クロードは思わず、ぽかんと間抜け面を晒してしまった。一瞬、亡霊でも目にした気分になって、しかしそんなわけがないとかぶりを振った。
「おいおいナデル、どういうことだ?」
詰問するようにきつい口調になるのも、致し方ないというものだ。
クロードに睨まれたナデルが、決まり悪げに肩を竦めた。ナデルとて、ここにいるべき人物でないことくらい、百も承知なのだ。クロードは、ナデルの背に隠れ、影のように付き添う女へと視線を移した。
俯いていて、顔がよく見えない。
胸の前で組まれた手が、細かく震えている。そこにあるのは、明らかな怯えだ。
「おひいさんがあまりに不憫でな」
ナデルの言葉を受けて、ますます顔を俯かせるものだから、クロードからはつむじばかりがよく見える。
どうしたものか。クロードは眉間を指で押さえ、ため息を吐いた。
びくり、と女の細い肩が大袈裟なほどに震えた。「申し訳ございません」と、か細い声が告げると同時に、女が跪き頭を垂れた。額が地面と接触している。純白の衣装が地に広がり、汚れてしまっていた。
ぎょっとしたのはクロードだけではない。ナデルが慌てて、女を抱き上げるようにして立たせた。そうでもしないと、恐らくずっと頭を下げ続けたに違いない。
「あー……、久しぶりだな」
気の利いた言葉のひとつも出なくて、クロードは内心で舌を打つ。女が、おもむろに顔をあげた。
どきりとしたのは、その美貌のせいだろうか。まだあどけなさを残しながらも、化粧を施されたその顔は、はっとするほど美しかった。
「はい、ご無沙汰しております。兄上」
兄上、と呼ばれるのはひどくむず痒くて、クロードは何とも言えない顔をする。
がさっと目を伏せ「クロード様」と、言い直した。感情の機微に敏い。ナデルからあらかたの事情は聞いているだろうし、クロードの反応から血縁関係と知られたくないのだと判断したのだろう。
長い睫毛が作る影を、クロードは黙って見つめる。
腹違いの妹であるのは確かだが、パルミラにいた頃だって、兄妹らしいことをしたことなど皆無である。むしろ、こうして目の前に現れるまで、の存在など忘れていたほどだ。
ナデルの言いたいことはわかる。輿入れという晴れの日だというのに、まるで死刑台に向かうような顔をしている。
一見華やかな花嫁姿であるが、よくよく見れば衣装も簡素であり、これといった装飾品も身に着けていない。
望んだ結婚ではないのは明らかだったし、祝福された結婚というふうにも見えなかった。
「ほとぼりが冷めるまで、おひいさんを匿ってやれないか?」
「そりゃ俺だって何とかしてやりたいが……」
「よいのです。わたくしのことなど、どうか捨て置きください。これ以上、ご迷惑をおかけするわけには参りません」
が丁寧に腰を折り「こうしてクロード様のお元気そうなお姿を見ることができて、幸いにございます」と、本音とも建て前ともつかぬ弁を述べる。
クロードはナデルと視線を交わす。どうすべきか迷っているのは、ナデルも同様であるようだ。当然だ、メリセウス要塞を前にして、足踏みしている暇などない。けれど、このまま捨て置くことなどできるわけがなかった。
まるで御前を退出するように踵を返そうとしたの手を掴む。
「悪いが、俺たちは戦争真っただ中でな。お前に構っている余裕がない……が、一度差し伸べた手を引っ込めるほど、人でなしではないつもりだ」
クロードを見つめるが「いいえ」と首を横に振った。
「もう十分です」
「、」
「ほんとうに、もう十分なのです。クロード様、ナデル様、ありがとうございました」
「…………」
そう言われても、クロードはの手を離してやる気にはなれなかった。
が困惑した顔をクロードに向ける。
「……いや、悩んでいる暇はないな。ナデル、が戦いに巻き込まれないようにしてくれ。要塞を落としてから、後のことは考えるとしよう」
「合点承知よ! 坊主、そっちも抜かるなよ」
「。必ず迎えに来る、だからひとりで何とかしようなんて考えるなよ?」
が少しも納得していないようだったので、クロードは念を押して言い含める。躊躇う様子を見せながらも、がこくりと頷いた。
「おい、坊主! 何だよあの光の……杭みたいなやつは」
飛竜の羽音に顔をあげれば、ナデルが地に降り立つところだった。
ナデルのたくましい腕には、が抱かれている。怪我をした様子はなく、クロードはほっと息を吐く。
難攻不落と謳われたメリセウス要塞は、まさしく光の杭が天から落ちて、跡形もなく消え去ってしまった。何だと問われても、クロードにもわかるわけがなかった。
「帝国の仕業と考えるには違和感がある。だとすれば誰がやった……? そもそも目的は? 俺たちを殺したいなら、なぜ今まで使わなかった……?」
クロードは首をひねりながら、に手を差し出す。パルミラ生まれのパルミラ育ちらしく、がクロードの手を借りて、慣れた仕草で飛竜から飛び降りる。
ふわ、と純白の衣装が広がって、すらりとした脚が覗いた。
「ありがとうございます、クロード様」
律儀にも、兄上とは口にしない。
「ああ、わからないことだらけのまんま、危うく死ぬとこだったよ」と、やれやれと言ったふうにかぶりを振りながら、ジュディットが近づいてくる。腰に手を当ててふんぞり返ったジュディットが、ナデルに胡乱な目を向けた。
「何で、ここにナルデールがいるのかも、私にはさっぱりわからないんだけどね」
「ジュディット、」
「さあ、説明してもらおうか。あんたたち、私を騙してたね?」
止めようと口を挟んだことは悪手だったらしい。ジュディットに睨めつけられ、クロードは言葉を詰まらせる。ダフネルの烈女に気圧されたのはクロードのみならず、ナデルも同様だったようで、慌てた様子で飛竜が翼をはためかせる。
風圧に飛んでいきそうなを抱き寄せ、クロードは目を細めた。
「うっ……坊主、俺は部下どもをパルミラまで送ってくる」
「おい、ナデル! 俺を置いて逃げる気か?」
クロードの叫びも空しく、ナデルはさっさと飛び立ってしまう。
残されたクロードは、針の筵に座っている心地がした。ふと、腕の中のが心配そうに見上げていることに気づいて、クロードは笑みを浮かべる。
「心配ご無用、お前のことも上手く言っておくよ」
クロードの言葉に、が小さく頷く。あまりに従順過ぎて、何か裏があるのではないかと疑りたくなるほどだ。
「ナデル……? ナルデールってのは、あの“百戦百勝”のナデルだってのかい!?」
ジュディットに詰め寄られ、クロードは肩を竦める。黙っていたベレトが、ぼんやりとした顔で首を傾げた。
「百戦百勝?」
「正しくは“百戦無敗”な。パルミラ人は、そういう派手な異名が好きなのさ」
「ただ者じゃないとは思ってたが……いいや、それよりもクロード。そちらのお嬢さんは紹介してくれないのかい?」
ジュディットが、に視線を向けた。値踏みするような不躾なものだったが、が動じることはなかった。
「ちょっと、のん気に喋ってる場合なの? また光の杭が降ってきたら死んじゃうよ!」
ヒルダが桃色の髪を振り乱しながら叫ぶ。
クロードはベレトと顔を見合わせ、頷いた。
妹、と紹介できるわけもなく、はナデルの姪を名乗らせることとした。
訳あって、しばらくパルミラには帰れない──仔細を話さずともその恰好を見れば訳ありなのは明らかで、同情的な視線と共には皆に受け入れられた。最も、金鹿の学級には人の好い世話好きな連中ばかりなので、クロードはそこに関しては心配などしていなかった。
長い王宮暮らしのせいか、世間知らずの面が目立っていたが、ヒルダやレオニーの手を借りて今やすっかり周囲と馴染んでいる。パルミラ人らしく飛竜の世話が得意で、甲斐甲斐しく面倒を見ているようだった。
飛竜の様子を見に厩舎に足を運べば、ほとんどいつも、がいた。
花嫁衣裳を脱ぎ去ってなお、その美貌は際立っていた。すり、とが愛おし気に飛竜の鼻先に頬を寄せる様は、まるで絵画を見ている気分になるほどだ。
「あ……クロード様、ご機嫌麗しゅう」
クロードに気づいたが、ご丁寧な挨拶をくれる。
散々フォドラの貴族社会に揉まれたとはいえ、毎度こうでは肩が凝って仕方がない。
「畏まらなくていい。もっと砕けた……あー、ヒルダみたいな態度で構わない」
「……努力いたします」
がほっそりとした指先を唇に添え、困ったように小首を傾げた。
「ここでの生活は慣れたか?」
「はい、とてもよくしていただいて」
あ、とが小さく声を上げる。
クロードは怪訝にを見やった。
「ええと、あの、みんな優しくて助かってるよー」
思わず、クロードはぽかんとを見つめた。
ヒルダみたいな、とは言ったが、真似をしろという意味ではなかった。沈黙に耐えきれなくなったのか、がさっと顔を伏せる。
「あ、いや、悪い。可笑しいとかじゃなく、ただ驚いて──」
いつになく歯切れが悪い。クロードは内心で悪態をつく。
「……はい、わかっています」
がおもむろに顔をあげた。頬を薔薇色に染めて、はにかんだ笑みを浮かべる。
「精進いたします」
エーデルガルトを討ち、レアを救出してなお、この戦いはまだ終わりではなかった。
「ようやく帝国を打倒できたってのに、勝利に酔う暇もなく次なる戦支度とはね……」
クロードは小さくぼやいて、ため息を吐く。
どうやら、宴はまだ先のようだ。
誰もいない教室は、物寂しげである。机についた傷を指先でなぞると、学生時代のことが思い起こされた。五年前のクロードは、この教室で級友と笑い合っていた。
馬鹿みたいに張り合っていた級長は、もう二人ともいない。郷愁に駆られている場合ではない、とクロードはかぶりを振る。
ふと、教室に入り口に投げた視線の先に、が立っていた。
「あ……申し訳ございません! お声はかけたのですが、あの、決して覗き見するつもりはなかったのです」
の声が尻つぼみに小さくなる。
あれから、だいぶ砕けた物言いにも慣れたようだったが、時おり素が出てしまっている。小さく吹き出せば、もそれに気づいたようではっと唇に手を添えた。
「突っ立ってないで、こっちに来いよ。俺に何か用なんだろ?」
がこくりと頷いて、おずおずと教室に足を踏み入れる。
クロードはかつての自分の席に腰を下ろすと、隣にを座らせた。机に肘を立て、頬杖をつくクロードに対し、はピンと背筋を伸ばして着席している。物珍しそうに瞬く瞳が、クロードを捉えた。
くすっとが笑う。
「クロードくんったら、だらしない格好して。盟主様がそれでいいの?」
「は……」
がくん、と手に乗せていた顎がずれ落ちる。
まさかに「クロードくん」などと親しげに呼ばれるとは、夢にも思わなかった。柄にもなく面食らって、クロードは唖然とを見つめた。
クロードの驚きように、も驚いたらしく、目を丸くしている。
「ご、ごめんなさい。不敬が過ぎました」
「構わんさ。はは、クロードくんね……案外悪くないかもな」
「……お気遣いなさらないでください」
が不安げに顔を伏せる。
クロードは、顔にかかった髪を指先で掬い、耳にかけてやる。さらりとして指触りのよい髪だ。ちら、とが窺うようにクロードを見やった。
「クロード様に、これをお渡ししたかったのです」
が取り出したのは、矢筒帯だ。細かく刺繍が施されている。
「ほんとうは帝都に発つ際にお渡ししたかったのですが、間に合わなくて……使っていただけますか?」
「ああ、もちろん」
「昔読んだ物語では、姫が騎士に剣帯をお守りとして贈っていました。実は、ひそかに憧れていたんです」
「いいのか? そうなると、を守る騎士は俺になるんだが……」
ちょっと揶揄うつもりで、クロードはの顔を覗き込んだ。きょとんとしてから、がはにかむように微笑む。
「クロード様がよいのです」
どきりと跳ねた胸を、クロードは咄嗟に抑えた。
表向きは腹違いの妹だが、実際はクロードと血の繋がりはない。
の父親はパルミラ王ではない──それは暗黙の了解として知られており、パルミラの末姫でありながら、彼女は王宮でとても肩身の狭い思いをしていた。
女ゆえに王位継承権はなく、他の兄弟に表立った敵意を向けられることはなかったが、その扱いは石ころ同然であった。ただ、傾国の美女と謳われた母親の美貌を受け継いだせいで、年を重ねるにつれて性的な視線に晒されることが増えた。
それを知りながらも、の母親は守りもしない。パルミラ王も、血の繋がりのない娘に興味を示すわけもない。
使いようによっては、美貌は強力な武器だ。
けれど恐らく、にとっては、無用の長物だったに違いない。
「ご迷惑だったでしょうか」
美しいかんばせに、影が差す。
迷惑ではなかった。むしろ、喜ばしいと思ってしまったことが、問題だった。
「……いや、嬉しいよ。ありがとう」
よかった、とがほっと息を吐いた。
「クロード様のご武運をお祈りします」
当然ながら、祈るのはセイロス教の女神ではない。フォドラで過ごした時間が長いせいか、それが妙に不思議な心地がした。
クロードは先ほどと同じように、だらしなく、机に頬杖をついた。
「なあ、もう一回。クロードくんって呼んでみてくれないか?」
「え? で、ですが」
「こらこら、堅苦しい言い方はやめるように言っただろう。そうだな……ここは教室だし、それこそ俺を級友だと思って」
が視線を彷徨わせる。
緊張した面持ちでクロードを見たかと思えば、恥ずかしそうにすぐに目を伏せる。耳まで赤く染まるのも、きゅっと結ばれる唇の様子も、クロードはつぶさに見つめた。
「……クロードくん、」
そろり、とクロードを見上げた瞳は、わずかに潤んでいた。
「あ、あんまり、意地悪しないで」
「さて、どうするかな。好きな子には意地悪したい性質でね」
「…………え?」
が首を傾げる。
クロードは、の頬に手を伸ばした。指先に、赤みを帯びた頬の熱が伝わってくる。
「この戦いを終えたら、俺はパルミラに戻るつもりだ」
「……」
「その時は、お前を連れて行こうと思う。もちろん、兄としてじゃなく……ひとりの男として、惚れた女と結婚するためだ」
「そん、な、カリード兄上、」
ついぞ、再会してから口にすることのなかった、クロードの本名が飛び出てしまうあたり相当動揺している。ふ、とクロードは笑んだ。
「どうせ、俺とお前に血の繋がりはないんだ。あとは──が覚悟を決めるだけ、ってな」
するりと肌に指を滑らせると、がくすぐったそうに身を捩った。嫌がっている素振りではない。
が一度、何かを堪えるように目を閉じた。
そうして開かれた瞳は、睨むような力強さをもって、クロードを見つめた。
「覚悟ならば、フォドラの地を踏んだ時よりできております。わたくしは、クロード様のためなら火の海や地獄にだって行く心づもりです」
「待て待て、俺はそんなこと望んじゃいないが……」
「わかっております。わかっておりますが、父王は、わたくしをお認めになるはずがありません」
の懸念は痛いほどにわかる。はいわば私生児であるし、輿入れをすっぽかした身でもある。
だとしても、クロードは諦めるつもりなどこれっぽちもなかった。
「俺を誰だと思ってるんだ? 心配いらない、必ず説得して見せるさ」
だから、と言ってクロードはの耳へと唇を寄せた。顎髭が頬に触れて、が首を竦める。
「今度は逃げないでくれよ、花嫁殿」
「……っ」
戸惑うが頷くのも時間の問題だ、とクロードはにやりと笑った。