ちらちらと雪が降っていた。
ファーガスと比べれば、大した寒さではなかった。けれど、長く外にいれば身体は冷えるというものだ。
「ディミトリさま、風邪を召されますよ」
いつも傍に控えるドゥドゥーの姿はなく、ディミトリひとりが佇むのが見えて、は声を掛けた。普段と変わりのない格好をしているので、見ているのほうが寒くなる気がした。
振り向いたディミトリの頬は、冷えて赤くなっていた。それなのに、ちっとも寒さなど感じていないかのような顔をしていた。肩につけた級長の羽織は、常と変わらずにお飾りになっている。は思わず眉をひそめ、ディミトリの手を握った。
「いつから外にいらっしゃったんです? こんなに冷えて……ほら、中に入りましょう。雪なんて見慣れているでしょうに」
は冷たい手を引っ張る。
物言わずに付いてくるディミトリは、母親に手を引かれる幼子のように頼りない。
屋根のあるところまで来ると、は足を止めてディミトリを見上げた。頭や肩についた雪を払ってやってから、ディミトリの顔を覗き込む。
「ディミトリさま」
色白のディミトリの頬は、赤みが目立ちやすい。鼻先も滲むように赤くなっている。
「……ガルグ=マクにも雪が降るんだな」
ディミトリが意外そうに言った。
冷たい手がの手首を掴んだ。ひやりとした感触に、は小さく肩を跳ねる。
「おまえは温かいな」
そっと、囁くようにディミトリが言った。
ディミトリが冷えているだけだ、と指摘できなかったのは、どこか寂しげな微笑が溶けて消える雪のように儚く見えたせいだ。
ディミトリの口元から吐き出された細い息が、白い靄となってすぐに消散する。
「食堂に行きましょう。何か温かいものを口になさってください」
「ああ、わかった」
「……行かないんですか?」
わかったと言った割に動こうとしないディミトリを、は訝しげに見た。
曇天を見つめていた碧眼が、を映す。切り揃えられた前髪が濡れて、重たげに揺れていることに気づく。
「いや、行こう。おまえまで冷えてしまったな」
握ったままだった手首に今気がついたとばかりの顔をして、苦笑を漏らしたディミトリが手を包んだ。「手を繋ぐ必要はないと思います」と、は慌てて言ったが、ディミトリの手にがっちりと掴まれて離すことは叶わない。
食堂に着くと同時にその手は解かれたが、誰かに見られやしないかとは気が気でなかった。
「ディミトリさまはもうすこし、ご自分が王族であることや見目麗しいことを、自覚なさったほうがよいと思います」
ディミトリがきょとんとする。
ガルグ=マク士官学校においては、確かに次期国王やら次期皇帝やらは関係のない同じ生徒同士だが、ただの同級生として接することは難しい。
これまで何度か堅苦しい口調をやめるように言われたが、同じ教室で何節と過ごそうとも、どうにも変えられそうにない。
「それは、どういう……」
「気安く手なんて繋いだら、勘違いされてしまいます。誤解を招きますよ」
「……なるほど」
ディミトリが神妙な顔をして頷く。理解したのか怪しい反応だった。
「ディミトリさま、」
「も勘違いをする、ということか?」
「え?」
先ほど離れたばかりの手が、の手を捉えた。「ご、ご冗談を、」狼狽するを嘲笑うでも揶揄うでもなく、ディミトリがじっと見つめてくる。
食堂内は寒くもないのに、の頬が赤みを帯びる。
「なあ、俺が誰にでもこんなふうに触れると思うのか」
「そ、それは……」
わかりません、とは蚊の鳴くような声で答える。
周囲がちらちらとたちを見ていることに気づいて、恥ずかしさに耐えきれずに俯く。
「み、みんな見てます……」
「……そうみたいだな。すまない」
ディミトリが気まずげに言って、手を引っ込める。はほっと息を吐いた。
「ディミトリさま、座っていてください。今、何かお持ちします」
はちらりとディミトリを盗み見る。濡れた前髪を指先で払うディミトリが、周囲から向けられている好奇の視線を気にする様子はない。自分ばかりが意識してしまっているようで、さらに恥ずかしい。
無意識のうちにディミトリの言葉を脳内で反芻してしまい、は慌ててかぶりを振った。
情けないことに、風邪を引いたのはだけだった。喉に違和感を覚えたと思ったら、あっという間に発熱してしまって講義を休むほかなくなってしまった。
熱は下がったものの、マヌエラから大事をとってゆっくり休養するようにと言われて、は寝台でアネットから借りた帳面を開く。勉強の遅れを取り戻さなければ、と思うが、病み上がりのせいかなかなか頭に入ってこない。
「……はあ」
は帳面を閉じて、寝台に横たわる。もう十分に睡眠をとったため、目を閉じても眠気はやってこなかった。
もう一度ため息を吐いて、ごろりと寝返りを打つ。
いっそのこと、身体を動かしたほうが元気が出そうだった。しかし、出歩いたところを見られたら担任のベレトはもちろんのこと、級友たちに心配された挙句に苦言を呈されるに決まっている。
無理やり閉じたの瞳は、すぐに扉を叩く音で再び開くこととなった。
随分と控えめな音で、静かにしていなければ聞き逃してしまいそうだった。聞き間違いかと訝しむうちに、もう一度小さく音がする。
「はい」
「ディミトリだ。すまない、入ってもいいだろうか」
「ディ、ディミトリさまっ? あ、ま、待ってください。いまお開けます!」
は慌てて寝台から飛び起き、掛布を整える。鏡の前で髪を直して、可笑しなところがないか確認する。ふうと一息ついてから、は扉を開けた。
背の高いディミトリはただそこに立っているだけで、にはそびえ立つように感じた。
廊下にはディミトリの姿しかない。「どうぞ、お入りください」と、緊張しながら告げると、ディミトリが遠慮がちに入室した。
一脚しかない椅子にディミトリを座らせて、は寝台に腰掛ける。
「本来ならすぐに見舞いに来るべきだったんだが、イングリットたちにまだ遠慮したほうがいいと言われてな」
「お気を遣わせてしまって申し訳ありません」
「今日は、マヌエラ先生から大事をとっているだけだと聞いて……元気そうで、安心した」
ディミトリがまなじりを下げて、やさしく笑んだ。
思わずどきりとする。下がったはずの熱が、また上がってきたのではないかと錯覚しそうだった。はディミトリの視線から逃れるように、目を伏せる。
「熱はもうないんだな?」
ふいに、ディミトリの手のひらがの頬に触れた。確かめるだけの行為だとわかっていても、恥ずかしい。
「少し熱いような気がするが、本当に大丈夫なのか?」
「ディミトリさまの気のせいです! 明日にはもう講義に出ていいと、マヌエラ先生にも言われています」
そうか、と頷いたくせに、ディミトリの手は頬から離れていく気配がない。
は落とした視線を上げて、恐る恐るディミトリを見る。ディミトリの碧眼が、思いのほか近くにあっては息を呑んだ。
「勘違いでも、誤解でもないと言ったらどうする」
「え?」
する、と頬を滑る手が、の輪郭をなぞる。その指先が顎で止まって、俯きがちのの顔を持ち上げる。
「触れたいのは、。おまえだけだ」
じっと見つめてくるディミトリの瞳から目を逸らすことができない。
の頬だけではなく、全身がじわじわと熱を帯びていく。風邪とは違う理由で、倒れてしまいそうだ。