鏡に映る自分の顔に、指を這わせる。
口角を上げてみれば、当然ながらその顔も微笑んだ。は視線をわずかに落として、薄い肩を見つめた。指の形に肌の色が変色していたが、それももうだいぶ薄まってきていた。
過去に囚われているのは、ディミトリばかりではないとは知っていた。はため息を吐いて、おもむろに瞼を下ろす。
──ディミトリ=アレクサンドル=ブレーダッドは死んだよ。
ディミトリが告げた言葉を思い出すたびに、は悲しくて苦しくて、やりきれなくなる。けれど、かつてのだって、もう死んでしまったようなものなのだ。ディミトリの言葉を否定しながらも、その気持ちは痛いほどによくわかる。わかってしまう。
「…………」
痛みが引いていくのと同時に、ディミトリの存在が、希薄になってしまうような気がした。身体に残った傷跡は、が望んだものでもある。
それを伝えたら、ディミトリはどんな顔をするのだろうか。
ふ、とは自嘲の笑みを零した。
「おや、お早いですな」
振り向いたは、ロドリグの姿を認めてなお、口を開くことをしなかった。ふい、と視線を逸らしたに対し、ロドリグが苦笑する。
「本来であれば、あなたも殿下と共に士官学校に通われていたのでしょうね」
「……本来?」
は皮肉げに唇を歪めて、ロドリグを見た。
「それを言うなら、ディミトリはいま頃国王陛下のはずよ」
「……その隣には、あなたがいらっしゃる」
「ロドリグ、くだらない話をするのはやめて! あなたが郷愁に浸るのは結構よ、でもそれにわたしを巻き込まないでちょうだい。わたしは士官学校には通えなかったし、ディミトリはいまだに王じゃない。そればかりか、ファーガスは……」
そこまで言って、は不機嫌に口を噤んだ。
落ちた沈黙が気まずいとばかりに、外で鳥が羽ばたく音が聞こえた。はロドリグに背を向けて、教卓に指を這わせた。ここで、五年前、ベレスが教鞭をとっていたらしい。
には、ディミトリの学校生活を知るすべなどない。
「近くにいても、ディミトリに触れられない」
ぽつり、とは呟く。
ガルグ=マク大修道院に来てからというもの、はそれを痛感していた。ディミトリの目には映らないし、声も届かない。手を握り、身体を重ねたって──
「……ロドリグ。ディミトリのこと、お願いね」
は振り向かぬまま、小さく告げた。
教室の入り口に立つロドリグが「それは、承服できかねます」と答えたが、は聞こえないふりをする。もうすでに、はガルグ=マクを去ると決めていた。後ろ髪を引かれてならないが、どのみち王都へ行くつもりはないのだから、いつまでもディミトリの傍にいることなどできないのだ。
は静かに目を閉じる。己の無力さが憎くて、仕方がなかった。
ロドリグの訃報を受けて、は呆然と立ち尽くした。
グロンダーズ平原では、帝国軍、王国軍、同盟軍がぶつかり合い、激しい戦いになるとは聞いていた。誰かの命が失われることになろうとも、よもやファーガスの盾たるロドリグが亡くなるなんて、は想像していなかった。
「ディミトリは、無事なの?」
の声は震えていた。
帳の降りた大聖堂は、静まり返っていた。もう長いこと女神に祈ることなどしていなかったが、は膝をついて、黙祷をささげた。騎士ではないに、ロドリグの気持ちがわかるわけもなかった。そこにあるのは、哀悼の意だけである。
はのろのろと立ち上がって、ぼんやりと天井を仰ぎ見た。そこに美しい硝子窓があれば、さぞ荘厳だっただろう。しかし、いまは無残に崩れ、雨粒が降り注いでいた。
いつもはやさしく差し込む月明かりも今夜はなく、大聖堂は寂しげな雰囲気に包まれていた。もっとも、それはの心情のせいでそう見えるだけかもしれなかった。
「わたしが死んだほうが、よかったのにね」
の小さな声が雨音に紛れる。
きっと、ロドリグが聞けば、さぞ怒ることだろう。その姿が容易く想像できた。けれども、はそう思わざるを得なかった。
「わたしは」
伸ばした手の先に雨粒が触れた。冷たい、と感じることができるのは、生きているからに他ならない。
「わたしじゃ」
ぎゅ、と手のひらを握りしめる。
濡れた感触はあれど、何かを掴んだようには感じない。の手は、この雨粒のように、何もかもを取りこぼしてしまうのだ。わかりきったことだった。
は、濡れた手に視線を落とした。
「……わたしじゃ、だめなのよ。ロドリグ」
ただ、生にしがみついているだけの、己では──ディミトリを救えやしない。
瓦礫を踏みしめる音に気づいて、は振り向く。
どうせこんな夜更けに大聖堂を訪れるのはディミトリくらいだとわかっていたが、その濡れ鼠となった姿に、は瞠目した。肩回りの毛皮が、まるでしょげる犬のように毛を寝せてしまっている。
無造作に伸びた金の髪から雫が落ちる。頬を伝い落ちていくそれが、まるで泣いているみたいに見えた。は視線を背ける。
ディミトリにとって、ロドリグがどういう存在だったか、は知っている。喪った痛みを、などが分かち合えるわけもない。
は唇を結んだまま、ディミトリの横を通り過ぎる。ひとりにしてあげようと思ったのだ。
「え──」
腕を掴まれる。冷たさにぞっとすると同時、ぎりりと指先が食い込んで、鋭い痛みが走った。
じっ、とと見下ろす視線は、手負いの獣のような鋭利さと焦燥を孕んでいた。は痛いと文句を言うことすら忘れて、その瞳を見つめ返す。
このひとは、どこにいるのだろう。
はディミトリを前にすると、いつも思う。この瞳にを捉えているのだろうか。
「ディミトリ」
はそっと、ディミトリの手に触れる。硬い籠手の感触は、を寂しい気持ちにさせる。ディミトリはどこもかしこも冷たい鎧に覆われて、体温が混じり合うことはない。
「風邪をひいてしまうわ」
「ならば、お前が温めればいい」
およそ、ディミトリが放った台詞とは思えなかった。
ディミトリが濡れた外套を床に放る。はそれを一瞥してから、ディミトリを睨みつけた。
「……いやよ」
「なんだと?」
「いやだって言ったの。ディミトリ、手を離して」
「…………」
ディミトリが押し黙る。手が離れる気配はない。
「あなたを温めてくれるのは、きっと……」
ディミトリの冷たい唇が、の言葉を封じてしまう。唇をこじ開けて、口腔内に侵入してくる舌が、冷え切った身体に反して熱い。濡れた髪がの頬に触れる。
「っ、ディミ」
背けた顔を掴まれ、無理やり唇を奪われる。
──この獣に、喉元を喰いちぎられてしまいたい。
そんな思いがふと、脳裏を過ぎった。しかし、それはの本心ではなかった。
ディミトリは理性を失った獣ではない。死霊でもない。真面目でやさしかったが故に、故人の無念や憎悪を背負っているだけの、悲しきひとだ。
「……ッ」
好き勝手に口の中を蹂躙する舌に歯を立てれば、ディミトリが素早く唇を離した。隻眼が、射殺さん勢いでを睨む。
は竦みあがることなく、ディミトリを冷静に見つめ返す。
「ねえ、ディミトリ。グロンダーズでは、会いたいひとに会えた?」
「……仕留め損なった」
「ふぅん、追いかけなかったのね。あなたらしくもない」
ロドリグが、とディミトリが唸るように呟くので、は肩を竦めた。
「そう、あなたは死者を思いやる心はあるのだったわね。わたしも死んだままでいたほうがよかったかしら。そうしたら、あなたはわたしの名を呼んでくれたのかもね」
「……なにが言いたい」
「わたし、あなたの特別になりたかった。ずっと、そう思っていた。でも──ついぞ、そんな存在にはなれなかった。なれやしないの」
ふう、と小さく息を吐いたを、ディミトリがじっと見つめている。
そこに、先刻までの鋭さはない。
「わたしは、いまも昔も、”エル”が羨ましい。その目に映るなら、憎悪だってなんだって構わない。でも、もう終わりにしないとね」
ディミトリの隣に立つのは、ではない。
もうとっくのとうに気がついていたその事実を、ただ受け入れるだけだ。は、ディミトリの顔へ手を伸ばした。指先で、雨の粒を拭う。
「ディミトリ、どうか、生きて」
好きだとか愛しているとか、そんな言葉ではもはや、の想いを伝えることは難しい。は、ディミトリと再会してから、ずっと彼が死なないことだけを祈り続けている。
ディミトリは眉のひとつも動かさなかった。
は眉尻を下げて、微笑む。
「ベレス先生は、あなたを導いてくれるわ」
わたしにはできないことを、彼女ならやってくれる。は確信を得ていた。
唇を結んだまま、ディミトリが瞳を閉ざす。は、ディミトリが追いかけてくれることも、呼び止めてくれることもないと知りながら、踵を返した。
当たり前のように傍にいたから、これから先もずっと、傍にはがいるのだと幼いディミトリは思っていた。
「こんなものいらない!」
そう言って、が投げつけたのは、ディミトリが彼女の誕生日のために贈ったクマの人形だった。受け取ったときは「ありがとう」と顔を綻ばせていたはずなのに、何故がこんなにも激高しているのか、ディミトリには皆目見当がつかなかった。
赤く染まった白い頬を涙がはらはらと落ちていくので、ディミトリはますます困惑した。
「どうして?」
「……ディミトリって、ほんとうにばか!」
バタン、と荒々しく閉じられる扉を呆然と見ていると「いやー殿下、すいません。短剣差し上げたのって、さまじゃなかったんですね」と、シルヴァンが顔を覗かせた。
今さらそれを怒ってもどうしようもなかったので、ディミトリはため息を吐いてクマの人形を拾い上げた。ディミトリの瞳と同じ色をした宝石がはめ込まれたクマの目が、どこか寂しげに光った。女の子に短剣はない、と散々言われたので、仕方なくシルヴァンに相談をして結果的にほとんど彼が選んだといっても過言ではなかった。
けれど、に喜んでもらいたいという気持ちは、ディミトリの本心なのだ。
「殿下、買い物ならまた付き合いますよ」と、シルヴァンは言ってくれたが、ディミトリは断った。それではきっと意味がないのだと、ディミトリは遅まきながら気がついたのだ。
たとえ的外れなものを選んだとしても、は喜ぶのだと、そんな単純なことにさえ思い至らないディミトリは確かに馬鹿だった。次に顔を合わせるときには、誠心誠意の謝罪と、祝いの言葉とともに贈りものを渡そうとディミトリは心に誓った。
こんなふうにと喧嘩別れをして、それが後生の別れとなるなんて、ディミトリは知る由もなかった。
誕生日は母の領地で過ごす、と王都を離れた一家を乗せる馬車は賊に襲われ、ディミトリがに再び会うことは叶わなかったのだ。
彼女の誕生日が来るたびに、渡せるはずもない贈りものがひとつ増えて、ディミトリには不釣り合いなものが部屋を彩った──もっとも、これはファーガスに政変が起きる前までの話である。
ふと視線を動かした先に、埃かぶった髪飾りを見つけて、ディミトリは手を伸ばした。
それは、ガルグ=マクで購入したものだった。自分と同じ年頃になっていたのなら、おそらくはこういったものを好むのではないか。そう思いながら、この贈りものを選んだ。もう五年も前のことになるのだ、とディミトリは隻眼を細めた。
ディミトリは、馬鹿を通り越して、大馬鹿者である。
手の中でパキリと音がする。やってしまった、よりも、またかという気持ちのほうが強い。ディミトリは手を開いて、壊れた髪飾りを見つめる。
ディミトリの手は、きっと、こんなふうに傷つけるばかりだ。
だから、に手を伸ばしてはいけない。