(※クロードの本名ネタバレあります)







































 好きな茶葉だった、ご馳走様。K

 K、と最後に添えられていた一文字に指を這わせる。走り書きされた一文ばかりに気を取られていたが、茶器を片付けてもう一度紙に目を落としたとき、はKの字を見つけた。クロードがこの紙切れを残していった日以来、顔を合わせることはおろか、手紙のやりとりすらない。聞きたいことばかりが増えて、結局はクロードに何ひとつ問うことができなかった。
 もう彼の顔すら、はっきりと思い描くことは難しい。

 ガルグ=マクがアドラステア帝国によって陥落してから早五年が経過していた。グロスタール領に隣接した家は当然の如く親帝国派を表明し、実質とクロードの婚約は破棄となった。母にはそれが相当な心労だったようで、今では寝込みがちでに口煩くすることもない。寂しくもほっとしたような、不思議な心地である。
 は家のための道具に過ぎない。名のある貴族子息に嫁ぐことだけが、には求められていた。けれど、このご時世では──

「お嬢様、ローレンツ様がお見えです」
「……そう。すぐに行くわ」

 小さな紙切れを大事にしまって、は立ち上がる。もう二度とクロードに会うことはないかもしれない。そう思うのに、何故だかこの紙を捨てることができないのだ。



 いつも通り伸びた背筋が目に入って、は丁寧に腰を折る。ローレンツのことは昔から知っている。とクロードの婚約を人伝に聞いたローレンツに、ひどく詰られたことが懐かしい。
 顔をあげたの頬に、ローレンツの指先が触れた。

「顔色が優れないようだが、眠れていないのか?」

 その指先がの目尻をなぞって、離れていく。ふわ、と薔薇の香りが鼻をかすめる。武器を持つ手だというのに、指先まで手入れされているのだから、ローレンツの貴族としての誇りやら意識というのには脱帽だ。
 は頬に手を添えて、首を傾げる。

「よく眠っているのだけれど……」
「そうか。何、僕の勘違いのならばそれでいい。今日は、どうしても君に伝えたいことがあって、訪ねさせてもらった」

 どうしても伝えたいこと、の見当がつかず、は首を傾げたままローレンツを見上げた。菫色の瞳がほんのわずかに陰りを帯びる。

「僕は、約束を果たすためにガルグ=マク大修道院へ行かねばならない」
「やくそく、」

 ふいにローレンツが膝をついて、の右手を恭しく取った。気障ったらしい仕草は、ローレンツの常である。今さら驚くことも動揺することもなく、は黙ってローレンツに視線を落とした。

「君を置いて行かねばならぬことが、僕にとっての唯一の心残りだよ」

 大仰な言い方をして、ローレンツが手の甲に口付ける。
 は小さくため息を吐いた。

「はいはい。足手まといは連れていけないっていうだけでしょう」

「……それに、ガルグ=マクにはあの方だって」

 はローレンツの手を払う。立ち上がったローレンツが「」と再び名を呼ぶが、は顔をあげる気にならなかった。

「……何か、伝えたいことは?」

 首を横に振る。
 そうか、とだけ言ったローレンツが手渡してくれた手巾からは、華やかな薔薇の香りがした。それが可笑しくて小さく笑えば、ローレンツがほっと息を吐くのがわかった。
 心配してくれているのだ。心配させてしまうほど、弱って見えているのかもしれない。

 は瞼に、真っ白な手巾を押し当てる。じんわりと涙が吸い込まれていく。薔薇の香りが肺を満たしていくと同時に、ローレンツのやさしさが胸に染み渡るようだった。

「ありがとうございます、ローレンツ。どうかご無事で」
「ああ。も、息災がないよう祈っている」

 ──伝えたいことはたくさんあり過ぎて、直接でなければ気が済まない。






 バタバタと慌ただしい足音に気づいて、は顔をあげる。
 扉を叩くことも忘れた侍女が「お嬢様!」と、泣きそうな顔で叫んだ。はローレンツからの書簡を置いて、駆け寄る。

「どうしたの? 何が」
「盟主様です!」
「え?」
「盟主様がお見えなんですぅっ!」

 盟主──リーガン公が亡くなったのち、跡を継いだのはクロード=フォン=リーガンに他ならない。
 半泣きの侍女に急かされ、は着替えと化粧を済ませて客間に向かう。閉じられたこの扉の向こうに、クロードがいるのだと思うと不思議でならなかった。は背筋を正し、小さく息を吸い込んだ。

「お待たせして申し訳ありません」
「堅苦しい挨拶はよせよ、仮にも婚約していたんだ」

 笑うその顔には髭が蓄えられていて、は思わず凝視してしまう。五年ぶりに目にしたクロードには少年らしい線の細さがなくなって、貫禄のようなものを感じる。記憶にある彼を思い起こそうにも、それはやはり困難だった。

「……そう言われましても。あなたとそんなふうに言葉を交わした覚えはありません」

 は目を伏せて、すげなく告げる。クロードがわざとらしく肩を竦めた。

「うまく同盟諸侯を丸め込んだみたいですね」
「丸め込むって、そりゃまた随分な言い方をしてくれるもんだ」
「……嫌味のひとつやふたつ、構わないでしょう」

 これまたすげなく言って、は椅子に腰を下ろした。手をつけた様子のない紅茶とお茶請けに、ため息がこぼれる。

「何なら、もう二度と顔をお見せにならなくても結構でしたのに」

 クロードの視線がを観察している。それに気づいて、もまたクロードを見つめ返した。翡翠の瞳が挑発的に細められる。
 今になって訪ねてくる理由がわからない。
 もはや婚約者ではないこの男に、愛想を振りまく必要もない。は微笑むこともなく、クロードから視線を外した。

 聞きたいことも、伝えたいことも、何ひとつとして口にできそうになかった。

「俺への興味はなくなっちまったか?」
「お答えしたくありません」
「ふーん? じゃあまた、質問するのは俺のほうってわけだ」
「お答えするつもりはありません」

 はクロードを睨みつけた。
 まなじりに力を入れるのに、目の縁に溜まった涙が落ちそうになる。

 果たされない約束ほど虚しいものはない。
 こんなふうに、クロードのために着飾る自分が馬鹿馬鹿しくて仕方がない。クロードのために用意していたカミツレの茶葉を、自分で消費する日々に嫌気が差していた。

 それなのに──彼を前にして気づいてしまった。はまだ“今度”を待ちわびていたのだと、気づかされてしまった。
 
「お帰りください」
「嫌だね」
「お願いだから、帰って……!」

 伽羅色の指が目尻に触れる。クロードは、ローレンツのように手巾を差し出すのではなく、直接涙を拭うのだ。昔馴染みのように親しい間柄でもなく、相手のことをよく知り理解している仲ではないのに、距離を詰めてくる。
 猜疑心の塊だと言うくせに、には心を開かせて懐柔するつもりなのだろうか。

 は身を引いて、クロードの手を振り払う。

「俺は帰らない。泣いてる女を置いて帰るほど薄情者じゃないしな」
「泣いていません!」

 思わず声を荒げて、は立ち上がった。このままでは、までもクロードに丸め込まれてしまいそうだ。
 侍女を呼ぼうと、呼鈴に伸ばした手をクロードに掴まれる。

 あ、と思う間もなく手を引かれて、の身体はクロードの元へと倒れ込む。「おっと」と、わざとらしく声をあげながら、クロードがを抱きとめた。

「は、離し──
「断る。久々の再会を、もっと喜んでくれたっていいだろ?」

 の言葉を遮って、クロードが強い口調で尋ねる。ぐ、と抱きしめる腕に力が込められて、は小さく息を詰めた。腕の中から、クロードを見上げる。

「……あなたは、喜んでいるって言うのですか」
「勿論。これでも、あんたのことを忘れたことはなかったんだぜ? ほら、座って茶を飲みながら、ゆっくり話をしようじゃないか」
「話、なんて」
「“今度”は、あんた……いや、の番だったよな? これだけ時間があったんだ、聞きたいことはまとめてあるだろ?」

 クロードの顔が涙で滲んでよく見えないが、口角をあげたようだった。
 無作法に、けれどもやさしく、クロードの親指の腹がの涙を拭う。噛み締めた唇を嗜めるように、あるいは言葉を促すように、クロードの指がの下唇に触れる。

 はクロードの視線から逃れるように、目を伏せた。

「それなら、あなたの名前を教えて」

 クロードの頭文字はC、けれどあの紙切れにはKと記されていた。「これは、先生にも打ち明けてないんだがなあ」と、クロードが困ったように言うのでは落胆を覚える。
 やはり、話すことなどないと突っぱねようと、はクロードを睨みつけようとして失敗する。ふいに抱き竦められ、ぶれた視界には反射的に目を瞑った。耳朶にクロードの唇が触れる。

「カリード」

 ふっと吐息と共に耳孔に囁かれる。フォドラでは聞き慣れない、クロードとは似て非なる響きである。
 抱きしめる腕がすこしも緩まないので、は身じろぐこともできない。

「さて……俺の秘密を知った以上は、逃げられないぜ?」

 耳元で、クロード──カリードが可笑しそうにくつくつと笑う。
 扉を叩く音が聞こえて、はびくりと身を震わせる。カリードはといえば、慌てる様子もなく抱きしめたまま身を離す気配はない。

「盟主様、お戻りになられるようにと……」
「おっと、残念だが時間切れのようだな。悪いがまだ、忙しい身なんでね」

 ようやく腕の中から解放されて、は胸を撫で下ろす。赤くなった頬を見られないように、と俯かせた顔を、カリードの指が顎を掬って持ちあげる。

「また来るよ。だから、いい子にして待っててくれよな」
「えっ?」

 驚くの唇を奪ったカリードが、器用に片目を瞑って見せる。言葉を失ったの左手を掴むと、どこからか取り出した指輪を薬指に嵌めてしまう。

「俺の婚約者は、しか考えられないよ」

 ちゅ、と最後に指先に口付けて、カリードがひらりと手を振って扉の向こうに消えていく。
 何が起こったのか理解するのに時間がかかって、は窓越しに馬車を見送ることができなかった。ただ、左手の薬指の宝石が、カリードの瞳のように美しく輝くのを見つめる。

翠玉のフェリチー

(待たせて悪い、と頭を下げるなら許すしかない)