。もう誰にもこの手に触れさせたくない」
ドゥドゥーの大きな手が、の手をすっぽりと覆い隠す。とは色の違うその手は、分厚くて硬く、とても温かった。
はその手を頬に寄せる。ぴたりとくっついた頬とドゥドゥーの手は、変わらぬ温度をしていた。
「わたしは、あなたと踊りたい物好きよ。もっと言えば、あなたとしか踊りたくないくらい」
「……それは、相当な……物好きだな」
ドゥドゥーがそっと苦笑する。する、とドゥドゥーの甲が、の頬を撫ぜた。顔に熱がさらに集まっていく。
肩を掴まれて、身体を反転させられる。
さすがに恥ずかしさから、は顔をあげることができなかった。
「おまえは百合のようだ。白百合のように凛として美しく、山百合のように強くたくましい」
「そ、そうかしら」
「おれが近づいては、おまえを手折ってしまうのではないかと──そんなことばかり考えるくせに、他の誰にも渡したくない。本当に浅ましく、欲深い」
ドゥドゥーの手が、そっとの顔を持ち上げた。灰がかった青緑の瞳が、じっとを見つめるのが、淡い月明かりでわかる。
「……おれが触れて、いいのだろうか」
は睫毛を伏せた。風がの髪をさらう。ドゥドゥーの上着のおかげで、寒さは感じない。
「わたしが触れてほしいと思うのは、あなただけよ」
そうか、とドゥドゥーが嬉しげに、ポツリと呟いた。
頬から離れた手が、の手を握った。
「冷えるな。先刻はああ言ったが、そろそろ中に戻ろう」
ドゥドゥーがゆっくりとした足取りで歩き出す。はぎゅっとドゥドゥーの手を握り返した。
「ねぇ、中に戻ったら踊ってくれる?」
「おれが相手では絵にはならないだろうが……」
「シルヴァンが言ったことなんて気にしなくていいわよ。ただの軽口だもの」
「……おまえと踊るのなら、練習しておくべきだった」
強面のドゥドゥーが一人で踊るところを想像して、はくすくすと笑った。ドゥドゥーと踊るほうが、ディミトリと踊るよりもよほど緊張したことは、しか知らない。