片方だけの視界に白い脚が見えた。薄汚れた靴を履いていて、つま先まであることから生きた人間だと判断する。しかし、もはやディミトリにはそれが亡霊だろうと何だろうと、どうだってよいことだった。
「お兄さん、いつまでそうしてるの?」
壁に凭れて座るディミトリの顔を覗くため、しゃがみ込んだようだった。
脚と同じく、白いかんばせが目の前に迫る。「失せろ」と、ディミトリは小さく告げたが、怯む様子はない。
「こんなに血だらけで……おいで。わたしが綺麗にしてあげる」
「……」
差し出された小さな手のひらから、目を逸らす。問答すら億劫で、ディミトリは硬く目を瞑った。敵意や殺意がないことは明白であり、女の細腕では何かできるわけもなかった。
指先が、頬に触れて肌をなぞる。
いつ、どこで付いたのかも、誰のものかもわからぬ返り血は、乾いて剥がれ落ちる。
「生きているのに、死んでるみたいよ」
悲しそうな声がぽつりと落ちた。
そうだ、死んだのだ。叔父殺しの罪を着せられて、ディミトリ=アレクサンドル=ブレーダッドは死んだ。あの学び舎で笑っていた青獅子の学級の級長は、もういない。
「失せろ」
「きゃっ……」
少し払っただけで、細い体躯は地面に叩きつけられるように倒れた。申し訳ないと思う良心などなく、ディミトリは物言わずに瞳を伏せる。
白い脚が再び視界に入った。
「乱暴されるのは好きじゃない。お兄さん、女の顔に傷をつけたらどう責任をとるか知らないの? いい加減、立ちなさい。あなたの足は飾りじゃないでしょ」
仁王立ちしてディミトリを見下ろす女の頬は、地面に倒れた際に擦り剥いたのか血が出ていた。視線が合うと、怒った顔が和らいだ。
「おいで、綺麗にしてあげる。おまけに寝床もつけちゃうよ」
血の滲む頬を緩ませながら、小さな手はディミトリの手を無理やり掴んだ。
小さな寝台は、二人分の重さに耐えかねるようにギシリと軋んだ音を立てた。組み敷いた身体が細かく震えている。
「責任をとって欲しいんだろう」
「……お兄さん、本当に責任とる気ある? 一晩抱けば許されるわけじゃない」
怒った顔をする女を無視して、ディミトリは薄い布に指をかける。「誘ったのはお前だ」と、吐き捨てるように言って服を剥いでしまう。
「誘うって……っ、」
顕になった膨らみに手を這わせば、びくりと震えた身体が強張る。
柔らかな脂肪を手中に収めながら、ディミトリは細い首筋に顔を埋めた。頸動脈が、トクトクと早い律動で脈打っているのがわかる。
己の怪力では、この小さな身体など容易く壊してしまうとわかっていた。針や槍でさえも折るのだ。ディミトリは注意を払いながら、指先を乳房に沈めた。
「乱暴に、しないでね」
ため息交じりに囁いて、女が身体の力を抜いた。
細いくせに、どこかしこも柔らかい感触が不思議だった。舌を這わした首から、汗に混じって甘い香りがする気がした。
女の指が、ディミトリの古傷を撫でる。労わるような仕草なのに、何故だか扇情的だ。
ディミトリは顔をあげた。
痛ましげな顔をして、伏せられた瞳は悲壮に満ちていた。同情めいているわけではなく、まるで自分の傷のように感じているように見えた。
「……痛みなどない」
「うん、今はね。でもちゃんと血が出て、痛かったはずだよ」
過ぎたことだ。その程度の痛みは、己のために死んでいった者たちを思えば、どうということもない。先生を、ドゥドゥーを失ったことを思い出すほうが、心臓を握り潰されるような痛みを覚えるというものだ。
ディミトリは女の手を払った。
「忘れた」
事実、この身が動く限りは、傷の大小などディミトリには関係がない。
肩口に顔を埋めて、しっとりと汗ばむ肌に軽く歯を立てる。びくっ、と跳ねるように女の身体が震えた。「は、ぁ」と、頭上から漏れる吐息は熱っぽい。
胸に置いたままの手に気づいて、ディミトリは申し訳程度に力を込めた。手のひらの中で、ふにゅりと脂肪が形を変える。白く柔らかいそれは空に浮かぶ雲を思わせたが、確かな重みも体温も手を通して伝わってくるのだから、不思議だ。
次第に中心が硬さを帯びていくのを、手のひらに感じる。押し潰すように少し力を込めれば、小さく声をあげながら女が身じろぐ。
「ふ、ぅん……」
鼻にかかったような甘ったるい声だが、耳障りではない。一瞥した女の顔は歪んでいたが、それが不快からくるものではないことは明白だった。
ディミトリは視線を女の胸元へ落とす。
ぷくりとした乳首は、肌と同じく色素が薄く桃色だ。他人と比べようはないが、柔らかくも張りのある乳房はふっくらと丸く、綺麗な造形をしているのだろう。
こんなふうに、身ひとつで生きていくためだけに美しくあるのならば、虚しいことこの上ない。
憐れだ、とこの瞬間初めてディミトリは思う。
だからといって、同情を覚えるわけでも、この行為をやめるつもりもなかった。ディミトリは、胸に顔を寄せる。は、と女が小さく息を呑む気配があった。
舌先で乳首をつつくように舐めれば、乳房全体が揺れた。ディミトリは乳輪ごと口に含み、舌の表面で乳首を潰す。
「やあっ……!」
甲高い声は悲鳴じみていた。
舌を押し返してくる尖りをちゅうと吸ってみる。当然ながら、母乳が出てくるわけでもない。乳飲み子のような真似をしていることが可笑しく、ディミトリは鼻で小さく嗤った。
女の手がディミトリの髪に触れる。不思議と振り払う気にはならず、むしろ優しく髪を梳く指が心地よくすらある。古傷を撫でた時と同じく、慈しむ手だ。
「……やめろ」
ディミトリは、低く唸るように告げた。
もはや、自分に手を差し出す人間などいなくて良いのだ。女の手は離れずに、ディミトリの頭をそうっと抱きしめた。
「嫌よ。恋人みたいに、なんて言わないけど、身体を重ねる以上は情が欲しいもの」
「……」
「いま、この瞬間、わたしはお兄さんのことをとても大事に思っているわ」
くだらない、と内心で一蹴して、ディミトリは乳首に舌を伸ばす。ぴくんと女の身体が小さく跳ねて、後頭部に回った指先に力が籠る。痛みはなかった。
「ん、っン、はっ、あ」
身体の震えに合わせてあがる女の声が、狭い室内に響く。
なだらかな腹部に沿って手を這わし、脚の付け根に指先を触れる。女が慣れた様子で、脚を左右に割り開く。
くちゅ、と秘部に指が触れると湿った水音が鳴った。人差し指が容易く飲み込まれた。なかは熱く、膣壁は柔らかいのにぎゅうぎゅうと指を締め付けてくる。
「あッ、あ、ん……ねぇ、わたしにもさせて?」
する、と女の指がディミトリの肩を撫でる。
ディミトリは上体を起こした。「必要ない」と素っ気なく告げて、自身を秘部に添える。十分に勃起しているから愛撫の必要などないという意味だったのだが、目に見えて女が気落ちするのでそうは伝わらなかったのだろう。
構わず、ディミトリは先端を割れ目に押しつける。一瞬だけ、女の身体が強張った。
「」
ふいに、女が呟く。
「わたしの名前、呼んで……お兄さん」
ディミトリはうんともすんとも言わずに、女──の腰を掴むと、亀頭を秘部に埋めた。わずかな抵抗はあれど痛みはないようで、の口からは甘い嬌声が漏れる。
愛液が潤滑剤となって、陰茎はそのまま奥へと沈んでいく。
「ン、ぅ、ふう……!」
体格の差からか、すぐに先端は最奥まで達したようだった。の身体が弓形にしなる。
身丈のあるディミトリにとって、女性は皆小さく華奢で、とて例外ではない。こんなにも小さいのに、己の一部を受け止めることができる女性の身体は、まったく理解が及ばない。
「お兄さん、動いて?」
きつく閉じられていたの瞳が薄らと開く。目尻から、涙が溢れて落ちる。
腰を引いて、打ちつける。ディミトリは、鍛錬のように単純な動きだと思った。
「っあ、や、んんッ、ああっ」
ごり、と膣壁を抉るような感覚を亀頭に感じる。それが好いのか、ごりごりと擦れる度に、が一際高い声をあげた。
「は、ああっ……!」
指先が白むほどの力で、が敷布を握り締めている。情が欲しいなどと言いながら、ディミトリにすがることはないのが可笑しかった。
の浮いた腰を引き寄せて、奥を繰り返し叩く。
「あ、あぁ……っ、だめ、ア、いっちゃ……!」
ほとんど言葉にならない声は、喉が締まったように掠れていた。の身体がつま先までピンと強張り、膣壁がディミトリの陰茎をきつく締めつける。射精を促すその動きに、ディミトリは思わず眉をひそめて息を詰めた。
はあ、と大きく吐き出された息とともに、の身体も弛緩する。
「ん……お兄さん、気持ちいい?」
「……」
白い指先が、ディミトリの腕に触れる。「わたしはね、すごく気持ちいい」と、がはにかむように笑った。
ディミトリには性欲などないに等しい。もっと言えば、食欲も睡眠欲もほとんどない。生きる上で必要だから、食べるし寝るに過ぎない。口にして美味しいと思うことも、安心して眠りにつくことも、もうずっとしていない。
これはただの、刺激に対する生体反応だと認識している。
その少女のような笑みを、ディミトリは何故か直視できずに視線を背ける。「あ、」と短く声をあげたをうつ伏せにして、再び奥まで陰茎を挿入する。
「んんぅ……!」
華奢な背中が震える。
汗ばんだうなじに唇を寄せて、小さく歯を立てる。まるで獲物を得た肉食動物の気分だった。
「はあっ、ああ、っひ、んん!」
背後から突きあげる度、の身体が跳ねてはくねる。髪の毛が波打つように乱れ、ディミトリの頬に触れては離れていく。
「あ、ッは、おにい、さ」
ゴツ、と音が鳴ったかと思うほどの勢いで、最奥を穿てばが悲鳴じみた嬌声をあげて達する。びくびくと震える身体を押さえつけて、ディミトリは己の欲を放つためだけに、腰を打ちつける。
「やあアっ、だ、めえ!」
立て続けに達したのかわからないが、なかはずっときつく締めつけたままだった。抜けていく陰茎を逃すまいとしているかのようだ。
ディミトリは奥歯を噛みしめながら、白い臀部に向けて精を放つ。
荒い呼吸を繰り返すが首を捻って、ディミトリを振りかぶる。名を呼んでやろう、という気になど到底ならなかった。ただ、この熱が確かなものであると認識するために、ディミトリはこめかみに貼りつく髪を払って耳にかけてやる。
頬の傷が滲むように赤いのがわかった。
ふ、とがまなじりを緩めて、優しく微笑んだ。
それは少女のようにあどけなく、女性らしく妖艶で、母のように慈愛に満ちていた。
寝台から抜け出す気配で、意識が浮上する。
眠っていた、と言うよりは、体力の限界に達して倒れていたと言う感覚のほうが近い。の手が髪を撫でる。この細腕では、ディミトリを殺したくても殺せないことなどわかっていたので、あえて目を開けることはしなかった。
「……名前、呼んでくれなかったね」
寂しげな声だった。
呼べるわけがないのだ。ディミトリにとっては「お妃様にしてくれるって、言ったのに」と、“いまこの瞬間”に耳元で恨みがましく囁く少女だ。
「名前を教えてくれもしなかった」
この場限りの関係に名を教える必要もない。ディミトリは硬く目を瞑るが、眠気などやってくるわけがなかった。
部屋から気配がなくなったことを確信して、ディミトリは身体を起こした。の尽力によって鎧も、槍も綺麗になっている。
別れの挨拶など不要である。
ディミトリは素早く身支度を済ませて、寝室を出た。
「……ブルゼン、か」
小さな食卓に用意されていたのは、ファーガスの人間ならば馴染み深いパンだった。ディミトリも幼い頃から口にしてきた。士官学校でも、食堂でよく──
「ちゃん、昨日の人は大丈夫かい?」
「槍を手にしていたみたいだけど、危なくはなかった?」
「血塗れだったから、死んでいるのかと思ったよ」
窓の外から聞こえていた声に、ディミトリは思考を中断する。
この辺りは決して治安がいいとは言えないが、どうやらという女は近所の人間に慕われているようだった。
「心配してくれてありがとう。でも、みんなが思ってるほど怖い人じゃないよ」
まるで、ディミトリのことをよく知っているような口ぶりである。
士官学校の生徒だった可能性はなきにしもあらずだ。はたまた、政変によって没落した貴族かもしれない。
他愛ない世間話を終えて、が戻ってくる。卓上のブルゼンが減っていないのを確認して、が寝室の扉を開けた。
「え……ディミトリ!」
もぬけの殻の寝台を見、そしてディミトリが身につけていたものがなくなっているのを目にして、が思わずといったように叫んだ。
やはり、この女は俺を知っている。
扉の影に隠れていたディミトリは、片手で首を掴んでを壁に貼りつけた。
「ぐっ……」
が苦しそうにしながらも、安堵に眉尻を下げる。ディミトリが少し加減を間違えれば、容易くこの首は折れるだろう。
「貴様は何者だ」
「う、く……よ、わからない? あなたの婚約者だった、!」
わずかに手を緩めれば、が畳みかけるように言葉を投げつける。
ディミトリは顔をしかめた。
「馬鹿な、は死んだはずだ」
「ところがどっこい、悪徳貴族に飼われて生きていました! 政変による混乱に乗じて屋敷を抜け出したの」
婚約者であるは、一家を乗せた馬車が賊に襲われ亡くなっている。遺体を確認したのは、ディミトリの叔父であるリュファスだ。
ずき、とこめかみが痛む。
にわかには信じられなかったが、ディミトリは手を離した。床に落ちたが咳き込みながら、ディミトリを見上げた。
くす、と耳元で少女が笑う。「ディミトリの嘘つき。わたしを守ってくれるんじゃなかったの?」と、いつものように己を責める声は、ディミトリにしか聞こえない。
「あなたこそ、生きていたのね」
がそっと微笑んだ。
──ああ、とディミトリは思う。彼女は確かになのだ。亡霊の少女の姿が消えていく。
がよろよろと立ち上がって、ディミトリを抱きしめた。
「ディミトリは生きてる。ねぇ、だから、死んだような顔をしないで」
胸に縋りつきながら顔をあげたは、泣いていた。ずきり、と痛んだのが頭だったのか、それとも他のどこかだったのか、ディミトリにはわからなかった。
の亡霊が消えようと、ディミトリにはまだ多くの亡霊の姿が見えている。呪詛のような言葉は絶えず聴こえてくる。
「……ディミトリ=アレクサンドル=ブレーダッドは死んだよ」
だからどうか俺のことなど忘れてくれと思うのに、ディミトリの手はもう二度との身体を払い除けることができそうになかった。