嫌れているのではない、とわかっていても、あまりに余所余所しい態度をとられて悲しくなってくる。本人に理由を問うても首を横に振るばかり、ドゥドゥーに聞いても「おれにはわかりません」の一点張りで、ディミトリは途方に暮れていた。
 自分と同じく昔馴染みであるフェリクスらにはどうなのだろう、と思ってみれば、ディミトリに対するように妙に距離を取ろうとしているようだった。

 フェリクスに訓練に誘われても断っているし、シルヴァンに気安く声をかけられても戸惑うばかり、イングリットと食事をしても話が弾まない。
 ──快活に笑う彼女は、どこにもいなかった。

 幼き頃、乳母兄妹として誰よりも近くにいて、誰よりも互いを理解していたというのに、今ではディミトリはのことが何一つわからない。

、少しいいだろうか」

 びくっと小さくの肩が跳ねる。振り向くより早く、声をかけたのがディミトリであると気づいていたようで、怯えるような瞳が見上げてくる。
 ふ、とディミトリは苦笑を漏らす。

「そんなに俺が怖いか?」

 自分では何かをしたつもりはないが、知らないうちに傷つけていたのかもしれない。そう思って問いかけるが、が慌てて首を横に振る。

「……お前はそればかりだな」

 びくりとの肩が再び震えた。
 乳母である母親を亡くし、彼女が王城を去ったのは五年ほど前のことだ。
 それからどのように過ごしてきたのかなど、ディミトリには知る由もない。けれども、それはも同様に、ディミトリが何を思いながら生きているかなど知らないのだ。

 こうして再会できたことを喜んでいるのは、まるで自分ばかりのようである。
 が困ったように眉尻を下げる。そんな顔をされては、何だか悪いことしているような気分になってくる。

「いや、いい。責めているわけじゃない」

 ディミトリは緩くかぶりを振る。

「先生が探していた。会いに行ってやってくれ」
「わざわざすみません、殿下」

 殿下、とにそう呼ばれるのはどうにもむず痒い。
 が仰々しく頭を下げて、逃げるように走り去っていく。小さくなっていく背を見つめながら、ディミトリはため息を吐く。

「上手くいかないものだな」

 以前のように、とまでは言わない。けれども、彼女の笑った顔くらいは見たいものだ。





 温室には随分と不釣り合いな大きな図体は遠目でも認められた。ドゥドゥーが植物に詳しく世話に精を出していることを知っているため、ディミトリは何ら不思議には思わなかった。
 ドゥドゥーに近づいて初めて、ディミトリはその背に隠れての姿があったことに気がついた。ディミトリの姿もまたドゥドゥーに遮られているようで、がこちらの存在に気づいた様子はない。背を向けているドゥドゥーも然りである。

「わたしは、肝心な時にあの方の傍にいてあげられなかった」

 の声はひどく悲しげだった。思わず、声をかけることが憚られるほどで、ディミトリは開いた口を結ぶ。

「だから、あなたがいてくれて良かった、と本当にそう思うんです」
「……殿下は、悩んでおられる」
「わたしだって……本当は、昔みたいにディミトリって呼んで、笑い合って剣を競いたい。でも、そんなことは許されない」

 何故、とその言葉は、ディミトリの喉の奥で消える。

「何にも知らないわたしには、みんなの傷には触れられない」

 ──傷。
 ディミトリは己の手のひらへと視線を落とした。その手は汚れてなどいないのに、血塗られたように真っ赤に染まっているような気がした。

「あなたのほうが、ずっと彼を理解しています。わたしの分まで、どうかディミトリを支えてあげてください」
「それは、殿下の望みではない」

 ドゥドゥーの言葉に、が首を横に振る。士官学校で再会してからというもの、何度も見てきた仕草だ。
 ダスカーの悲劇は、確かにファーガス神聖王国に大きな傷跡を残した。親しい者を亡くしたのはディミトリだけではない。凄惨な光景は、いまだ眼裏に焼きついて消えてはくれない。許すな、と誰かの声が聞こえたような気がして、ディミトリは眉を顰める。

 盗み聞きのようになってしまったことに、良心の呵責を覚える。ディミトリは足を踏み出す。はっと息を呑んで、が目を見開いた。



 俯くはディミトリを見ようとしない。ぎゅう、と両手が不安げに裳裾を握りしめている。

「ドゥドゥー、ありがとう。あとは、俺に話をさせて欲しい」

 ドゥドゥーが 深々と頭を下げ、退席する。
 俯いたままのの肩を、ぽんと気安く叩く。が恐る恐る、というように顔を上げた。視線が揺らぎながら、ディミトリを捉える。

「殿下……いつから、聞いておられたのですか?」
「お前に畏まられるのは、どうにも慣れないな。できるなら、ディミトリと呼んで欲しい」
「そ、そんなこと、」

 がかぶりを振りながら、一歩後ずさる。逃げられないように、ディミトリはの腕を掴んだ。困惑した顔がディミトリを見上げる。

「俺は」

 ぐ、と反射的に掴んだ手に力がこもって、が痛みに顔を歪めた。
 それに気づいて、ディミトリは慌てて手を離す。己の馬鹿力に自覚はあれど、普段から物を壊してばかりである。

「す、すまない」

 腕が赤くなっていないのを確認して、ディミトリはほっと息を吐く。
 きょとんと瞳を瞬いたが、小さく笑った。

「相変わらず、力が強いんですね」
「あ、ああ……大丈夫か?」

 はい、とが頷く。そうして、「大丈夫です、逃げたりしません」と、やさしく双眸が細められる。

「……触れても、いいか?」

 がもう一度頷く。
 ディミトリは慎重すぎるほどにそうっと、の手を握った。それは、ひどく小さくて、頼りなげな手だった。

「お前の手は、こんなにも小さかったんだな」

 ディミトリは呆然とした気持ちで呟く。

「違います。殿下が大きくなられたのですよ」
「……そうか」

 同じような背丈で、同じように剣を振り回し、馬を乗り回していたあの頃とは何もかもが違って当たり前である。
 が控えめに、ささやかな力で握り返した。

 俯いていた顔は、まっすぐこちらに向けられている。いつも影をつくっていた睫毛はかかっておらず、瞳にディミトリの姿が映る。

「四年前、俺はお前が王城に居なくてよかったと思っている」

 巻き添えを食らって命を落としてたかもしれないし、何よりあの光景を目にして欲しくなかった。
 ふにゃりと眉毛を八の字に下げて、が泣きそうな顔をする。

「頼むから、距離を取らないでくれ。お前に会えて、俺は心の底から嬉しいんだ」

 軽く手を引くだけで、の身体は容易く傾いて、すんなりとディミトリの腕の中に収まる。ぎゅ、と多少力を込めて抱きしめても、が抵抗することはなかったし、何か声を上げることもなかった。
 躊躇いがちに、がおもむろに背中に手を回す。

「ただ近くで育っただけなのに、まるで双子みたいな特別な絆を感じていました」
「……ああ、俺もだよ」
「それなのに、わたしは、あなたが一番苦しいときに傍に居られなかったし、あなたの悲しみや痛みを理解してあげられない」

 ディミトリの胸の内には、誰にも打ち明けられない澱のようなものが溜まっており、それは時おり渦巻いて込み上げてくるような感覚がする。
 ──どう足掻いても、吐き出すことができない。
 しかし、の手が背を撫でるたびに、胸がひどく苦しくなると同時に、心が穏やかになるような気がした。

 伝えたい言葉はいくつもあったはずだった。
 けれども、そのどれもが声にはならない。ただ、抱きしめる腕に力がこもる。

「痛いよ、ディミトリ……」

 ようやくが腕の中で苦しげに訴えるが、ディミトリはすぐには力を緩めることができなかった。


 離しがたい、と思ってしまったせいで、ディミトリは腕を解いたものの手を掴んでしまう。「逃げませんよ?」と、が驚いたように瞳を瞬かせる。

、もう一度」
「え?」
「ディミトリ、と呼んでくれただろう」

 がはっとして、唇を指先で押さえる。
 申し訳なさそうな顔をするので、ディミトリは小さく笑った。

「そうじゃない。できれば、余所余所しい殿下よりも、ディミトリと以前のように呼んでもらいたいんだが」
「で、でも」
、俺は今でもお前とは特別な絆を感じている」
「え、あ、」

 戸惑うの手を口元に引き寄せて、その手のひらに口付ける。びくっと震えが手のひらを通して伝わってくる。
 が「ず、ずるいです」と、声を震わせる。
 ディミトリはそれ以上は何も言わず、唇を軽く触れたまま視線だけでその先を促した。

「……ず、ずるいってば、ディミトリ!」

 静かな温室に響いた声は、ディミトリのよく知る乳母兄妹のものに違いなかった。

手前

(いくらだって、手を掴んで、引いてやる)