「ずるいなぁ、殿下」
頬杖をついたシルヴァンが、明らかに不服ですという顔をして、呟いた。
傍らに立つイングリットもまた「ええ、シルヴァンに同意するのは癪ですが、私もそう思います」と頷いた。
責めるような視線を受けて、ディミトリは眉を顰める。そんなふうに言われる理由が、すぐには思いつかなかった。しかし、幼馴染でありながら水と油のようなシルヴァンとイングリットが、まったく同じ表情で顔を見合わせる。本当にわからないのか、という声がディミトリには聞こえた気がした。
「急になんだ。二人して」
「いやいや、殿下。何も言ってこないかもしれませんが、フェリクスの奴だって同じように思ってますって」
はあ、とシルヴァンがため息を吐いて、呆れたように肩をすくめた。
幼馴染たちが揃って「ずるい」とは、いったいどういうことだ。ディミトリはむ、と眉間に皺をさらに寄せる。
「とお茶したらしいですね」
「と食事に行かれたみたいですね」
シルヴァンとイングリットの言葉が重なる。それは、ほとんど同じ響きを持っていた。ずるい、と言外に如実に表れていて、ディミトリはようやくはっと気がつく。
「俺なんてもう何度も誘ってるんですよ? なのに、まさか殿下に先を越されるなんて」
「随分楽しくされていたとか。私にはとても余所余所しいのに」
余所余所しい。
少し前までは、ディミトリに対してもそうだった。やや強引だったかもしれないが、自分の思いをきちんと言葉にして伝えてからは、乳母兄妹らしい態度も節々で見られるようになった。ディミトリは正直ほっとしている。
ディミトリの乳母兄妹であったは、必然的に己の幼馴染とも親しくしていた。五年前に彼女が王都を去るまでは、同性であるイングリットとは特に仲が良かったと記憶している。だというのに、ガルグ=マクで再会してからというもの、いまだに幼馴染らととの関係はどこかぎこちない。
「待ってよ、フェリクス!」
の声が聞こえて、ディミトリは振り向く。
フェリクスに腕を掴まれ、引きずられるが近づいてくる。「この猪が居れば満足なんだろう」と、フェリクスが眉間に深い皺を刻んで、ディミトリを見下ろす。
相変わらずの猪呼ばわりに苦笑を零しながら、ディミトリは立ち上がる。
追従するように立ち上がったシルヴァンが、ひどく気やすい仕草でフェリクスの肩に腕を回した。
「なぁフェリクス、女の子は引きずるものじゃないぞ」
シルヴァンが咎めるように言って、フェリクスの手からの腕を解放する。実に自然だった。
「何があった?」
フェリクスが答えないことなど百も承知である。ディミトリはに向かって訊ねるが、戸惑うように視線を彷徨わせるばかりだ。
シルヴァンの手を払いのけたフェリクスが、フンと嘲笑うように鼻を鳴らした。
「お前が頑固なのが悪い」
「そっちだって、大概しつこいけど……」
「なんだと?」
一緒になって剣を振り回していただけあって、の気はそこそこ強い。
フェリクスの睨みに怯むことなく、がむっと唇を尖らせながら負けじと睨み返す。
「フェリクスにしつこく何をされたの?」
埒が明かないと判断したのか、イングリットが視線を遮るようにフェリクスとの間に身を割り込ませた。
「……手合わせがしたいって、もう何度も断ってるのに」
「おいおい、何だってそんなに断るんだ? 俺たちの仲だろ」
シルヴァンが今度はの肩を抱いて、ぱちりと片目を瞑ってみせる。「シルヴァン、離れて」と、イングリットがすかさずその手を払い落した。
こうして揃うと、昔の光景のようで、何だか懐かしいような気になってくる。
ディミトリは思わず、ふっと笑みを漏らした。が困った顔で助けを求める視線を送ってくることには気づいていた。ディミトリが笑ったことで、がますます困り果てたように眉尻を八の字に下げる。
「、皆も俺と同じ気持ちなんだ。わかってやれ」
だけど、とが視線を落とした。
ぎゅうっと握りしめられる拳を、イングリットの手がやさしく包んだ。
「だけど、何? 私はいまでもあなたの親友だと思っている。は違うの?」
「ち、違わないよ」
「へぇ、じゃあ俺のことは? まさか仲間外れになんてしないよな?」
「シ、シルヴァン……」
「チッ……うるさい奴らだ。おい、訓練場に行くのか、行かないのか?」
フェリクスの視線がたじろぐばかりのから、ディミトリへと移る。
「付き合え」
首を横にも縦にも振らないだったが、結局五人まとめて訓練場に向かった。引きずりさえしなかったものの、ディミトリらに囲まれたに逃げ場はないも同然である。
フェリクスが剣を構える。が緊張した面持ちで、剣を手にする。
ちら、と一瞬だけの視線がディミトリを捉えた。
「ほう、余所見とは余裕だな」
「わっ」
キン、と剣がぶつかり合って甲高い音を鳴らす。
何度か軽く打ち合ったのち、フェリクスが強く一歩踏み込んだ。ふわっと浮き上がったの前髪を剣先が掠める。チッ、と舌を打ったフェリクスの表情は楽し気だ。
「で、どうやってを口説いたんです?」
ふいに、シルヴァンが口を開いた。
「口説く?」
「そういえば、殿下も当初は避けられていましたよね」
イングリットが不思議そうに首を傾げる。
はダスカーの悲劇を逃れたことに負い目を感じている。おそらく、グレンのこともすでに耳にしているはずだし、フェリクスやイングリットには殊更合わせる顔がないと考えていてもなんら可笑しくはない。
ディミトリはふと、の小さな手の感触を思い出す。
「……そうだな。あれは、なかなか堪えた」
「あの、殿下? 俺たちはいまも堪えてる最中なんですがね」
「あ、ああ、すまない。そうだったな」
シルヴァンが笑みを引きつらせる。「私たち、何かしてしまったんでしょうか」と、イングリットが悲しげに呟いた。
「いや、そういうわけでは……」
一層激しい金属音が響いて、ディミトリは口を噤んだ。
力に押されて後手に回っているが、一度フェリクスから距離を取った。逃がさないと言わんばかりにフェリクスが地を蹴った。
「だって!」
フェリクスの剣戟を捌きながら、が叫ぶように声を張り上げた。
剣を打ち合う間にフェリクスと言葉を交わしていたらしいが、ディミトリたちには会話の一つも聞こえていなかった。いったいどうした、と顔を見合わせる間にも二人の剣戟が、激しさを増していく。うるさいくらいの金属音にかき消されぬよう、が更に声を大きくする。
「わたしだけ、王都を離れてのうのうと暮らしてたんだよ!」
「それがどうした。お前がいたところで、何ができたわけでもないだろう」
「わかってるよ!」
フェリクスの一撃がを打ち負かす。息を荒げたが、がくりと膝を付いた。
「それでも、ディミトリの傍にいてあげたかったし、みんなと一緒に苦しいことも乗り越えたかった。みんなにどんな顔して会えばいいのか、ずっとわからなかった……」
乱れた髪をかき上げながら、フェリクスがため息を吐いた。「おい、」と呆れたふうに呼んで、俯いたの顔をフェリクスの両手が頬を挟んで無理やり上げさせる。
泣き出しそうな瞳がそこにあった。
「くだらない。過去は変えることはできん。お前の悩みはただの時間の無駄だ」
「フェリクス、そりゃ言い過ぎだろ……」
「フン、俺は事実を言ったまでだ。いいか、もう二度と俺たちを避けようだなんて考えるな、馬鹿馬鹿しい」
フェリクスが吐き捨てるように言って、踵を返す。そうして、そのままさっさと訓練場を後にしてしまう。
シルヴァンとイングリットが手を貸して、を立ち上がらせる。
ディミトリは近づくと、の顔を覗き込んだ。
「、言っただろう。俺たちはお前に会えて、嬉しいんだ」
揺れた瞳が見る間に潤んで、ぎゅっと閉じられる。
「嫌われていたわけではなかったんですね、よかった」
「どうなることかと思ったが、これでまた仲良くやれそうだな」
シルヴァンとイングリットがほっと顔を綻ばせる。ディミトリもまた、安堵の笑みを浮かべた。
フェリクスの言葉こそ辛辣ではあるものの、詰まるところはに以前のように接してほしいのだ。
ディミトリは、の目尻から落ちた涙の粒を、指先で拭ってやる。ぱち、と開かれた瞳がディミトリを見上げた。濡れた睫毛が瞬きのたびに、ゆっくりと動くようだった。
白く滑らかな頬を涙が伝っていく。
引き寄せられるように、ディミトリは無意識に頬に手を伸ばした。
「……殿下、まさかホントに口説き落としたんです?」
シルヴァンが呆然とした様子で言った。
ディミトリは「お前と一緒にするな」と声を尖らせながら、やさしい仕草での涙に触れた。
「ディミトリ、と呼んでくれたな」
「あ……つい、咄嗟に」
「構わない。むしろ、そのほうが俺は嬉しい」
ディミトリは笑みを深める。が困ったと言わんばかりに視線を逸らしたので、ディミトリは小さく声を出して笑った。
「、これを使って」
イングリットがさっと手巾を差し出し、を引き寄せた。さながら姫を守る騎士のようである。
「イングリットがいるんじゃあ、手を出せませんね」
「だから、お前と一緒にしないでくれ……」
はあ、とディミトリは眉間を押さえながらため息を吐いた。
しかし、先日の温室でのやり取りは、幼馴染たちにも話す気には毛頭なれなかった。